『けものフレンズ』とポスト・アポカリプス

 以下は「けものフレンズ」が流行った当時、友人との雑談のなかで「けものフレンズ面白くない」と言ったら「何が面白くないのか説明してみろ」と言われた経緯で書かれた雑文。なので、今の俺の主張を代表するものではないのだが、とりたてて公にする機会もなかったのでなんとなく公開してみる。結論としては「けものフレンズ」が面白くない、というよりは当時の一部の「けものフレンズ」需要に対する違和感を表明したものなので、「けものフレンズ」に対する直接的な批判ではないし、「けものフレンズ」に対する直接の批評ですらない。タイトルは「「ポスト・アポカリプス」としての「けものフレンズ」解釈を反駁する」だった。

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 「けものフレンズ」という作品のヒットに伴ない、「ポスト・アポカリプス」という概念が注目を集めている。半年ほど前に放映が開始されたこのアニメーションは、そのいかにも低予算という風体を隠しもしない粗雑なCGと、それに合わせた幼稚を地でいくような声優の演技で当初は批判的な意見も多く見られた。しかし、その人類の滅亡後の破局の痕跡を思わせる一種独特な世界観と、そこで繰り広げられる主人公たちの種族を越えて連帯して行く様子とが反響を呼び、シーズン屈指の人気作となっていた。有象無象の「けもフレ=ポスト・アポカリプス」的な解釈に基づいた作品論は適当にググって参照して欲しい。筆者がこの小論で述べたいのは「けものフレンズ」を「ポスト・アポカリプス」という観点から賞賛することは不当であるということ、さらに言えば「ポスト・アポカリプス」という概念自体がある種の本質を覆い隠してしまう不用意な概念である、ということだ。以下では「黙示録(アポカリプス)」のサブカル表象史を雑観しつつ、その問題点を明確化する作業を通して、我々が「けものフレンズ」から何を読み取るべきかを考察する。

 アポカリプスや世紀末という言葉の現代サブカル表象における(象徴的な)流行は1970年代〜80年代にまで遡る。たとえばコッポラの『地獄の黙示録(Apocalypse Now=今の黙示録)』が発表されたのが79年(日本での公開は80年)だ。当時の時代背景を簡単に振り返っておくと、「政治の季節」が終わって久しく、経済化がクローバルなレベルで進行しており、日本も高度経済成長期を迎えた時代。物質的な豊かさの反面、世界のグローバルな危機みたいなものに対する想像力も育ってくる時期だと言える(逆に言えば、豊かさのおかげで明日の飯より世界の存亡について考える余裕ができた、ということになる)。豊かさを享受しつつもその恩恵の裏で続く代理戦争(ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻、アンゴラ、ソマリア、カンボジアetc.)や米ソ対立の深刻化に伴なう核戦争の危機といった話題がある種の熱を帯びて語られたのもこの時代だ(『地獄の黙示録』は80年代を通じてまさにベトナム戦争=「今の黙示録(apocalypse now)」の象徴的な「イメージ」として機能していた)。人々は段々と自分たちが暮らす平和な世界が、先進国と途上国との間の落差を開発することで得られる利潤に基づくものに過ぎないことを理解し始める。

 この時代にはサブカルチャーの領域においても「終末」を喚起するイメージが次々に生産された。『未来少年コナン』(78年)、『AKIRA』(82年)、『風の谷のナウシカ』(84年)、『ターミネーター』(84年)、『マッドマックス2』(81年)などなど枚挙にいとまがない。人々の目の前にはこうしてイメージ化された破局が次々に現われ、「アポカリプス」はある種の実感を持って語られることになった(可視化、という点で象徴的な「核の時計」が53年の米ソ水爆実験成功の二分前を除いてもっとも危機的になったのは80年代、米ソ軍拡競争が激化した時期である)。先に挙げた作品たちはこうした時代背景のなかで創り出され、そして消費された。世界の終焉、破局といった感覚がフィクションの世界を超えて現実の世界とリンクして感じられたがゆえに、ヒット作品が次々に生まれた。作り手と受け手の良き共犯関係がそこにはあった。

