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エラリー・クイーン創作の秘密 往復書簡集1947〜1950

二人で一つの物語(小説とか、シナリオとか)を作る…

それって、それぞれの得意分野が活かせて良いんじゃない?と思う人もいるだろう。

私も、左脳が働かない身なので、ものすごく複雑な構成とか、伏線の張り方とか、考えてくれたら、後はなんとかなるんだけどねぇ、と思わないでもない。

実際、共作で成功されている例もある。

脚本家の木皿泉さんは、ご夫婦で名作「すいか」や「野ブタ。をプロデュース」などを書かれているし、

「誘拐の岡嶋」の異名をとった「岡嶋二人」さんも、その名の通り二人での共作だ。

が、これがなあ、なかなか難しいんだなあ。結局、岡嶋二人さんは解散されたから。それを考えると、木皿泉さんご夫婦はすごいなあ。私なら、絶対家族関係もご破算にしてしまいそうだ。

マンガなら、片方が原作を担当し、片方がマンガを書くというのもあり(まさに、マンガ『バクマン』です)。

映画なら、どっちかが脚本家で、どっちかが監督というのも想像しやすい。

あるいは、片方が劇作家で、片方が演出家というのもわかる(仲代達矢さんご夫婦がそうだった)。

だけど、二人で一本の小説を書くのは、ちょっと違う。というか、相当違う。それを如実に表しているのが、この本。

エラリー・クイーンという探偵が活躍するアメリカの推理小説。

探偵ばかりでなく、作者名もエラリー・クイーンなのである。

その正体は、フレデリック・ダネイと、ベニントン・リーという二人の男性。彼らはいとこ同士でもある。

フレデリック・ダネイがプロットを書き、最終的に小説にするのはベニントン・リー。

彼らの作品に影響を受けたという新・本格派の推理小説作家は多いと言われている。

そんな二人の、これは書簡集なのである。

プロットから完成原稿にするには、一人でやってたって、なんでこんなプロット考えたかなあ、いやいやプロットの方が面白かったのに、なんで面白みがなくなったかなあ…と自問自答するのに。
これを二人でやったら揉めるにきまってる。


案の定、いとこ同士の二人は、手紙で激烈にやりあう。二人はアメリカの西海岸と東海岸に離れて住み、その時代、簡単に電話に頼ることも出来ないので、とにかく手紙でやりとりするのだ。

これがまた、話をややこしくする。

電話で話したことなら忘れてしまうけど、手紙は残る。作業が上手くいかないときなんかに読み返してみると、何だかムカムカするっていうのは、事態を余計悪化させると想像がつく。


相手が自分の作品(プロットと原稿〕を重んじてない、相手の作品には問題があって、それを補うのに自分が苦労する、自分の方が損してる、自分はこんなに苦しいのに…etc.
そこに、純粋にそれぞれの作品についての質問やら、提案やら、ダメ出しやらが繰り返される。

いとこ同士だから、どちらかの家族が病気になったとかについては、「大丈夫か」「元気になることを祈ってる」と気遣い合うのだが、次の行ではそれぞれへの批判に戻ったりする。

『そんなにいやなら一人で書きゃ良いじゃん』と思うが、彼らは結局最後まで共に書く。それぞれが一人で描いた作品は本当に限られているのだ。

実は互いに互いの才能を認めながら、それでも自分の才能を信じて欲しい、自分の思うままに書かせて欲しいという熱望が立ち上ってくる。作家の業というものか。

それからもう一つ、彼らはエラリー・クイーンでなくてはならなかった。エラリー・クイーンは彼らの経済の命綱だった。そうそう簡単に関係を壊せない理由があった。離婚しても舞台に立ち続ける漫才コンビみたいなものですかね。

文句があっても離れられない…この枷はきつい。

それでも、この論争、この書簡集は彼らの創作に対する真摯な態度の表れだろう。プロットとはどうあるものなのか、プロットを活かすにはどうすればいいのか、考えさせられる。

私みたいなわがまま勝手な人間には到底出来ない芸当だ。

そうそう、共作をテーマにした青春小説がある。

『青少年のための小説入門』

これは、いじめられっ子が、ヤンキーと出会い、無理矢理小説を書かされることになるものの、二人は本当に小説の面白さにはまっていく…という筋立てだ。

様々な名作が登場し、「へええ、小説ってこんな書き方するの?」と意外に感じる人もいるだろう。(実際には違うんだけど。でも、彼らが作りながら悩んでいくところはリアルだ)彼らを支える小説好きな人たちのキャラクターも良い。

それと、この作家さんの「みなさん、さようなら」はかなり好きな作品。

入門してみると良いかも。



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