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ACT.88『悩める時間』

ルートイン

 苫小牧で深夜に取り残され(?)た自分は、そのまま2軒のビジネスホテルに電話を入れた。
 その結果…無事に駅前のルートインの一室を確保する事に成功し、こうして冒頭の写真のようにベッドで寛いでいる状態となる。
 ちなみに占めて9,000円近く。夏季のレジャーシーズンに北海道インターハイによる学校団体の訪問も相俟って、ホテルの確保に苦慮しかつ空き室も少ない状態での宿泊となった。
 今回、受け入れて下さった苫小牧のルートインの皆さまには心からの感謝をしたい。
 しっかしだ。流石に9,000円近い出費は本当に堪えたのであった。あまりにもダメージがデカすぎる。こうした選択を取った自分にも影響しているだろうけど。

明日に向かって

 やはり応援している魂が叫ぶとこうした写真は撮影したくなりますかね、えぇ。ポンタ君です。オリックスのはバファローズ・ポンタで親戚みたいなモノだけど。
 と、明日の日程を探っていたら2つの候補に絞る事ができた。
 1つは、エスコンフィールドHOKKAIDOでvsオリックスの3連戦を観戦する事。コレに関しては現在・室蘭本線と千歳線の交点に交わった場所に滞在しており、翌日は千歳線に乗車して向かうだけであった。
 偶々、ファイターズの試合日程を探していた時にこの情報は何とも嬉しいモノだった。こうして偶然の3連戦と被ったのだからエスコンに言っても良いものかなぁ…と思ったのだが、途中で力尽きる。
 ファイターズ会員になるのが面倒くさくて挫折した。普通にローチケとか『ぴあ』で取っても良さそうだったが、自分の着席したいビジター応援席にしっかり振られるかの不安が過り、断念をした。
「会員かぁ…わざわざ北海道でこの為だけに登録するのものなぁ」
そのままベッドでダラダラとそんな事を思っていると、2つ目の候補に目星を付けたのであった。

※ロイヤルエクスプレスの訪問に併せた旭川駅の装飾。道内では歓迎ムードになっているようだ。

 もう1つの候補が、現在道内を周遊中の伊豆急行の観光列車『ロイヤルエクスプレスHOKKAIDO』の撮影である。
 ホテルで滞在している際は確か、釧路方面に向かっていたような記憶が残っている。そして翌日だったかに北見へ石北本線を上って向かい、遠軽で方向転換。そして旭川にで終了という行程であったように思い出す。
「ロイヤルあるやんか!!」
すっかり新球場に向かう目標に関しては捨て去り、北海道を周遊する観光列車に関して考えていた。
 そういえば旅の際、手稲駅の近くの運転所にロイヤルエクスプレスが搬送され待機しているのを確認した際
「縁があれば撮影したいモノだなぁ」
なんて思っていた。コレはチャンスになるのでは?
 と、明日の目標を定めた。しかし、翌日どうやって苫小牧から旭川に向かうのか。そうした考えでぼーっとしていた。
 取り敢えず、セコマで買ったスナックでゆったりと自室内で過ごし、明日の行程を考える。
 カバンの中から切符の案内が記されたホチキス綴じのチラシを取り、翌日の予定を考えてゆく。
 しかしどうしたものか…
 というかロイヤルに関しては走行する沿線自治体、そして見送り客へ向けての時間を記した大雑把な行程は引っかかるものの、実際に
『何処で待避するのか』『何処を何時に通過するのか』に関しては不明なままでの実行を計画した。
 果たして遭遇は叶うのだろうか…

一夜去って

 翌日の苫小牧駅の様子である。
 宿泊していたルートインに関して…だが、朝は無事に起床できたものの、着替えてから再び二度寝をし、その際にチェックアウトギリギリに。最終的にはクリーンスタッフに起こされて起床するという体験で目を覚ました。
 そうした朝を迎え、撮影したかった車両のもとへ。
 駅を見渡せるポイントから、銀色の789系1000番台を見送った。
 少しだけ、トレインマークの『すずらん』の蕾だけが見える。普段は『カムイ』として働く電車の、一時的な『アルバイト』に近い室蘭本線での運用である。
 起きたこの日は割りかし曇っている気分のぼんやりした日であった。