 ただ、それは作り手と受け手の幸福な関係であったとしても、必ずしも正しい現実認識を開くものではなかったということも指摘しておかなければならない。

 問題なのは、「黙示録」という語りが徹底して「イメージ」と「レトリック」の領域に留まるものであるという事実に対する認識の欠如、換言すれば、「アポカリプス」とは元来「想像を絶するもの(イメージを根こそぎにするもの)」であるという事実に対する認識の欠如だ。コッポラには、あるインタビューで「この映画(=『地獄の黙示録』)のテーマは何か」と訊かれて「撮っていて途中で分からなくなった」と答えたというエピソードがある。全面核戦争が引き越す事態がどういうものであるのかは当時誰も理解していなかったし、それは今もって現実のものにはなっていないのだから、我々にとっても事態は同様である。

 さらに言えば、「黙示録(Apocalypse)とは、その定義から言ってそもそも「理解」され得るものではない。黙示録=アポカリプスの語源はapo-(〜から離れて)+calyptein(覆うこと)つまり、最後の幕が開いて全ての真理が明かされる、という事態を意味する。だからそれは本来、「イメージする」とか「描く」とかそういう人間の尺度を超えたところにある神的な出来事なのだが、この「表象不可能なもの」とでもいうべきものが、奇しくも80年代の熱気のなかで「アメリカとソ連のどちらかが核のボタンを押せば全ては終わり」という凡庸な終末観と逆説的に一致したのだ。

 それゆえ、量産される「アポカリプス」のイメージは人々に反戦やエコロジー、第三世界や途上国に対する責任という尊敬すべき意識を芽生えさせたと同時に、「アポカリプス」という実体を欠いた空虚なシニフィアンを流布させることになった。注視すべきは、このフィクションと現実との奇妙な一致が、現実の政治の世界ではある種の結託として現れていたということだ。というのも、「核戦争が起きたら全ては終わり」というイメージや言説が中身のない空っぽな記号として流布すればするほど、「核の管理者」たるアメリカはそこから利潤を引き出すことができたのだから。

 「アポカリプス(文学的想像力)」と「全面核戦争(現実の危機)」のイメージの限界における逆説的な一致。これが80年代を通じた、ジャンルとしてのアポカリプスの流行の正体であると言える。この両者の関係は90年代に入ることで終わりを迎える。ソ連の崩壊とアメリカ覇権の完成はつかの間の安定をもたらし、それと同時に核の危機のような現実的な危機は(少なくとも表面上は)過ぎ去って、人びとは日常の生活を生き始めた。

 「イメージの限界」という臨界点で一致していたフィクションと現実とが緩やかに乖離し、ぴったりと重なりあった幸福な関係が「失われたもの」になり、そうすることで姿を変えて回帰する。こうして登場する文学こそが「セカイ系」と呼ばれる一群の作品たちにほかならない。

 セカイ系の定義をここで詳論することはできないが、「世界の危機」と「君と僕のセカイ」が短絡することでそれらを繋ぐ中間項が削除されるというよく知られた構図は、イメージの限界としてのアポカリプスの内実を一瞥した我々の目には別様に映るだろう。つまり、セカイと世界はもともと短絡されていたのだ。中間項としての現実の社会的諸機構は「アポカリプス」というイメージ抜きのイメージを介して表象されていたに過ぎず、セカイ系的な「中間項の削除」は単にこのことを露骨に描いただけのことに過ぎない。「なんだか分からないが世界が終わる」というセカイ系の素朴かつ抽象的な想像力の表明はかえって現実をより深く見抜いていたとさえ言えるだろう。要するに、米ソ対立や「資本主義か共産主義か」といった現実世界を説明する分かりやすい図式が失効し、社会情勢が(安定した日常に反比例するように)不安定になり、経済の仕組みがますます複雑になるなかで、今度は「破局そのものがどのように我々に訪れるのかは誰にもわからない」というかたちでフィクションと現実とが出会うのだ。ただし今度は──正しくも──削除された中間項という間隙を生じつつ。

 だから、これは状況がラディカルに変わったとことを意味するのではない。むしろ、「全面的核戦争」のような「イメージの限界」に対応する分かりやすい指示対象が失われたことで、かえって「アポカリプス」という概念の臨界性が明らかになったというだけのことなのだ。現実抜きの黙示録、ただしより現実的な黙示録。

 こうした複雑かつ特異な想像力を前にして拙速な批評家は「現実を直視せよ」とでも言うかもしれないが、セカイ系の重要な論点はそこ(中間項の削除)ではなく──すでに述べたようにこれはたんに現実認識の率直な表明だった──、終末論的想像力の内部に碇シンジのような「実存」が生じてくるところにあったと筆者は考える。なぜなら、繰り返しになるが、問題となっている中間項は実のところ「イメージの限界」として80年代を通してずっと空白のままだったのであり、たんにそこに都合の良い記号(「全面核戦争」、「ジ・エンド・オブ・センチュリー」、「アルマゲドン」、そして「アポカリプス・ナウ」)が収まって「現実」に蓋をしていただけにすぎないのだから。

