ゴクドータクシー

その日、僕は、仕事を終えた後、友人の出演するライブハウスでしこたま酔っぱらったのだった。
「しかし…あいつのヴォーカル、なかなか良かったなあ」
ふらふらの足で道路わきになんとか立つと、ちょうど、「空車」のマークの点灯したタクシーが向かいからやってきた。
「やった…この時間にしてはラッキーだぞ」
タクシーは、滑るようにカーブして目の前に止まると、ガチャッ。と音を鳴らし、ドアを開けた。
ドアを閉めると、
「●●町の高架下までお願いします」
ろれつの回らない舌でなんとか伝える。
すると、突然、バーン!!と大きな音がして、ドアが揺れた。
「な、なんだ…」
僕には状況がよく分からない。
とりあえず左を見てみると、眼鏡をかけた中年のサラリーマンが、ドアを平手で思い切り叩きながら、何か言っている。
泥酔しているように見える。耳を澄ましていると、
「俺の方があ…先に手え上げてたんだよお!!シカトしやがって!!このジジイ!!」
と、叫んでいるのが聞き取れた。
僕は思わず、酔いがさめていくのを感じた。
サラリーマンは、しつこく何度もドアを殴り続けている。
「…」
年配の運転手は、ただ、静かにじっと黙っている。
信号が変わるまでは、動けない。
ここは、信号が変わるのを待とうというつもりなのだろう。
その時、「ガンッッ」と、大きな音がして、車体が揺れた。
サラリーマンが、タクシーを蹴ったのだ。
「ガチャ」
運転手は、スッと運転席を出ると、外に飛び出る。
バタン、とドアをしめると、上着を脱ぎ始めた。
「け、けんかだ…」
僕は怖くて、シートの床にしゃがむと身を隠した。
「ガチャ」
喧嘩が始まったと思っていたが、運転手はすぐに戻ってきた。
「お客さん」
「もう大丈夫です」
そう呟くと、静かに、ただ静かに、タクシーを発進させた。

