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山を登る自分になる

1月3日。三が日はよく休み、家族との時間を過ごした。前の記事にも書いたけれども、父も含めた家族全員で過ごす正月は、本当に有難い、幸せな時間になった。

そんなこんなで先ほど深夜0時近い小布施に車で戻ってきたのだけれども、高崎から1時間半程度の距離なのに、こちらは雪が深々と降り積もり、久しぶりの我が家は少し埋まりつつさえある。また明日から、寒い朝晩と、日によっては1日数回の雪かきとの戦いが始まるようだ。

服がタバコ臭いのと、少しだけ気持ちがセンチメンタルになっているのは、直前まで高校の後輩が誘ってくれた飲み会(といっても僕は安定のホットウーロン)に参加し、久しぶりの再会を喜んでいたから。いや、喜んでいただけでなく、正直複雑な心境でその場にいて、一人小布施への車で悶々と考えを巡らしていたからかもしれない。

バンドをやっていた頃にほぼ毎回打ち上げで使わせてもらった居酒屋で、約10年分、そのまんま年齢を重ねた自分と後輩たちとの飲み会の話題は、高校時代のこと、それぞれの今にいたるまでのこと、それから、この場に顔を出していない彼や彼のこれまでや今の状況などについて。関係性は特に変わらないけれども、自分も含めて、それぞれ色々なことがあったこの10年間を経て、なんとか今ここまでたどり着いている、というのが正直なところなのだと思う。20代後半というは、きっとそんなものだろうし、色々あっても、こうやって顔を合わせて話ができることに、自然と感謝の気持ちが湧いてくる。

そういえば、この年末年始は、偶然も含めて高校時代の同級生や後輩との再会の多い数日だった。バンド関係で知り合った仲間とはよく会うのだけれども、バンド以上に濃密な時間をともに過ごした生徒会や文化祭実行委員の仲間とは、その後、実はほとんど会っていなかった。なぜ会っていないのかと言われれば、なんとなくとも言えるし、でも何かしらの理由があるのだとも思う。

そんな高校時代を振り返った時に、自分自身の中に湧き上がってくる感情は、とても複雑だ。いや、複雑だということが最近ようやくわかってきた、という方が適切かもしれない。

誰に向けたわけでもない、抽象的な自己開示に終わることが見えているけれど、なんとなくそのことについて書きたくなっている自分がいるので、徒然なるままに書いてみたいと思う。

高校時代の僕はというと、中学までやってきた野球をやめ、せっかく一つに縛られることから解放されたのだからと、バンドや文化祭、生徒会その他、勉強以外の目に入るもの、面白そうなものにはすべてに手を出す人間だった。そして、そのどれもが、やってみると、とにかく楽しかった。うまく両立できたというよりは、やりたいことはすべて寝る間も惜しんでやって、なんとかやりきっていたという方が正しかったと思う。それでも全く苦にならないほど、すべてが面白かったのだ。

あまり自慢げにいうことではないが、授業時間は好きだった地理や世界史、英語以外はほぼ寝るための時間で、やる気のスイッチが入るのは大抵放課後からだった。部活がない日や早めに帰れる日には、街中にでてバンド練習をしたり、ライブハウスで東京からきたバンドのライブに潜り込ませてもらったり、古着屋で店員さんとだらだら話したりした。バンドの活動が広がってくると、ライブハウスを貸し切らせてもらって自主企画をしたり、ラジオ番組を10歳以上も年齢の離れた大人(その頃の10歳違いというのは、本当に格別に大人に見えた)と一緒に作らせてもらったり、はたまた、青年会議所が企画するイベントで高校生代表としてスピーチをさせてもらったり。

すべてのことが新鮮で、楽しくて、そして楽しんでやるから、特に努力しなくてもうまくいってしまうことが多かったように思う。それは受験勉強でも同様だった。2年生の終わりころから担任にハッパをかけられて志望校を定めたのだが、まずは好きな科目をとにかく重点的にやったせいか、次第に勉強が楽しくなり、しまいには、朝起きて机に向かうことが楽しみで仕方なくなってしまった。

特に大学にいってやりたかったことが明確にあったわけでも、そういう将来へのビジョンをモチベーションにして頑張っていたわけでもない。こんなことをいうとヒンシュクを買いそうだけれども、「楽しい、面白い」の流れそのままで、最後に一気に学力が伸び、自分でもびっくりするような結果が手に入ってしまった。これが正直なところだった。

この頃のことを振り返ると、見方によって、二つの異なる教訓が得られるように思う。

一つは「楽しいと思ったことをすれば、思いもよらない結果が得られる」ということ。これは、その時のことをポジティブに捉えた場合の視点で、きっと僕自身はあの頃のように、「楽しいと思ったことをやる」方が得意だし、その積み重ねをしていった方が、楽しく豊かな人生を送れることも間違いないのだと思う。

