『夢十夜』 夏目漱石
夏目漱石の書くものはいつだって、出だしが鮮やかに過ぎる。
夏目漱石『夢十夜』の「第六夜」もそうで、
「運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいるという評判だから、散歩ながら行って見ると、」
と書き始めて、有無を言わさず鎌倉時代に亡くなっているはずの運慶を、一文にして蘇らせてしまう。
漱石の筆によると、運慶は山門の前で、明治時代の男たちに囲まれながら、一心不乱に像を刻み続けていたという。
様子を見ていると、ずいぶん躊躇なく鑿と槌をふるっている。そうして、
「厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思ったら、小鼻のおっ開いた怒り鼻の側面が忽ち浮き上がって来た」
よくあんな無造作なやり方で、思うように彫れるものだと皆が感心していると、ひとりの男が言った。
「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない」
彫刻とはそんなものかと、話者たる漱石は思い、家に帰って自分でも彫ってみるけれど、
「不幸にして、仁王は見当たらなかった」
そうして、明治の木には到底仁王は埋っていないものだと悟るのだった。
異なる時空を併せてひとつの不思議なシーンをまとめ上げてしまう手際は、お見事のひとこと。小説技法は漱石に極まると思うけれど、それ以前にひとつ疑問がある。運慶が「眉や鼻が木の中に埋っているのを、鑿と槌の力で掘り出」していたという、この短編を支えるモチーフ。これがいったいどこからきたのか。
運慶の逸話に、彫像の創作技法としてそうした記述が残っているわけじゃない。ではどこから? 漱石の創造だろうか。
どうやらそうではなく、おそらくはミケランジェロにまつわる挿話を援用している。いわく、
大理石のかたまりにあらかじめ像が含まれている。彫刻家はそれを発見するのが仕事だ。
大理石の中に天使が見えるから、自由に動き出せるまで彫る。
などとミケランジェロが言った、そう伝える文章がある。もちろん史実かどうか、たしかめるすべはないのだけれど。
アートにも関心の厚かった漱石は、ミケランジェロの挿話をどこかで目にしたのにちがいない。それで自身の短編のモチーフにこれを採用したのだ。
漱石が料理した運慶およびミケランジェロの話から教えめいたものを拾うなら、
ものごとの核心は、いつだって「すでにそこにある」。
そして、
核心を垣間見るために人がやるべきこと、やれることのすべては、周りのよけいなものを取り除いて、覗きやすい状態をつくることくらい。
といったことになるか。
さらには、「見ることの徹底」が、彫刻をつくる契機になるということも、漱石作品から読み取ることができそうだ。
ただ見る、よく見る、ひたすらに見る。その視線によって、かたちが見出される。そのあとに手が自然と動いて、創造は生まれてくるのではないか。
創造する者にあらかじめ見えているビジョンっていったいどこからくるのかと不思議だったけれど、どうやら「見ることの徹底」が、解答のカギを握っている。
はじめに光があった、と聖書は1行目で説く。彫刻にバイブルがあるとしたら、出だしは、
「はじめに視線があった」
と書き始めていいのかもしれない。この世界に彫刻が生まれ出るなぞを解き明かすヒントは、視線という言葉のまわりにありそうな気配だ。
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