(さらに言っておけば、ソビエト崩壊までの「世紀末」がまさにアポカリプスのイメージを以って受け止められたのに対して、それ以降の世紀末は現実的な切迫が皆無だ。文字通りの意味での世紀末である99年のカップヌードルのCMのキャッチコピー「ま、いっか、もうすぐ21世紀だし」はまさにそんな漂白された世界観をよく表している。我々は色彩を欠いた「終わりなき日常」を生き始めていた。)

 セカイ系はサブカル的黙示文学における実存の発見だった。これらの作品群のその後の変遷もまさにこの変化に対応していると言って良い。セカイ系そのものの系譜についての詳細な検討はまたしても割愛せざるをえないが、『エヴァンゲリオン』、『最終兵器彼女』、『ほしのこえ』『イリヤの空、UFOの夏』といった作品群は、80年代の(ときに「ポスト・アポカリプス」と呼ばれた)一連の黙示録的想像力とは異なって、世界の存亡を題材としつつも、物語の主軸を、「世界」の存亡そのものよりも自己と他者との関係性としての「セカイ」に移している。90年代を通してセカイ系の主題は「大人になれないこと」、「不能性」であった。こうした無力な実存は世界の終わりに直面しながらもただひたすら「守られる」存在であって、その「弱い自己」を露悪的に描くことがセカイ系の一つの批評的役割だった。これを、アポカリプスのイメージの希薄化に反比例する実存(へのまなざし)の肥大化と見ることができる。もちろん、このアポカリプスとは最初から「空白」の別の名前だったのであり、これを看破したという点で、筆者はセカイ系を高く評価する。大人になれない「俺ら」としての碇シンジは大人のふりをしていたに過ぎない旧世代への批判でもあった。

 さらに、これに対して2000年代後半を代表するセカイ系作品である『涼宮ハルヒの憂鬱』では、世界の存亡がハルヒの感情と直結しつつも、実質的な攻防は「閉鎖空間」をはじめとする一定のルールと局限された時空間(これはまさしく「ゲーム」の定義だ)のなかに押し込められている。このことは、世界の存亡よりも「日常」のウェイトが大きくなったことを意味している。実際、「セカイの解体=キョンとハルヒの恋愛関係の不成立=世界の終焉」というセカイ系的図式の中でキョンが取る戦略は、徹底した先延ばし、日常の優先なのだ。キョンはただ「やれやれ」とため息をついてハルヒの仕掛けたゲームに付き合うことで決定的な破局を繰り延べる。ここでセカイ系は「世界の危機のなかの日常」(90年代的セカイ系)から「日常のなかの世界の危機」(ゼロ年代的セカイ系)という風に構図を反転していることが分かる。世界の終わりをゲームにすることで日常のうちに取り込むという『ハルヒ』の「ゲーミフィケーション」的戦略は優れてゼロ年代的であったと言える。

 こうなると2010年代のホモソーシャルな日常系作品群のヒットは必然的な事態だったようにさえ思えてくる。日常系はセカイ=世界の終わりという黙示録(アポカリプス)を回避するために選び取られたもっとも有効な戦略だったのかもしれない。日常系においてはもはや作品の内部に「実存=俺ら」は存在せず、鑑賞者としての「俺ら」はただ窃視症的に「日常」を享受するのだ(そんな作品群にあってなお日常から排除される「俺ら」を表象したあずにゃんの批判的性格を忘れてはならない。HTTでただひとり学年の違うあずにゃん。「卒業しても私たちずっといっしょだよね」から取り残されるあずにゃん。彼女は物語の外部として確かにそこにいた──あのがらんとした部室に、たった一人で)。実存という問題圏からの戦略的撤退。セカイ系の時代と日常系の時代とを分かつ決定的な分割線は「実存=俺ら」の在・不在である。

 このセカイ系的主題(大人になれないこと)と日常系的主題(セカイ系の回避)に同時に斜めから否を突きつけたのが『まどマギ』だったことは言うまでもない。『まどマギ』は愛と友情、そして奇跡の物語──などではない。それは、少女がアポカリプスと向き合うことで、誰かの幸福な生活(=セカイ)の裏では不可視の他者が犠牲になっているという相対性を学び、大人になる物語だ。ほかならぬ「実存=俺ら」の代わりに。『まどマギ』はアポカリプスの本質を伝えていた。「アポカリプス」は物語の内部では決してそれとして現われることのない「イメージの限界」である。だからこそ「ワルプルギスの夜」に立ち向かった少女たちの物語は、この世界から切り離されて永遠に覆い隠されるままになる。

