ボランティアを眺める視点 メモ

「ボランティア」について考えるための視点整理メモ
 今回、私たちは文化芸術活動の一つでもある「アートイベント」とそれを支える「ボランティア」の関係性について考えてきた。中でもイベントを支える「ボランティアスタッフ」と呼ばれる人たちが、どのような思いでイベントに参加しているのか?またイベント主催者はどのような意図を持って「ボランティアスタッフ」との関係性を築こうとしているのか?に焦点をあて調べることとした。調査は主にインタビューの手法を使うこととした。
 ところで、この試みを続ける中で、「ボランティア」の言葉で語られる意味や中身が予想以上に幅が広いことがわかってきた。今後、考察を進めるためには、ここで「ボランティア」について視点の整理が必要であると考えるに至った。
 そこで、本稿では「ボランティア」について以下の視点でまとめた。
① 日本における「ボランティア」の意味の変化を時間軸に沿って観察する
② 「ボランティア」を行う意図や目的を「交換」と「贈与」の視点で眺める 
これらのことによって、今後の考察における「ボランティア」を眺める視座を固めたいと思う。

① 日本における「ボランティア」の意味の変化について
「ボランティア」の言葉が日本において一般的に認知されてきたのは、おそらく1970年代以降だと考えられる。1969年の広辞苑に初めて「ボランティア」という言葉が採用された。ボランティアvolunteer(英語)の語源は、「自ら進んで〜する」「喜んで〜する」を意味するラテン語の「volo」にあるとされ、日本には明治の終わりから大正時代にかけて紹介されたと言われている。
*1 社会福祉法人福島県社会福祉協議会HP参照
 
 この当時の「ボランティア」は社会奉仕活動や慈善事業の意味合いで語られることが多く、誰もが気軽に行うものというものではなかった。むしろ「変わり者」「もの好きな人」「篤志家」のように特別な人が行うものとしてのイメージが強かったようだ。1969年に開催された東京オリンピックでも、会場の受付や観客の整理対応のなどのために「ボランティア」の参加が記録されているが、その多くは自主的な参加よりも動員された人々であったようだ。

 その後「ボランティア」のパワーが多くの人々に認識された出来事が起こった。1995年1月に発生した「阪神・淡路大震災」である。地震の規模及びその範囲の広さは多くの予想を超えたものであり、行政機関などによる既存の救助体制だけでは、被災者の救助や支援を行うことが不可能な状況になった。その時にこれまでの「ボランティア」に携わってきた人々とは異なる一般の市民が、自発的に、主体的に活動に参加するようになった。本来「ボランティア」活動の持つ力の大きさを多くの人が認識し、その言葉の意味合いも従来の「社会星活動」や「慈善活動」から大きく変化するきっかけとなった。この年をボランティア元年と呼ぶようにもなった。
 このことを契機に、市民活動に注目が集まるようになり、1998年には市民活動を行う団体に対して法人格を与える法律「特定非営利活動法人促進法(NPO法)」が制定された。これまで主に行政が行ってきたまちづくりに、ボランティア団体などの市民活動団体が参加することにつながった。

 1998年は教育の領域でも大きな動きがあった。学習指導要領が改定されボランティア等の社会奉仕活動が学校の教育活動の中に位置付けられた。
さらに2001年の学校教育法、社会教育法の改正に際しても、青少年がボランティア活動にかかわることの重要性が述べられ、教育の領域においてもボランティアの意義が強く語られるようになった。
*2青少年の奉仕活動・体験活動の推進方策等について(答申)平成14年7月 中央教育審議会など参照

まとめ
「ボランティア」はかつての変わり者の行う社会奉仕活動や慈善活動の意味あいから、普通の市民が社会参加活動の一つとして行うものへと変化した。また活動の現場も福祉の現場や災害支援の現場だけではなく、広く地域づくり・まちづくりに関わる場(例えば地域のイベントや環境保全、文化活動など)にも広がった。その意義についても市民権を得たと考える。
 さらに教育現場での指導により、ボランティアは社会を形作るための活動として必要なものであることの一定の理解が広がっていると感じる一方で、本来の意味である私的な動機による活動(自発的な活動)であることの意味合いが薄れてしまったのではないかと懸念ももつ。