タクシーがゆっくりと走り出す。
この辺りはライブハウス・居酒屋も多く、本来ならばもっと栄えているような土地なのだが、コロナウィルスの影響からか、今では本当に人通りが少ない。
僕も今日のライブでは、マスクを外しては酒を飲み、またマスクをする、というような面倒な作業をせざるを得なかった。
街のネオンも、なんだか元気がないように見える。
三つ目の曲がり角を曲がったとき、僕の頭に嫌な記憶が思い浮かんだ。
僕は、30歳にして、事業を起こそうと脱サラしたのだが、思ったように事業は回らず、気付いたら借金ばかりが増えてしまっていた。
毎日の生活費。事業の仕入れ金。妻は最初独立を大きく支援してくれていたのだが、サラリーマン時代の給料を大きく下回る稼ぎの今に対し、徐々に不満を漏らすようになってきていた。
「あなた、本当に独立した意味はあるの?」
「これじゃ子供も作れない」
「たまには外食させてよ…」
毎日のように加速する妻の愚痴に、ついに耐え切れなくなったのが昨晩。
「俺だって…俺だって頑張ってんだよ!!お前はパートにもいかず、昼から酒を飲むばかりじゃないか!!ふざけるな!!」
「……離婚よ…離婚だわ!!」
「な、なんだと!!」
その後口論は三時間に及び、僕は翌朝、つまり今日目覚めると、近所のカフェに即移動、朝から晩まで働くと、友人のライブに向かったのだった。
悪酔いしてしまった。しかし、借金をどうしたものか…。
「運転手さん」
運転手は黙々とハンドルを握っている。
時折、窓の外に目をやるような仕草をするものの、ほとんどは運転に集中しきっている。
「さっきの、喧嘩にならなかったんですか」
少々聞きづらかったが、好奇心が勝ってしまい、僕は質問をした。
「あれですか」
運転手の声は、低く、骨太で、どう考えても見た目の年齢からは考えられないような声だった。
「喧嘩にはなりませんでした。二三、こちらの思う所を話したら、盛大に謝ってくれました」
「そうですか…いやあ、僕、喧嘩かなって、ちょっとドキドキしちゃいましたよ。そういえば、タクシーのドア大丈夫だったんですか?」
「ああ、あれは修理費を頂きました。」
「えっ。あんな短時間で…」
「はい…」
「すごいですね、どうやったんですか。」
「それは…マア…普通にしゃべっただけです」
「そうですか…」
どうやら運転手は多くを語る気はないらしい。
その時。
携帯の着信音が鳴った。
「うっ…!!」
そこに書いてある名前は、吉岡。
膝が震えた。
どうしようか。出るべきか、出ないべきか…。
窓の外を見て現実逃避をしようと思ったが、沢山の高層ビルの風景はとても冷たく、動揺は全く収まらなかった。
吉岡。その男は、妻が借りた街金の債権回収を担当する、「林檎組」の下っ端ヤクザだ。
吉岡から携帯に深夜などに連絡が来るようになったのは最近だが、既に精神的に限界に来ていた。
吉岡は電話に出ると恐喝まがいの言葉を吐きかけてきたり、挙句の果てには、「奥さんにいい仕事を紹介しますよ」などと、天に誓っても許せないような事を言ってくる。
しかし、金を借りているのはこちらで、言い返したくても言い返せないのが現実だ。
だから、よく着信を無視しているのだが、何度も、何度もかかってくるので、出ざるを得ないのだ。
出るべきか…。出ないべきか。
とりあえず僕は、携帯の電源を切ることにした。
「ふぅ…」
ひとまずは安心だ。
運転手とでも雑談して、気を紛らわせよう。
「運転手さんは、この仕事、長いんですか?」
控えめに聞いてみると、運転手が答えた。
「ええ…五年くらいは、やっております」
「へえー!五年目ですか。もうだいぶ慣れてきてるんじゃないですか?脱サラ組ですか?」
運転手は少し間を開けると、
「そうですね、脱サラ…みたいなもんです。自由でいいですよ。タクシーはね。」
と、思っていたよりも愛想のいい感じで答えてくれる。
この人、いい人そうだなあ…。
借金のことを、愚痴ってしまいたい。
どうせタクシーは一期一会。しかも、このいかにも世間に詳しそうな雰囲気の運転手になら、何か役に立つアドバイスをもらえるのではないだろうか。
つい、そんなことが頭をよぎる。
今日のライブでは、楽しむことはできたが、誰にも今の自分の状況を相談できなかったのだ。
ここで相談してしまおう。
どうせ期待はそれほどしていない。
僕は、重い口を開くと、
「運転手さん」
「ちょっと相談乗ってもらってもいいですか?」
運転手は少々面食らったようだったが、
「ええ、私なんかで良けりゃ、話ぐらいは聞きますがね」
と言ってくれた。
「ありがとうございます」
「実は…」
と、切り出そうとしたした時、
「お客さん、話を聞くのは全然いいんだけどね」
「ほら」
「もう着いちゃったよ」
目の前には僕の住んでいるマンション脇の高架がある。
どうやら、なんだかんだと考えているうちに、家まで着いてしまったようだ。
「はは…相談、出来ませんでしたね…。まあしょうがないや。おいくらですか?」
「ありがとうございます。1260円です」
「はい」
僕は財布をあさる、が…あっ!!
今日は節約しようと、出かける前に財布の中身を家のタンス貯金に入れてきたのだった。
「すみません」
「お金を取ってきてもいいでしょうか?スマホと免許証を置いていくので…」
「いいですよ」
「ありがとうございます」
僕はタクシーを出るとマンションの入り口に向かった。
すると…。そこには。
「うっ!」
吉岡だ!吉岡が、ガラの悪いスーツを着てガムを噛んで立っている!!
「おお!お帰り!!」
見つかった!!
吉岡が走ってくる。と思うと、次の瞬間、僕の顔面が一瞬で麻痺した。
ハイキックだった。
「ごふっ!」
鼻血と涙で前が見えない。僕は吉岡に蹴られたのだ。
しゃがみこんだ僕は頭を守りながらうずくまる。
そこを、吉岡が先のとがった革靴の裏で踏みつける。
もう、終わりだ…。
そう思ったその時。
「お客さん、大丈夫ですか」
運転手が姿を現した。
まずい!あんな年配の運転手、吉岡にやられたら、命に関わるぞ。まあ、僕が既にどうなるか分からないくらいの痛みを感じているのだけど。
「なんだァ、ジジイ、何がしてえの?邪魔するとお前もやるよ?」
吉岡が運転手を脅す。
だが…運転手はびくともせず、
「やめなさい」
「やりすぎだよ」
と言った。
吉岡は
「うるせえな!」
と言うと、さすがに相手が高齢だからか軽く肩を掴んだ。
運転手のワイシャツがずれる。
するとそこには…。
凄まじい和柄の入れ墨と…銃で撃たれた傷跡があった!!
「うっ!!」
さすがに吉岡も驚いたようで、
「あんた、元極道か…??」
と聞いた。
「そうだ。これでもまあまあ大きな組を持ってたが、五年前、足を洗った。暴対法で家族が苦しむのが耐えれなかったんだ」
「場奈々組って分かるか?」
「えっ、えええーっ…場奈々組の親父さんといえば、俺の兄貴が若いころずいぶん世話になったって…」
「失礼いたしやしたッ!!」
「そんなやり方をしたら相手も苦しい。お前もすぐ捕まる。それじゃダメなんだよ。返してくれるのを応援するんだよ。極道が義理人情を忘れたら終わりだぞ」
「はいッ!!」
「自分、林檎組の吉岡と申します!!今後とも宜しくお願い致します!」
「いや…わしはもう現役じゃないから」
「はいッ!!」
「ありがとうございましたッ!!」
吉岡は名刺を運転手に渡すと、逃げるように去っていった。
僕は、なぜドアを蹴とばしたサラリーマンがすぐに弁償金を払ったのかが分かった。
薄れゆく意識の中で…。

翌日。救急車を呼んでくれた運転手のおかげで、顔面包帯ぐるぐる巻きながら、僕は何とか生きていた。
運転手が働きかけてくれたのか、返済の催促は、別の腰の低いおとなしそうな人間に変わった。
運転手は、せっかくの縁だから、と、その後も一緒に飲んだりする仲になったのだが、酒癖が悪く、酔うと昔の自慢話を演説しだすので、僕は困っている。
しかし、なんだか、心強く、僕はもう一度、ゼロから頑張ろう、あの年で足を洗った彼のように。
と、考えるようになったのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?