穿鑿と「俗天使」(2022/02/17)

論文を読んでいたら「穿鑿」という語で目が止まった。読めない。調べると「せんさく」と読み、「詮索」とほぼ変わらない意味らしい。「穿鑿」の方は物理的に穴を開けることも意味するから、たとえば「ドリルで金属を穿鑿する」というようにも使える。だけど論文は「著者のこうした記述の伝記的背景をあれこれ穿鑿することは……」といった調子だったので、大人しく「詮索」でいいじゃないかと思った。そこで「穿鑿」の用例を調べていると太宰の短編「俗天使」が見つかった。こうある。

おまえみたいな下劣な穿鑿好きがいるから、私まで、むきになって、こんな無智な愚かな弁明を、まじめな顔して言わなければならなくなるのだ。

用例調べはもうどうでも良くなって、太宰が何に対して、どのような「無知で愚かな弁明」を強いられたのかの方に関心が向いたので、昼休みを使って読んでみた。

「俗天使」は次のように始まる。まず太宰と思しき作家が夕飯時にミケランジェロの画集を見て『最後の審判』のマリアの美しさに目を奪われる。軽々しく形容できないような神々しさをそこに感じる。そうして作家は創作意欲が削がれた気になる。温めていた自身の新作の構想も酷く凡庸なものに思えてくる。「あれを、見なければよかったのだ。「聖母子」に、気がつかなければ、よかったのだ。私は、しゃあしゃあと書けたであろう」。それから「私にも、陋巷の聖母があった」と話が転調する。作家は自分の人生の中で出会った二、三の「聖母」に比せる女性との邂逅を振り返る。とはいえ「地上の、どんな女性を描いてみても、あのミケランジェロの聖母とは、似ても似つかぬ」のであって、つまり、それは「俗天使」なのである。

一人はパビナール中毒の静養期間に過ごした「水上温泉」の病院で、絶えきれなくなった作家にこっそりパビナールを都合してくれた看護婦。

帰りしなに、丸顔の看護婦さんが、にこにこ笑って、こっそり、もう一回分だけ、薬を手渡してくれた。私は、そのぶんだけのお金を更に支払おうとしたら、看護婦さんは、だまってかぶりを振った。私は早く病気をなおしたいと思った。

一人は隣の宿屋に泊まっていた若い娘で、作家の去り際に笑顔と涙を見せてくれたという。

バスに乗って、ふりむくと、娘さんは隣りの宿の門口に首筋ちぢめて立っていたが、そのときはじめて私に笑いかけ、そのまま泣いた。だんだんお客たち、帰ってしまう。という抽象的な悲しみに、急激に襲われたためだと思う。特に私を選んで泣いたのでは無いと、わかっていながら、それでも、強く私は胸を突かれた。も少し、親しくして置けばよかったと思った。

こうしたエピソードを紹介してから作家は、これは「のろけ」話などではないと断りを入れる。曰く、「自身の恥辱を告白しているだけである」。そして、否、それだけでは言葉が足りない、と付け加える。

「恥辱を告白することに、わずかな誇りを持ちたくて、書いているのだ。」と言い直したほうが、やや適切ではなかろうか。みじめの心境であるが、いたしかたが無い。私は女に好かれることは無いのであるから、ときたまのわずかな、女の好意でも、そのときは恥辱にさえ思っていたのであったが、いまは、その記憶だけでも大事にしなければならぬのではないか、という頗るぱっとしない卑屈な反省に依って、私は、それらの貧しい女性たちに、「陋巷のマリヤ」という冠を、多少閉口しながら、やぶれかぶれで捧げている現状なのである。

そして、こうした弁明を敢えてしてみせねばならないのは、あの「下劣な穿鑿好き」のせいなのだという。

こうした過度に反省的な自虐は太宰が読者を惹きつけて止まない特色の一つだが、それは坂口安吾が「フツカヨイ的」と評したものでもある。安吾によれば、たとえば太宰は上流階級の出身であることを恥じていた。

彼の小説には、初期のものから始めて、自分が良家の出であることが、書かれすぎている。/そのくせ、彼は、亀井勝一郎が何かの中で自ら名門の子弟を名乗ったら、ゲッ、名門、笑わせるな、名門なんて、イヤな言葉、そう言ったが、なぜ、名門がおかしいのか、つまり太宰が、それにコダワッているのだ。名門のおかしさが、すぐ響くのだ。(「不良少年とキリスト」)

重要なのは太宰自身が「それにコダワッている」ということだ。太宰自身が、名家の出身であるというある種の帰属意識に縛られ、そのために破滅的な自身の生き方に強い恥の意識を持っていた。感じなくても良いはずの、あるいはそこに沈潜すべきでないようなこうした恥の意識を増幅させて、挙句「もう仕事もできなくなった、文学もイヤになった、これが、自分の本音のように」思わせるのが安吾の言う「フツカヨイ」だ(経験的には誰もが身に覚えのあることだろう、いや、そうでもないか)。そして晩年の太宰はこの「フツカヨイ的」な精神のままに作品を書き、果ては情死に至ったとされる。「俗天使」はいわゆる晩年の著作ではないが──作中で『人間失格』の執筆予告がなされていることもさることながら──多分に「フツカヨイ的」なメランコリーに覆われたテクストだ。