 留置線に置かれているキハ143系たち。
 再び、撮影で遭遇する事になろうとは誰が思うのだろう。無理やりねじ込んだようなものですが
 屋根上、車両機器に前面に関してその姿を観測してしまえば、気動車としてのその様子が伝わるのだが側面…と言うのだろうか。細かい場所に目を移してしまうと、完全に客車としての面影が出ているように見える。
「いや、この写真撮ってみたかったけど確実に客車にエンジンと運転台装着して走らせようとしただけやんな…」
50系客車・51系客車に関しては客車として機関車牽引で過ごした時間は決して長いとは言えない車両だが、こうして気動車としてエンジンを装着し自走した仲間に関しては、ある意味で長寿であったように思う。
 737系の投入前夜となる令和の数年間までよく頑張ったと思うというか。
 見下ろしてその姿を眺めると、線路に草が生えている。車両としては余生をこの場所で静かに送っている…というか『還ろう』としているようにも見えて仕方がない。

 見下ろして観察する事の出来たキハ143系のうち、横の留置線にて置かれているキハ143系に関しては2両を縦列で置いた4両の状態であった。
 キハ143系…北海道のキハ141系列はSL銀河として活躍する為にJR東日本に旅立った分も含めて廃車で撮影が叶わないかと思った矢先に、こうした留置線での放置機会で撮影できたのは非常に大きかった。
 きっと、このキハ143系に関しては本線上に最後まで現存する客車転用の気動車となるだろう。
 前回の記事にも記したが、自分が京都に帰郷した後にこのキハ143系たちは機関車に牽引されて釧路に向かったようである。
 そして、JR北海道からの発表にて観光列車を改造で製作する事が発表された。(去年のいつだったかしらん)その際、車両改造はキハ143系を使用する…とされ、キハ143系はエンジン装着の改造以降2回目の改造を受ける車両が生まれそうである。
 そして、『新型ノロッコ号』の種供出にもキハ143系が関与しそうである事が噂され、この客車改造気動車にも新たな光が差しそうだ。

目覚めから

 キハ143系の苫小牧での留置姿を撮影してから苫小牧で過ごす目的の場所に向かって再びの行進である。
 昨夜、エスコン観戦にロイヤル撮影…と様々な情報を探っていると、『苫小牧に保存の蒸気機関車がいる』との情報を発見した。
 駅から少し歩いて向かうと行ける、とのようだったので、キハ143系を撮影した後に向かう。
 駅を出てロータリーから旅の資金引き下ろしにATMに向かって歩いていると、苫小牧周辺の交通を支える道南バスが通過した。
「おぉ、コレはアニメで見たやつ…!本当に走ってんだなぁ」
何となくの感動で撮影する。
 車両に関しては標準的ないすゞの車両で、全国で見られるタイプであった。

 そして、撮影していて1番感動したのがこの車両であった。
 鉄道を中心に齧り付いている自分であるものの、この車両に関しては発見次第全国で撮影している。
 いすゞの角張ったバスの象徴、『キュービック』である。
 昭和59年以降に誕生し、全国に配置された車両だ。
 撮影したのは、中扉タイプの車両。詳細を少し調査してみると、平成10年式の車両であった。かつては前身の苫小牧交通部に所属していた車両で、道南バスに引き継がれ活躍しているとの事。
 そうした事情に関しては知らなかったが、このタイプの中扉キュービックを撮影してしまう理由は格好良さだけではない。
 自分が祖父母に出会う為に幼少期、向かった三重ではこうしたタイプの中扉のキュービックが津市内を闊歩していたのだ。祖父の運転する軽トラの横でもすれ違った経験があり、今でも忘れられない。
 そうした郷愁を誘う体験も、キュービックを撮影してしまう1つの理由だ。カメラの画面にこのカクカクした車体が飛び込んできた瞬間、感動は抑えられなかったのである。

 道を歩けば、苫小牧の駅前はバスを多く観測する。それだけバスに対しての信頼。また、バスが街を形成している証拠でもあるのだろう。
 写真は現在多く各社に配置されている三菱ふそうの車両である。
 道南バスといえばいすゞ系の車両のイメージが濃いだけに、こうした車両に遭遇するのはイメージから離れていた。
 アニメ・天体のメソッドで見ていた道南バスも、現在は多種多様な車両たちを混ぜて近代化しているのだと感じさせられた。

小型機の精鋭

 苫小牧駅から真っ直ぐに続く道を歩き、軽く曲がって1回程度だったか。黒々とした車体が見えてきた。
「お、この場所かなぁ」
やはり…というか、保存機探しをしていて1番嬉しいのはこの瞬間だ。クロガネの車体が目の前に飛び込んだ時。その断片を小さくでも感じた瞬間が、保存機の息吹を感じ最も大きな感動を味わえる瞬間である。
 ナンバーにも記されているように、この機関車はC11形。
 日本に於ける小型タンク機関車の最高傑作である。飾り気のない、ロッドに赤いアクセントの入った車体が素晴らしい。

