私は何故、生きているのか。

 私にとって生きることとは、完成図の分からない何千万ものピースで作られたジグソーパズルをひたすら続けること、みたいなものだと思う。
 私はジグソーパズルが好きだ。細々した作業は苦手だけど、集中していく感覚が好きだ。我を忘れて、無心に向き合える時間は最高。でも今の生活で費やせるのは精々三百ピースレベル。物足りない。かといって千ピースになると集中力や時間が足りないかもしれない。挑戦したいものの、自分が如何に飽き性かも分かっているのであまり無駄なことはしたくない。
 さて。そんな私が何故、ジグソーパズル=生きることと提示したのか。楽しいから、ではない。勿論。私にとって生きることは苦痛である。じゃあジグソーパズルは楽しくないのか。そう。実は楽しくないのだ。先にも書いた通り、細々した作業が苦手であることや、完成図を見ながらこれは何処のピースだろうというのを想像するのも苦手である。私は目からの情報を、特に絵や人の顔などの見た目のみのものを処理するのがどうも苦手らしい。間違い探しなんて幼稚園児並のものじゃないと分からない。
 でも、ジグソーパズルに没頭する感覚は嫌いじゃない。それはパズル系アプリを繰り返し解いている時の感覚や音ゲーをひたすらプレイし続けている時の感覚と近い。肉体と精神が乖離していく夜は、とてもとても安心する。
 私は今の環境に感謝しつつ、安堵しつつ、それでも「生温い」と感じているのだと思う。あまりに過酷すぎた実家の暮らし、母の言動、交流できない同級生たち、家庭内での孤立。それらの苦痛が懐かしくて堪らなくなる。こんなに穏やかな毎日を過ごすことが申し訳なくなって、胸が痛んで、塞がっているはずの傷口をぐちゃぐちゃと捲りあげて、血を、膿を、汚い体液を流している時のように、精神が摩耗していく。何もしていないのに。自傷行為を渇望していく。しちゃいけないと留めてはひっそりと指の節々をがりがりと掻き毟っている。痛い。痛くて、泣いてしまいながら、でも凄く安心する。
 私にとって、苦痛というのは最早、精神安定剤なのかもしれない。お薬よりも遥かに強力。本当は良くないのも分かる。分かってはいる。だから、ジグソーパズルやパズルゲームや音ゲーのようなもので、精神をすり減らして、脳味噌を疲れさせて、死んだように寝落ちて、悪夢を見ては飛び起きて、夢だったことを嘆きながら、浅く浅く眠る。そんな風に生きている。息をしている。

 カウンセラーさんと一ヶ月のうち二回、お話をする。もうかれこれ三年ほど関わってくれている。だいぶ「私」という人間について解きほぐしてくださって、そのお陰で以前よりはいい意味での諦めを受け入れることもできるようになってはいる。
 先日の会話の中で「ドMですね」と言われた。そうだと思う。「苦痛」を求めている私は間違いなくドMだ。苦痛であればあるほど、逆境であればあるほど、燃える。聳え立つ切り立った崖であればあるほど、登りたくないのに登ってしまうような。
 だから、「ジグソーパズル」。
 私にとって人生は、超難解で、完成図の分からないジグソーパズル。やらなくてもいい。辞めてもいい。時々本当に手を離す。放置する。でもやっぱり気になって、完成した絵を見たくなって、泣きじゃくりながら、ピースを投げ捨てながら、間違えながら、少し、また少しと進めていってしまう。ぴたりと嵌った時の快感と一部の見えた絵に興奮することも時々あって、誰かに自慢したくなったりもして、「大したことないじゃん」って笑われることもあったりして、やっぱり嫌になることもあって……。
 こまめに完成できるパズルだったら良かったのに、って思わないこともなくはない。でも、多分それじゃ満足しないんだろう。先が見えないからいいんだろう。飽きて、「パズル自体」を捨ててしまわないために。

 あなたの人生って、身近な何かに例えた時、何に似ていますか。いろんな人に聞いてみたい。いろんな例えを聞いてみたい。そして、そんなそれぞれの人生を労い合えたら、人は寂しい生き物だから。その寂しさは自分でしか埋められないものだから。埋めたその先を支え合うことができたなら。それはとても幸福なことのように思う。
 あなたの絵、素敵ね。きみの地図、とても美しいね。ここまでとても沢山がんばったんだね。まだもう少しがんばってみようか。
 なんて具合に。

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