② 「ボランティア」を行う意図や目的を「贈与」と「交換」の視点で眺める
社会において(=個人間や集団間で)モノや食料などのやりとりを説明する人類学理論にマルセル・モースの贈与論がある。*3国立民族学博物館HP引用
また、市場経済的にやりとりを説明する「交換」がある。
 ここでは学問的にその差について述べることはできないが、イメージとして「贈与」と「交換」をあげる。

1)贈与 
 人は自分自身や自分の財を他者に負っている。すなわち誰しも、人として成長するには誰かの援助なしには成り立たない。今、私があるのもかつて、誰かが差し出してくれたものおかげである。そうしてこの社会は持続してきたのである。(この流れ、受け取り〜差し出す流れを止めることはよくない)
 そこで、当然、次は私が誰かに何かを差し出すことをすべきである。
受け取りと手渡しのタイミングは必ずしも同時でなくても構わない。
むしろ時のずれ、対象のずれは社会的には良いことでさえある。

 贈与の視点で「ボランティア」を眺めると、ボランティア活動は、やりがい搾取であると言った言説は成り立たない。なぜならボランティア活動は、これまで「私」に与えられたものへの返礼であると考えるからだ。その返礼を行うことが社会を持続させるために必要である故におこなうのである。

2)交換
 市場経済的にもののやりとりを考えると、そこには差し出したものとそれに見合うだけの対価が必要となる。
 提供したものを受け取るためには、それに見合う対価が必要である。その対価が提供されたものに見合うものであるかどうかは、市場が決める。すなわち需要と供給のバランスによって決められる。
 一般に、差し出すもののより、受け取るものの価値が大きくなる取引が良い取引とされる。またその取引は効率性も求められる。すなわち提供されたと同時に対価を得られることが良いとされる。現在の日本及びアメリカなど先進国の多くでは、市場経済万能主義あるいは新自由経済主義が社会的に良きものと認識されている。

 交換の視点で「ボランティア」を眺めると、そこにはやったことに対する対価を求めがちな私たちの姿が浮かび上がる。
 元々は自発的に、やりたいことをやるつもりで始めたボランティアであったにしても、何かしらの見返りを期待したりする。その期待が満たされればまだしも、満たされない時、私たちは気持ちの中でもやもやとしたものを抱えてしまいがちだ。
 例えば、「こんなにやっているのに、無償であるのはどうかと思う」とか
「気がつけば時間と労力を搾取されているのではないか」とかである。
本来、やりたいことを自分の意思で(私的な動機で)やるものがボランティアであるとすれば、そう感じた時点で活動をやめてもいいはずである。
 あるいは「ボランティア」に参加することによって「所属の欲求」や「承認の欲求」が満たされ、その先の「自己実現の欲求」を満たすことができるとの考え方もある。これも提供したものに対する対価の一つではあり交換によって得られるものと考えられることもできる。「お金」ではない価値を交換によって得られると考えられれば、もしかすればもやもやは薄くなるのかもしれない。「ボランティア」であればこそこれらの価値を得られるのであれば、交換も悪くない。

まとめ
「ボランティア」を贈与と交換の視点で眺めてみた。どちらの視点が「ボランティア」を考える時によりよくその本質を理解できるのか?今の時点でははっきりしない。それでもどちらかと言えば「贈与」の視点で考えた方が、私たちが見落としている「ボランティア」の持つ意味や意義を再発見できるのではないかと期待する。

以上、述べてきたように「ボランティア」という言葉は、時代や社会背景によってその意味や意義が変わっている。さらにそのやりとりを「贈与」的なものであると捉えるか、「交換」的なものとして捉えるかによっても、意味合いが変わってきそうである。今後はこのことにも留意しながら調査・研究を続けたいと思う。
 
以上

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