 機関車を正面から。
 正面から眺めても、この機関車が綺麗に飾られているのは一目瞭然の事である。
 本当に綺麗な状態だ。後方の太陽光パネルも相まって、この機関車は夜になれば空に線路を伝って打ち上げられるのではないだろうか。
 そうした想像も掻き立てられる、近代的な機関車の居場所だ。
 同時に感じるのは、この機関車のシンプルさ。
 単純でいて、かつ美しい。そのままで充分に放つその威光は、見るものを引き込ませる力が存在しているように思わさせられる。

 機関車の横には説明のプレートが記されている。
 その説明も実に細かく記されており、蒸気機関車の存在が市の誇りとなっている事を強く感じるのであった。
 どうやら、機関車には『たるまえ号』との名称が授けられているようである。
 この機関車に関して、所属などを毎回のように見ていこう。

 C11-133。その誕生は昭和13年だ。C11形蒸気機関車に関しては、閑散線区。また、ローカル線などでは大半の路線に入線が可能であり。しかも国内では入れない路線は無いほどに使い勝手が良く、戦時中も製造された機関車であった。その為、もっと多くの仲間がいる…のだが、この機関車はそうした中の1機だ。
 昭和13年に製造されると、翌年の昭和14年からは多治見に所属した。北海道に上陸したのは、昭和16年の事。深川に配属され、北海道での生活を開始したのであった。留萌線に関しての記述があるのは、そうした時代背景を汲んでの事だろう。
 昭和22年には深川本区・朱鞠内支区に移動した。そして再び、昭和24年には深川に復帰する。
 昭和27年には釧路を拠点に活躍するようになり、標茶支区に移動した。釧路を本区とした所属先である。昭和30年から昭和37年までは、標茶に所属。
 昭和39年に網走に移動すると、昭和49年まで釧路で活躍した。
 その後は廃車となり、この苫小牧にて保存されている。
 ただ、この機関車は苫小牧方面での活躍は一切ないのが実情で、説明内には
『同形機関車が日高本線を活躍』
との注釈添えがされていた。

小型機関車の普及を見届けた車両

 紫陽花の花々と一緒に、機関車を撮影。ここで、少しだけこのC11形を解説しよう。
 日本の国土は、島国でかつ縦横無尽に線路が張られている。そうした国土の中では、車両の軸重制限が設けられかつ狭い路線や閑散線区などが当然ある。華々しい本線の裏にはそうした路線が敷かれており、これらの路線もまた我が国の生活を支えているのである。
 本線向けの機関車はそうした中で、大正時代に8620形・9600形によって客貨両用の機関車の国産化に成功した。しかし一方で、狭小線区・閑散線区に目を向けてみるとどうだろうか。

※C10形の開発によって、成功を見たかと思ったタンク式蒸気機関車の国内生産。しかしその道のりは多難なものであった…
あまりの少数派?なのか保存機は大井川鐵道のC10-8しか存在していない。しかも動態保存である。

 本線向け。大型機関車…こうした中で、日本は大正時代に国産化に成功したのだがその裏で、小型蒸気機関車に関しては未だに鉄道開業からずっと支援を受け、そして近代化と共に寄り添った欧米の機関車に頼っている状態であった。
 タンク式機関車…大型の機関車である炭水車を連結したテンダー式機関車と対をなす存在になるが、この小さな機関車にもいずれは国産化にトライして行かねばならない。
 そうした中で、我が国は昭和5年にC10形の製造を行なった。タンク式・小型機関車の自国生産を目指して製造されたこの機関車であったが、製造はたったの23台にて終了したのであった。
 C10形は、蒸気機関車としての性能に関しては申し分のないパワーを発揮した。最高速度は95キロとなり、都心部での運用に大活躍した。しかし、何かが足りない。
 そう。軸重…だったのである。走れる線路が当時の国鉄では細かく設定されており、閑散線区…小型な機関車たちの主戦場であった丙線には13トン超えの軸重で入線できなかったのである。
 こうした現状から、C10形は少数派に留まり。小型のタンク式蒸気機関車に関しては新しく設計を目指す事になったのである。

