気持ちの変化。

 随分と久しぶりになります。気が付いたら新しい年になってしまいました。あけましておめでとうございます。今年はもっと更新していけたらと思います。

 さて。本題に入りますが、気持ちの変化がありました。「限りなくノンフィクションに近いフィクション」を書きたい気持ちに変わりはありません。
 が、「フィクションだったなら良かったと思うくらいのノンフィクション」である自分の自叙伝も、また書いてみたいな、と思うようになりました。

 物書きアカウントである @c_m_zkr にて「どんな経験だって糧になる」というようなお言葉を見ました。(詳細は少し違いますが)
 その方は「人の体験談ってこの上ない資料になり得る」から「どんどん参考にしたくなる」そうで、そんな言葉を見てしまったら、私のような経験だってもしかしたら、脚色せずともノンフィクションのまま、誰かにとっては経験することのない事実、として必要とされるのかもしれない、なんて思ってしまって。

 私が恐れていたのはやはり、ありのままを話すことで「不幸自慢だ」とか、「大袈裟だ」とか、そういう普通に黙っていれば受けなくてもいい批難や中傷を浴びることだったように思います。傷付いてきた内容を曝すことで、更に傷付く可能性があるのなら、別に黙っていたっていいじゃないか、と。
 でも、少しだけ、もう少しだけ勇気を出して、書き綴ったことが、誰か一人にでも刺さったならば。

 でもそれって、普段やってることと同じなんですよね。一時創作。その感覚のまま、自分のことを綴れたら、そしてそれが誰かの勇気や発見になるのなら。いや、そんな偉そうな思いじゃないです。ただ単に、私は私の中に詰まったものを吐き出したい。汚物であることは理解しています、その上で吐き出したいのです。でも決して誰かの同情を求めてる訳ではなくて。それでも「私は私である」と胸を張って生きていける、その為に。何処までも自分の為です。誰に否定されても生きていけるように。
 今の私は、生きていきたい、とは言えなくとも、まだ死にたくない、と思うようになりました。その差はきっと、大きいと信じています。死にたくないのなら、今の自分に繋がる「過去」からは離れられない。目を背けたっていつも悪夢に見ます。責められ続けるのはきっと私の中身が私を否定し続けているから。それを無くすことはまだ出来なくても、表に出していれば、いつかは小さくなるかもしれない。そんな希望を抱くことは悪いことですか。

 フィクションだったなら良かった。そう思える過去を詰め込まれた袋のような私の話、聞いてください、とは言いません。垂れ流すことを許してください。私が許されたいのは、ただ一人だけ。いつだってその人に謝りながら生きている自分を、いつか脱ぎ捨てることはできるのでしょうか。分からないなら、踏み出すしか、ない。ヘイトを撒き散らすだけの憂鬱な「私」を、少しでも愛すことが出来るようになる為に。

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