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初期衝動だけで演出意図を考えるシン・エヴァンゲリオン考察

2021年3月8日、ついにエヴァンゲリオン新劇場版の完結編が公開されました。
テレビシリーズを生で見ていた私ももうすぐ40になってしまうくらいの時間が流れました。
映画の感想なんて受け手次第だし、前知識なく見ても普通に楽しめると思うので野暮な考察なんてしなくていいのでは?と思いつつ、おせっかいにも演出意図を考えていきます。

観てない人は、まずは映画館で観ましょう。でないと何を言っているのかわからないはずなので。

14年間の空白

新劇場版での最大の変化は、空白の14年(シンジが14年間眠っている間に色々起きてしまう)だと思います。
なぜか誰もシンジに状況をちゃんと説明してくれないため、シンジも観客もポカーンとしたまま話が進んでいくというのがQでのお話でした。このポカーンを回収してくれるのが完結編です。
例えば、新劇場版ではアスカの14年越しのトラウマ=「レイを助けるためには世界をも滅ぼすが、アスカは見殺し」が解消されます。
アスカはQでシンジを回収してからガラス越しにぶん殴り、Qの最後にエントリープラグ内でいじけているシンジを「なんで私は助けに来てくれないの」と蹴り飛ばしましたが、新劇場版ではシンジの成長を感じ取り、自分の気持ちを正直にぶつけます。そしてシンジも見事にその期待に応えるのです。

くしくも新劇場版:序の公開が2007年、完結編が2021年と実際の時間軸でも14年近く経っていました。

シンジとアスカの恋模様への影響

旧劇場版ではシンジとアスカはお互いに子供なので好き同士なのにうまく行かない展開になってしまいました。新劇場版では、アスカが少なくとも精神的には「大人」になったことにより、シンジを「ガキ」と呼ぶようになり、表面的には冷たく当たりながらもシンジのことを見守り続けます。
Qでのショックから廃人と化したシンジが立ち直ることが出来たのは、アスカのおかげでもあります。
しかし、アスカは28歳。シンジは14歳です。アスカから見るとシンジは文字通り「ガキ」なので、恋に一直線という気にはなれず、どうしても一歩引いて冷めた感じになってしまうわけです。
(アスカが常にシンジにイライラしている理由もこの精神年齢のギャップが一因でしょう)
さらにネルフからヴィレへの転職(?)のごたごたの中で、綾波シリーズはシンジに好意を抱くように調整されているので、自身も同じように調整されているだけなのでは?という疑念も抱くようになります。
だからもうシンジとは(エヴァのいる世界では)うまく行かないわけです。
また、ケンスケとの関係は後ほど考察していきます。

Qでシンジに冷たかった理由

Qではミサトさんをはじめほぼすべての登場人物がシンジに悪意を示すか冷たく突き放すという謎の展開がありますが、その理由は14年の間に世界は変わりそれぞれの後悔と決意があったからです。
特にミサトは、なぜ大人の自分が何もせずにシンジという子供にすべてを押し付けてしまったのかを後悔しているので、「シンジをエヴァに乗せない」ことにこだわっていました。これはレイもアスカも同じですね。
Qで目覚めたシンジはもう初号機とシンクロできません。初号機はシンジの母親のユイと融合しているため事実上シンジの専用機なのですが、シンクロ率が0%になってしまいます。これは初号機に残っているレイが「碇君がエヴァに乗らないでいいようにする」ためです。
アスカはシンジが射出されたエントリープラグから救出した後に立ち直れるように第三村へと連れて行き、第三村での生活になじめるように、元同級生のケンスケの手伝いをさせます。そして最終決戦時にシンジをヴィレに誘いません。つまり、シンジをもうエヴァに乗せて戦わせたくないわけです。

マリという異物

旧劇場版には登場しなかったマリはその存在自体が異質ですが、マリのためにエヴァの設定もいろいろ変更されています。旧作ではシンジ同様エヴァに乗るには母親の魂を事前にエヴァに取り込む必要があったわけですが(リリスとアダムの魂を持つレイとカヲルのみ例外)マリは複数のエヴァに乗っているのでこの設定が無くなっています。
また、マリはゲンドウの大学時代の同級生なのでゲンドウのことを「ゲンドウ君」、冬月のことを「先生」、ユイのことを「ユイさん」と呼びます。
このことはQで冬月がシンジに赤ちゃんを抱くユイの写真を見せた時にマリが映っていることから推定されていたことですが、ゲンドウの回想ではマリがゲンドウを冬月とユイに引き合わせているように見えました。
旧作では「仕組まれた子供たち」は全て子供です。しかし、マリはゲンドウと同年代という事になるので、いつエヴァに乗るようになったのかは不明ですが、ユイが初号機に取り込まれるのと同時期だとするとマリは既に「大人」の見た目という事になります。(精神年齢はゲンドウと同等)
マリも名前の由来となる軍艦は綾波タイプであるので、式波同様、クローンという設定にすればマリもアスカのように子供として登場させることは可能だったはずですが、制作陣はあえてそうしなかった。
クローンだと大学時代の記憶があるのが不自然という問題もありますが、マリの役割は「ガキ」シンジや、エヴァの呪いで見た目だけ「子供のまま」のアスカを導く「大人」であるべきだからではないでしょうか?
唯一「大人の」エヴァパイロットであるマリの存在がエヴァという壮大な物語を完結させる鍵になるはずです。
作中でマリはアスカの髪を切ってあげるのですが、それはまだ「人間」であるという証拠だとマリは言います。
マリはエヴァの呪い歴(?)がアスカよりも長く、その行き着く先を知っているからでしょう。(因みに綾波2号も髪が伸びています)

