人材流出問題についての一風景

 小・中学校のあいだサッカーに打ち込んでいた。中学の途中で受験勉強や諸々のライフバランス、それから怪我の癖がついたことを期にプレイヤーを辞めた。それから地元の小学校のサッカー部でコーチの真似事をしていた。大学に入る少し前までの話だから、時期にしてみればほんの数年の話だ。だからこれは確たるエビデンスがあって言う話でもなく単なる体感の話なのだが。

 俺が育った地域はある東京都内の文教地区で、地元の小学校は公立だけど経済的に恵まれた子供が大半だった(付け加えておくとこの「大半」というのは重要だ──これが私立との違いである)。だから、この話は極めて限定的な位置から切り取った一風景であると断っておく必要がある。

 そのうえでつらつらと書くなら、公立の小学校のサッカー部には色んな子がいる。サッカーが大好きな子、兄弟がサッカーをしているから入った子、親に無理やりやらされている子、友達と一緒に入部する子。きっかけは色々あっていい。もちろん。その中で、長年見ていると──というのは自分が現役だった頃の経験も加味しているからだが──、チームの中心になっていく子にはいわゆる""頭のいい子""が多いことが見えてくる。これはずば抜けて才能があって技量的に他を圧倒するような子ではなく、サッカーというスポーツの仕組みを他の子よりも早く理解して、要所要所で最適解を見つけるような子のことだ。実際、とりわけジュニア世代のサッカー教育はなるべく子供たちがそういう発見をできるように諸々のメニューを開発している。その詳細についてはここでは触れないが。有り体にいえばルールの中で一番効率的な方法、ちょっとした「チート」を見つけられるような子。そういう子がやがて中心選手になっていく。

 ただし文教地区の公立小学校には一つの岐路がある。中学受験だ。東京では高学歴ルートを歩む子供は私立中高に進学する。信じられないかもしれないが、早い子では小4くらいから進学塾に通い始める。当然部活は続けられない。だからどんなに上手い子でも受験をするならその時点で退部ないし休部、復帰は受験後の6年生の引退間際ということになる。差がつく。当たり前だが小学校の子供は成長が早い。一年もあれば本人のブランクはもちろん周りの上達も凄まじい。追いつかれ、追い越され、取り戻せないほど水をあけられる(もちろんこのブランクをものともしない子もいるのだが)。たかが小学校の部活でそこまで深刻にならなくても、と思うかもしれないけど、当の子供からすればそういうのってかなりプライドが傷つくのだ。実際、中学受験をした多くの子がそこでサッカーを辞める。もちろん続ける子もいる。統計は知らない。でもそうして受験期を経てなお進学先で第一線でプレーし続ける子はごく稀だ。

 指導をしていて「ああこの子は頭のいいプレーをするな」という子はその後かなりの確率でエリートコースに入る(もちろん文化資本あってのことだ。それは俺の言及している地域ではある意味で前提なのだ)。御三家と言われるような私立中学に入り、東大や早慶をはじめとした有名大学に進学する。地元の公立中学に進んだ子でも高校からそうなる。この確率はかなり高い。

 なぜその子たちはサッカーを続けないのか。一言でいえば選択肢があまりに多様に準備されているからだと思うのだ。そもそも習い事はサッカーだけではない。文化資本に恵まれた地域では子供たちは色々な習い事をする。水泳に習字、バレエやピアノ……サッカーはその一つだ。そしてその中の最も大きな一つとして「受験」がある。地域格差の話をしたい訳ではないのでこれ以上踏み込まない。受験を経て中学、高校と進学するとそれまでサッカーに打ち込んでいた子でも、進学先で自分と違う人生を送ってきた子たちと出会う。価値観も揺らぐ。これ自体はどこでも・いつでも起きていることだ。だれもが少年・少女時代のキャリアプランを貫く訳ではない。当たり前だ。それでも、あらゆる他の生き方が""許されている""というのは富裕層の特権なのかもしれない。大学進学を目指してもいい、バンド活動に精を出してもいい、定時制高校をさっさとやめてフリーターになるのもいい。もちろんそんな家庭状況の子ばかりではないし、大抵の子はいわゆる""普通""に生きる。でも俺らの地元ではそんな多様性に当てられる瞬間があって、どうもそこでサッカーをやめてしまう、夢を諦めてしまう──正確にいえば色々な生き方が可能なんだということに気づく──ようなのだ。