 新しく設計し、小型のタンク式機関車の開発に挑む事になった国鉄。目指すは丙線の入線を可能にし、自由自在な活用をする事であった。
 後継として、C10形を改良し後を継ぐ車両としてC11形が昭和7年に誕生した。C11形では、それまでのC10形を基礎にしつつも大きく改良し蒸気機関車として進化を遂げている。

 まず、全体的な車両を製造する際の溶接技術を見直した。
 それまでの大正期に製造された機関車。昭和初期までに製造された蒸気機関車に多く取り入れられていた『リベット式溶接』を止め、『電気式溶接』を採用したのであった。これによって見た目はスタイリッシュ…というのか身軽な設計になりタンク式機関車としてラフな構造を見せる事になる。
 これによって軽量化を実現し、軸重は12.4トン。丙線にも入線が可能となり、国内全土での活躍に弾みを付ける形となった。
 タンク式の蒸気機関車というのは、その名称のように『タンク』が車体と一体化した構造が特徴だ。
 その為、機関士が運転台に着席し首を痛める状態にはなるがそのまま写真の方向…後尾を向いても自由自在に走行できるように『バック』での運転も
可能なように設計されている。
 このバック運転が可能になった設計は、この機関車にとって大きく作用した。

 こちらが、保存されているC11形を後方から見た様子。
 何もなくスッキリとした後方に仕上がっており、自由自在な移動が可能になっている。この構造を活かして、C11形は蒸気機関車として『転車台』というハンデを捨て大活躍を残したのだ。
 そもそも…として、C11形は蒸気機関車として『バックでの運転』を前提にしたような設計になっている。このバックでの走行を可能にするという事は、即ち。
『転車台がない路線でも、引き込み線で入換て逆向きに連結すれば折返し運転が可能』
という設計なのである。
 こうしたバックアップを遺憾なく発揮したC11形は蒸気機関車として、日本中の本線・閑散線区で大活躍したのである。

屈強な機関車

 C11形は、あまりにもタンク式の機関車として。そして、蒸気機関車として。その設計が優れ過ぎた故なのか。
 第二次施世界大戦にて日本が戦時中の動乱の時代にも製造が継続されたのであった。この状況が、いかにしてこの小さな車体が我が国で有効活用されたのかを物語っているように思う。
 最終的にその製造・普及は国鉄を飛び出し民間にも製造が波及した。民間・外国向けにも20台のC11形が生産され、昭和24年まで継続されたのであった。如何にしてこの蒸気機関車が重宝され、ベストセラーの快哉を飛ばしたかが分かる話である。

 C11形は蒸気機関車として充分なヒット作品としての真価を発揮し、その製造台数は381両を記録している。戦時中の日本でも継続した生産がなされたその実績は、衰える事の無い功績であろう。
 そうした381台のC11形蒸気機関車。当然、戦時期まで製造されたこの機関車には形態が揃っておりその差は大雑把にも大別できる。
 このC11-133は砂箱を前に配置し、蒸気ドームを後方に設置しているのが特徴の『2次型』である。
 この2次形は24号機〜140号機とかなり多くの種類が2次形に属しており、最も多くその勢力を拡大しているかが分かる。

万能機の落陽

 混迷し戦火に巻き込まれる中でも大活躍を残し、少ない資材の中でもその勢力を拡大したC11形蒸気機関車。
 そんな万能機でも、終焉の時は必ずやってくる。
 順次、国鉄が推進していった『動力近代化計画』。国鉄の線路を電化し。或いは電化の採算が取れないと判断される…もしくは電化技術の届かない線区に関しては『気動車』を投入してディーゼルを動力にした車両たちで近代化を図った。
 そうした中で登場したディーゼル機関車は、凸型の機関車が大半で転車台の存在は不必要。そして石炭に水もいらない、新たな万能機であった。
 当然、蒸気機関車よりも性能は格段に上昇している。
 そうした近代化の中で、C11形も各路線で引退していった。
 全国で活躍したC11形であったが、その最後は昭和50年。北海道の標津線であった。
 その後、蒸気機関車の復活の歩み…としてC11形は静岡県、大井川鐵道でC11が再び選定され今度は『観光産業』としての歩みを持たせた。

 蒸気機関車として、昭和生まれのタンク機関車という位置付けで多く生産され混迷した我が国でもその歩みを止めなかったC11形。
 保存機としてもこの蒸気機関車は万能であり、用地を殆ど取らない。そして動態保存させてもコストを掛けずに維持できる…
 とその実力が消える事はない。
 さて、この後はこの場所のメインである展示を見に行ってみよう。

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