 付言しておけば、『ハルヒ』において、まどかのように直接的にアポカリプスを引き受けているのは言うまでもなく長門有希である。 彼女はハルヒとキョンの「セカイ」からは排除されている。「情報統合思念体」が作り出した「対有機生命体コンタクト用ヒューマノイドインターフェース」である彼女は「イメージの限界」の境界−面(inter-face)に過ぎない。日常の外部としてのあずにゃんや概念となったまどか、そしてセカイから隔離された世界線でひと知れず戦い続ける長門有希といったヒロインは、たとえば「核の炸裂」というアポカリプスの相関者として我々に差し向けられているのだ。

(本論がここでまで、「核の炸裂」を徹底してイメージやレトリックの問題として扱ってきたことに違和感を覚える人もいるかもしれない。「核の炸裂」は現実に起こったのであり、そしてそれ以降も私たちは「9.11」や「3.11」という「破局」を何度も経験して来たではないか、と。もちろん筆者はそれらの現実を軽視する訳ではない。この小論で述べたいのは、それらの語り得ない経験を語るとき、そこに必然的に生じるレトリック性を見落としてはならない、ということだ。たとえば「9.11」は一つの悲劇ではあった。だがそれを足がかりに「世界の警察」としてのアメリカの地位を再び堅牢なものにしたのはレトリックの力にほかならない。我々は今や危機を経験した──「ポスト・アポカリプス」はそう囁く。「想定されるサード・インパクトは確実に世界を崩壊させる」。このレトリックこそが綾波レイと碇シンジを、そして他の全てのチルドレンたちを戦場へと駆り立てたのだ)。

 結論を急ごう。以上の理路から見て「ポスト・アポカリプス」という概念が受け入れられないということは明白だ。「アポカリプス」はそれが明かし得ない「臨界」、「イメージの限界」である以上「post-(−以後)」という接頭辞を受け付けない。だから「ポスト・アポカリプス(黙示録−以後)」などというのは語義矛盾ですらある。では「けものフレンズ」とは何なのか。これは日常系ではない。なぜならそこには、セカイ系から日常系の移行期に放棄されたはずの「実存=俺ら」がカバンちゃん=最後の人類という表象をまとって回帰しているからだ。ではそれはセカイ系なのか、当然そうでもない。『けものフレンズ』には世界の存亡に直結する「君と僕」の「セカイ」は存在しないし、そもそも「性差」なるものが存在しないかのようにすら見える。代わりにあるのは「種差」である。『けものフレンズ』の世界を確認しよう。

 舞台は「じゃぱりパーク」という近未来のテーマパーク(の廃墟)で「フレンズ」と呼ばれる人間と野生動物の遺伝子を掛け合わせたかのような人物たちがそれぞれ動物の習性に従って暮らす世界。ある日そこに現われた主人公は一切の自分に関する記憶を失っていた。おそらくは唯一の純粋な人間である主人公はフレンズたちとの交流を通じて自分が何の「フレンズ」であるかを解明するための旅をする。野生動物の特徴である爪も牙も翼も早く走るための脚も持たない主人公はフレンズたちから奇異な目でみられるが、次第に人間特有の知恵を用いて問題を解決し仲間として迎えられていく……。

 ここには確かにある種の人間中心主義の解体があるのかもしれないし、そこに人間の概念の相対化と再定義という建設的な方向性を見出すことは不可能ではないだろう。しかし、この作品が鑑賞者を魅了してやまないのは、別の理由による。それは、他の種族にはない特性をみせることで、それがどんな些細なことであっても「すごーい」と称賛される素朴な世界観である。これを筆者は「優しい世界系」と試みに呼ぶ。「優しい世界」は、セカイ系的問題、つまり実存の問題を注意深く退けている。「優しい世界」には主人公を去勢する父(ゲンドウ)は存在しない。大人になれない弱い主体を守る母(エヴァ、あるいは綾波レイ)も存在しない。そして何より重要なのは、一種族一個体という原則によってカバンちゃんは言わば必然的に「唯一性」を得ているということだ。それは世界の存亡の鍵を託されるセカイ系的実存の、重くのし掛かるような責任を伴なった唯一性ではない。「(他のあらゆる人間ではなく)あなた」という「選ばれること」を介した唯一性ではないような、所与の唯一性である。ここではもはやカバンちゃんは「大人になる」ことを求められないのだ。これが「優しい世界」の構造である。

