『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』 雑感

 分かりにくい点は一切なかった。あまり言うべきことはないと思う。

 ミサトさんは親になって父性愛に縛られたモラトリアムに決着をつけたし、綾波は単独性を得た(注1)。アスカはシンジよりもずっと大人になってしまって初めて「好きだったと思う」と言えた。災害ユートピア的な村落共同体で綾波が人間の感情を学ぶシークエンスのなんと凡庸なことか。ゲンドウは最後までユイに会いたい一心で息子と向き合うこともせず世界を崩壊させようとするダメ人間のままだった(今さらシンジの中にユイを見出して「そこにいたのか……」じゃあないんだよ)。シンジがいきなり全てを悟ったかのように立ち上がる意味もよくわからない。今まで散々鬱屈しておいてご都合主義がすぎるだろう。作品世界の説明にしても辻褄がどこまで合うのかもわからない(後付け・説明不足が多くないか?)。散々関係性を錯綜させた挙句く結論はシンプルで、エディプス的な葛藤を乗り越えて綺麗に去勢されただけだ。正常な神経症的主体の完成。大人になること。子を持つこと。好きだった人に好きだったと言われて、僕も好きだったと言えること。それが「正しい」ことなんて初めから分かっていて、それが出来ないからこそ散々悩んできたんじゃなかったのか……?

 しかしそんなことはもうどうでもいい! 人は往々にして長い煩悶を経て単純な答えに行き着くものだし、そこには切断しかない。意味などない。ミサトさんでも綾波でもアスカでもない真希波マリとかいうモブと手を取り合って駅の階段を駆け上がる不気味なほど爽快感のあるラストはそれで良いしそれだから良い。物語を終わらせるのは難しい。オタクのバイブルにまで祀り上げられた作品であればなおさらだ。今はただそれを成し遂げた庵野秀明ならびにスタッフたちの偉業を讃えたい(注2)。


──────────
注1. この点は強調しておきたい。前作以前から示唆され続けてきたが、シンプルに無視されてきた点でもある。「綾波は実質ユイだからエディプス的関係からの脱出を目指すなら必然的にアスカ派(ないしはミサト派)」的な主張は何度も聞いた。綾波が出自に抗って自分の特異性を得ようと奮闘してきたのは無視か? 綾波はユイではない。そのことを描くために前半部の冗長とも言える村落共同体シーンがある。むろん、だからといって綾波は依然として機械仕掛けの戦闘少女のままだ。それはエヴァンゲリオンシリーズならびにそれを消費してきたオタクたちが負うべき業だろう。ただし、本作はそのことを可能な限り引き受けつつ、考えうるなかで最良の結論のひとつに導いたと思う。
注2. オタク諸氏の感想などを読みつつ色々考えたら間を置いてまた何か書くかも。もう何度か見るかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?