当時、私は朝から晩まで、借銭申し込みの手紙ばかり書いていた。いまだって、私はちっとも正直では無いが、あのころは半狂乱で、かなしい一時のがれの嘘ばかり言い散らしていた。呼吸して生きていることに疲れて、窓から顔を出すと、隣りの宿の娘さんは、部屋のカアテンを颯っと癇癖らしく閉めて、私の視線を切断することさえあった。

そうして件の「穿鑿好き」の一節も現れる。

私は、自身の恥辱を告白しているだけである。私は自身の容貌の可笑しさも知っている。小さい時から、醜い醜いと言われて育った。不親切で、気がきかない。それに、下品にがぶがぶ大酒を呑む。〔…〕好かれるほどの価値が無いと自覚している人が、何かの拍子で好かれたなら、ただ、狼狽、自身みじめな思いをするだけのことでは無いかと思われる。私が、こんなことを言っても、ほんとうにしない人があるかも知れないけれど、ばかめ! おまえみたいな下劣な穿鑿好きがいるから、私まで、むきになって、こんな無智な愚かな弁明を、まじめな顔して言わなければならなくなるのだ。

このような太宰の自虐は、安吾が指摘するように「フツカヨイ的」な精神世界に耽溺する「太宰ファン」たちへの「迎合」あるいは「サービス」でもあった。太宰は自分を恥じる。そして「フツカヨイ的」に自虐の弁を作品となして恥を重ねる。覚めた太宰はまたそのことに恥じ入る。けれども「太宰ファン」が望むのはそういう「フツカヨイ的」な太宰なのだ。もしかすると俺自身も含まれる「太宰ファン」のタチが悪いのは、ここで言われる「下劣な穿鑿好き」から距離をとって、我こそは太宰の理解者然とした顔をするからだと思う。というか、太宰はそういう「太宰ファン」による同一化の余地を「サービス」として敢えて残しているのだ。だからはっきり言ってそれは太宰にとって恥の一部でしかない。ここに安吾は太宰の「救われざる悲しさ」を見て取っている。

〔…〕人間、死んでしまえば、それまでさ、アクセクするな、と言ってしまえば、それまでだ。/太宰は悟りすまして、そう云いきることも出来なかった。そのくせ、よりよく生きる工夫をほどこし、青くさい思想を怖れず、バカになることは、尚、できなかった。然し、そう悟りすまして、冷然、人生を白眼視しても、ちッとも救われもせず、偉くもない。それを太宰は、イヤというほど、知っていた筈だ。/太宰のこういう「救われざる悲しさ」は、太宰ファンなどゝいうものには分らない。太宰ファンは、太宰が冷然、白眼視、青くさい思想や人間どもの悪アガキを冷笑して、フツカヨイ的な自虐作用を見せるたびに、カッサイしていたのである。/太宰はフツカヨイ的では、ありたくないと思い、もっともそれを咒っていた筈だ。どんなに青くさくても構わない、幼稚でもいゝ、よりよく生きるために、世間的な善行でもなんでも、必死に工夫して、よい人間になりたかった筈だ。(「不良少年とキリスト」)

閑話休題。「俗天使」はそこで終わるわけではない。最後に作家は「もう、種が無くなった。あとは、捏造するばかりである。何も、もう、思い出が無いのである」、「ひとつ、手紙でも書いて見よう」と言って、ある架空の女性からの手紙をいわば偽作してみせる。手紙の部分がこの作品の妙なのでそれは是非とも本文に当たってもらいたいのだけど(青空文庫ですぐに読める)、この手紙に見られるような女性性が太宰にとって「フツカヨイ的」な自虐を、「救われざる悲しさ」を中和してくれるものであったことはたぶん間違いない。これがなければ「俗天使」はまさしく「フツカヨイ的」な作品のままで終わっただろう。

しかし、この「手紙」が太宰自身の手による「創作」でないことは今日知られている。津島美知子が語る通り、それは『女生徒』の元ネタとなった日記を太宰に提供した有明淑によるものである。作中、作家は『最後の晩餐』について「ミケランジェロは、劣等生であるから、神が助けて描いてやったのである。これは、ミケランジェロの作品では無い」と言って見せるが、太宰の「俗天使」による救済もやはり自力でもたらされたものではなかったわけだ。ところで、作品は次のように締め括られる。

だらだらと書いてみたが、あまり面白くなかったかも知れない。でも、いまのところ、せいぜいこんなところが、私の貧しいマリヤかも知れない。実在かどうかは、言うまでもない。作者は、いま、理由もなく不機嫌である。

この作品を文字通りに読み進めれば、「作者」が「不機嫌である」のは「俗天使」が自らの想像力の産物に過ぎないからである、と受け取られるべき一節だ。しかるに、真相は逆なのだ。けれども、さらに逆説を弄してみるならば、この「いま、理由もなく不機嫌である」という言葉から、ほんの少し口元を弛ませる作家の姿が浮んでくるような気がする。そう感じるのはたぶん俺だけじゃない、と思う。

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