 もう少し一般的で普遍的な話をするつもりだったのだが、どうも個人的な体感に寄りすぎた。何を思ってこのエントリを書き始めたのか。そう、人材流出についてだ。それも俺が個人的に見てきた極めて限定的な一風景だ。

 話を進学・教育問題に戻そう。言うまでもなく教育の最大の務めは子供に最大限の選択肢を示し、そして与えることだ。これをやってもいい、あれをやってもいい、ただしそこにはどんなリスクがあってどんなスキルが求められて、だからあなたはこういう勉強をする必要があって……etc. 。ただし普通はそこに暗黙にこうつけ加わる──「あなたの家庭の資本から逆算してこれが可能な選択肢ですね」。むろん文化資本に恵まれた子であればあるほどこの制限は少ない。そして東京のある文教地区の公立校ではこの制約に関して実に多様な振れ幅を持った子供たちが出会う。そして前述した「頭のいい子供たち」ほどこの選択肢の幅を広く保ち続ける。

 その中で「サッカー選手」を選ぶ子は少ない。要するにそういうことなのだ。その気になって勉強すれば有名高校、有名大学に行けるような子たちがサッカーの強豪校を選んで進学するのはリスクが大きい。だから大半の「頭のいい子供たち」はどこかで引き返す。頭がよければよいほど(文化資本に恵まれていればいるほど)開かれている""別の道""は多い。だからそれだけ撤退率も上がるのだ。サッカー選手という職業、プロサッカーという業界は「頭のいい子供たち」を振り向かせるだけのインセンティブを示せていない、そういうことだと思う。先にも触れたが、むろんわき目も振らない「天才」たちはいる。常にトップチームに食い込んであれよあれよとプロになるような子は一定数いる。それでも大半の子供たちにとってサッカー選手は「夢」で終わる。それは技術や才能だけの話ではないのだと思う。日本のサッカーがどこかで伸び悩んでいることの一因は、この""踵を返した頭のいい子供たち""を取り込むことができずにいることに求められるのではないだろうか。

 サッカー業界の話をしたいのではない。実のところ、これと同じことは日本のあらゆる業界で起きている。もっと言えば日本という国単位で起きている。ここまで書いたことは別に俺の話ではなくて、ただサッカー教育にほんの少し携わった中で見聞きしたことを書き連ねただけだ。俺自身は中学受験もせず公立中学に進んで、大したこともない高校に進学して不登校になって、そのあと紆余曲折を経て今は大学院の博士課程で文学研究をしている。しかしお察しの通り、ここでも同様のことは起きている。大学院の進学を前にして撤退するエリートたちはあまりにも多い。本当に優秀な子たちはここには来なかったのではないかと時々思うくらいだ。もちろん専門知はある。ただそれは自分のリソースを最大限そこに充ててきた人材が集まる場所なのだから、当然といえば当然だ。メガバンに行ったあいつやコンサルをやってるあの子も、保険屋でめちゃくちゃに稼いでいるあいつも、地元に帰って農家を継いだあの人もみんな頭が良かった。彼・彼女らは自分のリソースを然るべき場所につぎ込んで、そうして大学を去って行ったのだ。大学に残るのはあまりにもリスクが高い、そう判断したのだろう。

 これはあまりにも限定的な話で、なんの提言でもない。政策的に言えば上澄みを掬うよりも底上げを図った方がよい。経済効率的にも道徳的にも圧倒的にそちらが急務だ。俺もそう思う(時事的な状況を考えるとき、いま──格差の固定化と拡大がいよいよ激しくなり、政策的にもまったく有効な打開策を示せていない、むしろその反対だ──こんな話をするのはちょっと逆行している)。それでも、俺が見てきた一風景をこうして書き留めておくのもそれはそれで資料的な価値があるかもしれない。そう思って投壜している。

 かつて「頭のいい子供たち」だった友人たちが、先輩が、後輩が、それぞれの選んだ""別の道""で活躍していてくれればいいと思う。彼・彼女らにとってアカデミック・キャリアはサッカー選手になる夢と同じだった。ただし、ことアカデミアにとってこれは確実に加速しつつある傾向だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?