 では『けものフレンズ』のもう一つの特徴である「破局の痕跡」はどうか。人類の滅亡後を思わせる一種独特な世界観が「優しい世界」に不穏な染みをもたらしている。物語の核心は語られずに終わるので、この点について憶測を重ねることはできないが、終盤(第10話)では「ほかの個体」の存在、「もう一人のサーバルちゃん」の存在が明確に示唆されている。これは「優しい世界」にとって決定的に不気味なものではないのか。というのも、そもそもセカイ系以降のアポカリプス文学(そういうものがあったとして)の主題は、徹底して「選ばれること/それを引き受けられないこと」の葛藤にあったからだ。だから「俺ら」は母性のディストピアに逃げ込んだ。日常をゲームとして生きることを選んだ。そして「俺ら」抜きの平和な世界を眺めることを選んだ。『けものフレンズ』もまた、セカイ系的主題を無化するためにこそ「優しい世界」を設定したはずである。カバンちゃんが最後の人類であったとしても、カバンちゃんは碇シンジのように「どうして僕なんだ!」と言うことは絶対にない。それは、本来は代替可能な存在でしかない「俺ら」が、運命的に担わされた唯一性に対する恐れとおののきの科白だからだ。ことほど左様に、同種の存在は「優しい世界」における主体の唯一性を根底から脅かす。なぜなら、カバンちゃんは他ならぬカバンちゃんとして認められたのではなく、人間という「フレンズ」として認められたに過ぎないからだ(より正確に言えば、「優しい世界」ではこのふたつが倒錯的に一致してしまっている)。だからこそ、すぐさま種族内での比較関係をもたらしかねない(つまり所与の唯一性を剥奪し、「優しい世界」における主体をふたたび代替可能な存在にしかねない)、ほかの個体の存在はあってはならないのだ。おそらくはサーバルちゃんにとっても。だがサーバルちゃんの涙はすぐさまその「不気味なもの」を浄化してしまう。いや、少なくとも、「ポスト・アポカリプス」という主題に沿って『けものフレンズ』を見るのならば、涙は浄化として機能してしまう。

 作中、サーバルちゃんの涙の意味は明かされない。彼女は「眠くて涙が出ただけ」とうそぶく。おそらくは、サーバルちゃん自身にもその涙の意味はわからないのだ。それは失われた唯一性に対する郷愁を意味するのかもしれないし、(サーバルちゃんが「もうひとりのサーバルちゃん」の生まれ変わりであるという解釈を採用するなら)かつて防ぐことのできなかった破局に関する失われた記憶の痕跡なのかもしれない。だとすれば、そうであるからこそ、サーバルちゃんの涙こそ、『けものフレンズ』で露出しかけた臨界としての「アポカリプス」だったのではなかったか。もしも『けものフレンズ』を「ポスト・アポカリプス」という概念と共に読むのならば、こうした読解はすぐさま失効する。「アポカリプス」はすでに実現し、そして過ぎ去ったのであり、「じゃぱりパーク」はまったく新しい人類と動物たちの世界の夜明けなのだ……そんな読解をするならば、サーバルちゃんの涙はたちどころに(サーバルちゃんの、そして我々の)まどろみの中に霧散してしまう。

 もしも「3.11以降」という我々の置かれた状況が「ポスト・アポカリプス」的な解釈を誘うとしても、それは破局的な出来事を経てなおそれを抑圧することで、日常の生を享受しつつ、想像力の世界では経験的事実を「アポカリプス」として特権化し、今なお続く破局的状況を「過ぎ去った(post-)もの」にしてしまう二枚舌的な自己欺瞞に過ぎない。それは「優しい世界」が誘う甘い夢だ。サーバルちゃんの涙は、その「まどろみ」からの目覚めを予感させるものでなければならない。アポカリプスは未だ訪れていない、そして訪れるその日まで未知のものであり続ける。そして同時に、それはいつだって、我々の前に「臨界」として送り返されている。そしてサーバルちゃんの涙は──それと知られることなく──「優しい世界」を動揺させ続けている。そうだとすれば、我々に出来ることは「優しい世界」にやすらうことをやめて、サーバルちゃんの涙の意味を問い続けることではないのか。もうひとりのサーバルちゃんを救うために。いま・ここにある終末と向き合うために。

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