インターネットのふるさと

「白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消なましものを」

伊勢物語第六段「芥川」で有名な、在原業平によって詠まれたこの歌を安吾は「文学のふるさと」のなかで引用している。

モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というようなものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものだと思うものです。もう一つ、もうすこし分り易い例として『伊勢物語』の一つの話を引きましょう。

 昔、ある男が女に懸想して頻りに口説いてみるのですが、女がうんと言いません。ようやく三年目に、それでは一緒になってもいいと女が言うようになったので、男は飛びたつばかりに喜び、さっそく、駈落ちすることになって二人は都を逃げだしたのです。芥の渡しという所をすぎて野原へかかった頃には夜も更ふけ、そのうえ雷が鳴り雨が降りだしました。男は女の手をひいて野原を一散に駈けだしたのですが、稲妻にてらされた草の葉の露をみて、女は手をひかれて走りながら、あれはなに? と尋ねました。然し、男はあせっていて、返事をするひまもありません。ようやく一軒の荒れ果てた家を見つけたので、飛びこんで、女を押入の中へ入れ、鬼が来たら一刺しにしてくれようと槍をもって押入れの前にがんばっていたのですが、それにも拘わらず鬼が来て、押入の中の女を食べてしまったのです。生憎そのとき、荒々しい雷が鳴りひびいたので、女の悲鳴もきこえなかったのでした。夜が明けて、男は始めて女がすでに鬼に殺されてしまったことに気付いたのです。そこで、ぬばたまのなにかと人の問いしとき露と答えてけなましものを──つまり、草の葉の露を見てあれはなにと女がきいたとき、露だと答えて、一緒に消えてしまえばよかった──という歌をよんで、泣いたという話です。(「文学のふるさと」)

安吾はこのような筋書きに認められるある種の「救いのなさ」、「ただモラルがない、ただ突き放す」感じを「凄然たる静かな美しさ」として、そこに「文学のふるさと」を認めている。

しかしここで安吾は「白玉か」という冒頭の句を「ぬばたまの」と勘違いしている。もう一度オリジナルと安吾の引用を見比べてみよう。

白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消なましものを

ぬばたまのなにかと人の問いしとき露と答えてけなましものを

本来この歌においては、まだ生きていた女の生命が、雷鳴に照らされて真珠のように輝く露を描写する「白玉」という語によって表象されているのだが、安吾はこれを「夜」あるいは「黒」等の枕詞となる「ぬばたまの」と取り違えて記憶していた。雷鳴の明るさよりも、夜の闇のイメージを強く持っていたのだろうか。この取り違えが偶然のものと片付けるのは少し寂しい。思うに、「暗さ」や「陰鬱さ」と「ふるさと」は安吾のなかで結びついているものだった。事実、安吾は故郷の思い出を次のように語っている。

私は「家」というものが子供の時から怖ろしかった。それは雪国の旧家というものが特別陰鬱な建築で、どの部屋も薄暗く、部屋と部屋の区劃が不明確で、迷園の如く陰気でだだっ広く、冷めたさと空虚と未来への絶望と呪咀の如きものが漂っているように感じられる。(「石の思い」)

俺はこんな安吾の述懐と「少女終末旅行」の世界観とをおもわず重ねてしまう。「少女終末旅行」の世界観は一見して「ふるさと」というよりは終わった世界、そこから始まることは何一つないような死んだ世界だ。じつを言えば俺はアニメーション版の「少女終末旅行」があまりすきではない。なぜかといえば、日常系的なほっこりした感じを出そうとするあまり(そんな意図がクリエーターにあったのかは知らないが)、原作にある荒涼とした世界観を表現しきれていないように思えたからだ。

「少女終末旅行」において、少女たちは「世界」の前史を知らない。あたかもすべてが終わったあとで──あるいは物心がつく前にすべて終わっていたかのように──そこに生を受けて、それ以前の情報は与えられていないかのようだ。だから少女たちにとってはあの荒涼とした世界こそが「ふるさと」なのだ。

全編を通してそこに悲壮感はない。彼女たちは生命を、味を、音を、温度を、言葉を、思い出を、そして人間を、世界の遺構のなかに見出していく。まるで全てはそこからはじまるように。なにもかも、全ては終わってしまっているにもかかわらず。

それでも、この作品を見て安らぎを見出すひとがいる。俺もそうだ。それは救いようもない絶望的な世界に共振するからだろうか。たとえば太宰が書いたように、「悲しい者には悲しい歌が救い」なのだろうか。俺はそうは思わない。なぜなら、俺たちは一度もそんな「ふるさと」を持ったことがないからだ。なにもかもが終わってしまった世界を俺たちは一度もみたことがない。

一度もみたことのない過去への郷愁。それと似たものをたとえばVaporwaveに見出すことができる。Vaporwaveの描く世界とは、一言でいえば、かつてどこかにあった幸福な消費社会とでも言うべきような「レトロな未来」だ。それを俺たちは薄暗い部屋で膝を抱えてジッと聴く。あたかもこんな幸福な過去がそこにあったかのように。

しかし、この「レトロな未来」への郷愁と「少女終末旅行」の描く世界とのあいだには微妙な差異がある。なぜか。Vaporwaveのもたらすイメージは「かつてどこかにあった」ものに対する偽史的な郷愁だが、「少女終末旅行」の描くのは、いまだどこにもない、蓋の開いたことのない終末、今まさに終わりつつある世界、語の正しい意味でのアポカリプスだからだ──こんな語源的な注釈などなんの意味もないかもしれないが、そもそも、アポカリプス(Apocalypse)の語源はapo-(〜から離れて)+calyptein(覆うこと)である。つまり、最後の幕が開いて全ての真理が明かされる、という事態を意味する。それは全ての終わりであって、言ってしまえばポスト-アポカリプスなどという表現はそもそもは語義矛盾なのだ。

かつて一度もあったことのない過去への郷愁。荒涼とした、「凄然たる静かな美しさ」への郷愁。そんなイメージをしかし俺たちはなぜか分かち持っている。「少女終末旅行」全編をつらぬいて、ある種の「なつかしさ」を覚えるのは俺だけだろうか。「少女終末旅行」が描いたのは、もしかすると「インターネットのふるさと」なのかもしれない。

それは一昔前に流行った「つらみ」やいわゆるメンヘラリティなのだろうか。そうは思えないのだ。塔を登り終えたユーリとチトが見上げた星空は「つらみ」からの解放としての「終わり」を暗示していたのだろうか。そうは思えないのだ。むろん「これこそが新しい夜明けなのだ」、などと言いたいのではない(これこそがポスト・アポカリプスの最大の罠だ)。「凄然たる静かな美しさ」を「ふるさと」として携えつつ、今まさに終わりつつあるこの世界のすぐ横で、これからどこへ行こうかとまたあらためて思いたいのだ。

「アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。」(「文学のふるさと」)

少女は尋ねる。

「ねえ、これからどうしようか」

少女は答える。

「とりあえず食べて、寝て、それから考えよう」

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