一方で、違う視点からみれば、自分自身のモチベーションの源泉を見つめ、得たい結果やゴールを明確化した上で、そこにたどり着くプロセスを経ないまま、なんとなく「一般的に見て素晴らしい結果」を手にしていた自分を観察することもできる。結局何かを手に入れたようで本質的には何も手に入れていないのではないか、というのが、悲観的な立場から見たその頃の状況だ。

前者を「川下りの人生」、後者を「山登りの人生」として捉えるとわかりやすいかもしれない。川下りは、その時々でいい流れをつかめるように梶をとりつつ、基本的には流れに身を任せて人生という流れを下っていくような生き方。一方で、山登りは、目標となる山を決め、そこに登るためのプロセス(登山道)を見定めて、少しずつ登っていくような生き方。

当時の自分はというと、受験勉強に対して大学合格を目標としていたように、一つ一つの要素は一見すると山登りにも見えなくもないが、ほとんどは後付けの論理で、プロセスの真っ只中にいるときには基本的にすべてが「楽しい、面白い」を動機とした川下りだったと思う。

こんな風に自分の過去、それも「成功体験」として長らく見てきた過去を捉えなおすようになったのはここ数年のことで、特に2016年のはじめ頃から、メンター的な仲間との出会いや仕事のフェーズの変化、家族の状況の変化、当時のパートナーとのフェーズの変化など、様々なことが重ねって、高校や大学時代の自分自身への評価や見方が、かなり変わったように思う。いや、もしかすると、それより以前は、過去を振り返り当時の自分について深堀すること自体を、無意識に避けていたのかもしれない。今振り返れば当時の自分の中にも、どこかしら違和感のかけらのようなものを抱いていたように思うし、その頃自分が書いていた日記を見返すと、「土台のない、なんとなく得てしまった成功」に対する自分の陳腐さを自虐したようなものも多かったりする。

「あの頃は、とにかくいろいろな経験をさせてもらって、その経験から学んで今がある」程度にしか捉えていなかった頃には、connecting the dotsという有名な言葉を、都合のいいように使わせてもらっていた。もっとも、それはそれで正しい側面もあり、あの頃がなければ今の自分がないというのは、今でも自信を持って言えることではあるのだが。

では、今の自分はどういう状況にあるのかというと、先ほども書いたように、確実に潮目が変わった2016年頃から、長いトランジション(自己変容)の最中にある。幸いにも、信頼できる方々からの学びを得る中で、少しずつ、その解像度や向き合い方を知り、「意図したい未来」や今後10年の自分を形づくるために注力すべきことが、見えつつある。

そんな風に、自分自身が次のフェーズに向かう上で、やはり、あの時の自分と向き合わざるをえないし、当時の成功体験を手放す必要も出てきている。それがここ数年の自分自身の本質であり、今の僕は、まだその途上にいるのだと認識している。楽しい、面白い、を大切にしながらも、本当に自分が意図して得たい未来(登りたい山)は何か、そして、それを得るために今、何を残し、何を手放すべきなのか、そのことにずっと向き合っている。

遅ればせながら、自分自身やそこに関係してくれる仲間の将来に明確なコミットメントを宣言しようとしている、とも言えるし、そういう意味では「本当の自立」に向けた準備段階にあるのかもしれない。

けれども、いや、だからこそ、高校や大学時代の「楽しい」「面白い」でうまく流れに乗っていた頃の自分やその頃のこと全般について、その当時を知る友人となんの躊躇もなく話すことは、今の自分には難しいことでもある。どうしても悲観的かつ分析的なものになって、楽しくならないのだから。傍目から見れば、「そんなわけないだろ」となるから余計にややこしい部分もある。今目の前で取り組んでいる課題だからこそ、「あの時はあの時で、素晴らしかったよね」とは、まだ素直に言えない自分もいるだろう。それが、きっと今この文章を書きながらも胸の中に残っている「センチメンタル」感の一つの側面なのだと思う。

2018年がどんな年になるのかはまだわからないけれども、今年の目標は、ここまで書いてきたことの延長線上にある。何を手放し、何にコミットするのか。得たい未来(登るべき山)の解像度をあげ、1年後には、その山に小さい一歩でも踏み出して、自分なりに「コミットできた」と自信を持って言える状態でありたい。まだまだ抽象的だが、今年の僕が目指していることはそんなところだ。

・・・と、結局抽象的でモヤモヤした自己開示になってしまったけれども、年始に一緒に過ごした甥っ子くんの、なんの意図もなく、ただただ「登りたい!」という気持ちで嬉々として崖を登っていく姿などを見ていると「楽しい、面白いで登りきってしまえるのであれば、それが素晴らしいじゃないか。そのプロセスにある学びもきっと、素晴らしいじゃないか」と思う部分もあるんだよなぁと。そんなモヤモヤも持ちつつも、やっぱりまずは、今自分の目の前の課題に向き合うことを大切にしていきたいなぁと。まだまだモヤモヤは続きそうだけれども、それがきっと1年後の自分を正しい方向に導いてくれると信じて2018年を始めたい。

裏山にて。どんどん登っていく甥っ子くんを追いかけて。

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