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期待すること、受け入れること

発達障がいや自閉症など、日常生活にいろいろな「難しさ」を抱えるお子さんを持つ保護者の会に参加させていただく機会があった。今日はその時に感じたことを、ここ最近悶々と考えていることと絡めて書いてみたい。

「多様性が育まれる社会」で生活したい

もともと福祉的な分野に専門や関心があったわけではないが、小学生から大学生までを対象としたいくつかの教育プログラムを企画運営したり、アドバイザー的に学校現場に入り生徒さんと相対する経験をさせていただく中で、学習指導要領や学校の教育目標とは相容れない状況にある子どもたちや、その親御さんと接する機会を持つことが増えてきた。

双極性障がいや自閉症傾向のある子どもを合宿形式のプログラムで預かり、どう対処していいのかわからずに、自分自身がパニック寸前になったこともある。そういう経験が、今の自分にとっては大切なきっかけになっている。

あまり信じてもらえないのだけれども、僕は「多様性が育まれる社会」「誰もが生きやすいと感じられる社会」を作りたいと本気で考えている人間だと思っている(言い方が回りくどいが・・・)。自分自身が凸凹を抱えた人間だし(例えば、時間通りにミーティングを始められた試しがないとか、1時間以上同じ場所に座ってられないとか・・・あげればキリがないほど社会に対して「申し訳ない」と思うことがある)、「多様性が育まれる社会」づくりは大げさにいえば自分ごとでもある。お恥ずかしながら、福祉という領域は、その方向性を考える上では必須の領域だということに最近ようやく気づいたばかりだ。

まずは自分が勉強する、現状を知ることから

多様性が育まれる、みんなが生きやすいと感じられる社会では、障がいというのは、見方を変えれば素晴らしい個性にもなりうるのだと思う。しかし、僕自身も含めて、あまりにも障がいや障がいを持つ子どもたちが抱える学びづらさ、生きづらさ、そして彼らを支える保護者や先生が直面している困難に対する理解が、現状ではまだまだ一般に広がっていないのではないかと感じる場面が多い。だから、まずは自分から勉強しなければならないと思い、いろいろな機会に参加させていただいたり、勉強会をやってみたりしている。それが現状だし、そこからしかスタートできないと考えている。


学校現場に目が向いてしまう職業病

もちろん、現状で何か「答え」が見えたわけではなく、個別具体の家族のかたちやそこでの苦労や喜びを垣間見る中で、いろいろなことを「感じている」という段階なのだけれども、子どもたちのことを考える際に、僕自身の立場からどうしても目が向いてしまうのは、そのような多様な子どもたちを預かる学校現場、特に先生に求められている役割の多様さと、その大変さについてだ(もちろん、親御さんに対する尊敬の念は前提とした上で)。


「新しい時代に必要な力」の変化

今よく教育の現場で強調されることは、「社会は急激に変化している」ということ。というよりも、これまでとは違うモメンタムの中で動いていくことが予想される社会で「生き延びる」ために求められる、必要な能力がどんどん変化しているのは確かなのだと思う。そしてそれは、僕の中に実感としても存在する。

そのために、コミュニケーション能力やチームで何かを生み出す力、自分から発言する力、答えのない問いに向き合う力、自ら決断し将来を選び取る力などなど、あげればキリがないほど「新しい時代に必要な力」が定義され、その力を育む具体的な方法論(授業のあり方)なども提案されつつある。

偏差値偏重主義からの脱却に向けて、「生徒のやりたいことに基づくキャリア教育」の必要性が解かれ、高校などでのキャリア教育が重視されつつもある。むしろ「やりたいことがない」状態こそ許されない指導がなされたりしている学校も見受けられ、そういう状況に、極端さやバランスの悪さを感じてしまうのだが、いずれにしても、学校も、先生も、生徒も、保護者も、かなり大きな(数十年〜数百年に一度かもしれない)変化の渦の中に置かれている状況であることは間違いないだろう。本当に、関係者にとっては大変な時代に役割を担わざるをえない状況だ。

「新しい時代に必要な力」とは相容れない教室の多様性

一方で、そのような「新しい時代に必要な力」を、そもそも苦手とする子どもたちや大人がいることも事実で、ADHDやLDなどの発達障がいを持つ子どもたちは、まさにその代表格でもある。一人一人得意不得意は違うものの、見通しが立っていない(そもそもそれ自体を自分たちで考えないといけない)「答えのない課題」や、グループでの作業ほど彼らを苦しめることはないそうだ。

新しい時代の教育目標と、現実としての教室の多様性。現実は二項対立ではなく、このグラデーションの中での対応になるのだと思うが、変化の中で、異なる期待やプレッシャーの間に置かれた先生は、果たして何を頼りに、どんなスタンスで、どんな方法論で教室運営を行っていけばいいのだろうか。もしも自分が当事者の教員の立場になったとしたら、これはかなり難しい実務的課題だと思う。

余談だが、教育の難しいところは、「生徒が実感できることや望んでいること」「先生が実感していることや望んでいること」以外のところ、つまり「これからの社会で必要なこと」を中心に目標値が決められがちであるという点だと思う。自分たちの実感を超えたところがあっても、ある程度わかったふりをしながら、しかも生徒の反応も心もとない状況で先生たちは実践を求められる。本当かどうかはわからないが、アクティブラーニングを強力に導入しているある学校では、校内のカウンセリングを受ける生徒が増える傾向にあるという話もある。これをすぐに問題と捉える向きもあるが、過渡期の必要悪だと考えることもできる。こういう状況を、果たしてどう評価したらいいのだろうか。いずれにしても、先生同様、生徒にとっても「新しい変化」は痛みを伴うので、初めから生徒のいい反応を受け取れることは難しいし、そういう状況では先生のモチベーションを維持することも困難だろう。


先生のトランジションに寄り添うこと

僕は、偉そうかもしれないが、こういう変化の真っ只中だからこそ、理想主義的な教育目標と現場の多様性との間で揺れる先生のトランジションに寄り添う枠組みが必要なのではないかと思う。

「新しい時代の教育目標と、現実としての教室の多様性とのギャップにどう対処すべきか」。

まだまだ頭の整理がしきれていないけれども、この大きな問いに対して、今回の集まりで保護者の方からいただいたヒントがたくさんあった。その一つは、(どう対処すべきかという問いに対する)「一つの共通した(客観的な)答えなど存在しない」という、当たり前のこと。一人一人の状況が異なる中で、唯一無二の処方箋は存在しない。状況を見ながら、少しずつ絡まった紐を解きつつ、より良い方向性を模索するしかないのだろう。

そして、もう一つ、より自分の心に響いたのは、「期待を持ちつつ、できなくても仕方がないよね」というスタンスが大切だということ。

教育目標しかり、やっぱり僕らは子どもに、そして自分に、ある方向性やゴールへの到達を期待してしまうものなのかもしれない。だけれども、その期待どおりに進むことなんて、ほとんどないのも実際だろう。家族であれ恋人であれ仕事仲間であれ、他人に何かを期待してしまうことは、仕方がないことだと思う。けれども、期待通りにいかないことも「まあ、いいよね」「他にも何か生きる(活きる)方法があるよね」と受け入れ、オルタナティブを一緒に探すことができること。そのバランスを、学校や地域社会、親や子どもの間で共通認識として持つことが、「多様性を認める社会」に向けた本当の意味でのスタートラインなのかもしれない。

新しい社会を見据えた教育目標やカリキュラムは必要。でも、それ以外の多様な生き方を受け入れる社会づくりや選択肢も、同じくらい重要。そのバランスをうまく取れるようになること。まだまだまとまらないが、そんなことを考えている。

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