レイの救済

Qでのレイの望みはシンジがエヴァに乗らないことですが、残念ながら初号機のシンクロ率を0%にしても、シンジは13号機にカヲルと乗って絶望してしまいました。
初号機に取り込まれたレイには他にやりたいことがないようでしたが、最後の精神世界(?)では他のクローンの記憶が引き継がれているようです。
第三村で、ほとんど赤ちゃんの精神状態から温かい周囲との交流を通して、「自分はここにいると死んでしまうが、それでもここにいたい」という思いに至ります。
また、アスカにシンジを好きになるように調整されているとばらされてもまったく気にしておらず、シンジへの好意を素直に表現します。
クローンでもゼーレに精神をいじられても、君にもきっと「居場所はある」と言うシンジの言葉を受けてエヴァのいない世界へ旅立つわけですが、唯一の心残りがシンジのことでした。
詳細不明ですが、最後の精神世界では、「誰か」が送り出してくれないと脱出できない設定のようなので、シンジがレイを送り出してしまうとシンジが取り残されてしまうからです。
レイはユイの思いを引き継いでいるのでシンジを守ることを優先してしまうわけですね。ここでシンジは「大丈夫、マリが助けに来てくれるから」という謎の説明で丸め込みレイを仕組まれた運命から解放しました。
おめでとう!

アスカの救済

両親が不明のクローンという設定となったため、旧作とは事情が異なりますが、アスカの行動原理はエヴァ専用パイロットとして「エヴァに乗ること」=「存在意義」です。新作では旧作のように加持に執着しておらず、よりエヴァパイロットとしての誇りが強調されています。
これはマリのことを「コネ眼鏡」と呼んでライバル視している理由でもあります。
一方、見た目は子供のまま年だけ取っていくという「エヴァの呪い」のせいで別のコンプレックスを抱かされることになりました。
第三村で、アスカはトウジや村人から距離を置き、山奥で暮らすケンスケの家に居候しています。村にはトウジとヒカリ夫妻も住んでいますが、彼らのように自分は年を取ることもなく、彼らのように子供を持つこともおそらくできません。これはよくよく考えてみるとかなりきついです。
言ってみれば、30過ぎて仲良かった友達の中で自分だけ結婚していないみたいな感覚に近い気がします。
また、エヴァの呪いは進行性らしくシンジはまだ食事をとれますが、アスカは水を飲むことしかできず、睡眠も不可能になっています。アスカ自身が「村にはリリンが多すぎる」と言っていますが、自分はリリン=人間ではないという自覚がはっきりあるわけですね。
最終決戦時にケンスケがカメラを向けると撮らないように怒るシーンがあり、これは一見カップルのやり取りにも見えますが、アスカが映像に取られることを嫌がるのは、自分以外の知り合いは年を取るのに自分は子供のままであるという現実を改めて目の当たりにすることになるからでしょう。
そして、一部で物議をかもしたケンスケに裸を見られても気にしない様子も、自分を人間であると思っていないからです。(また、人間だとしても自分だけ子供のままであり大人の男性とは釣り合わないという気負い)
このシーンと対比されるのが、シンジにエヴァのいない世界に送られる前にシンジに「僕もアスカが好きだった」と告白され、年相応に成長し破れたプラグスーツを隠すように背を向けるシーンです。エヴァの呪いから解き放たれて、人間に戻り照れて縮こまるアスカ。
…最高!
アスカは自分がエヴァのパイロットになるために作られたクローンだと自覚していて、第三村においてなんら村人の手伝いはしません。なぜならエヴァに乗って村を守ることが自分の仕事だと信じているからです。
これはアスカの思い込みというかゼーレによる調整の結果かもしれませんが、それ以外の未来もあるのです。
その可能性を示してくれていたのがケンスケだったはずです。あの村で、綾波クローンのように農作業やったっていいし、シンジのようにケンスケを手伝ったり釣りをしたっていい。
だって、もうエヴァに乗る必要などないのだから。

シンジの救済

シンジにおける最大のトラウマは父親であるゲンドウに捨てられたことです。
母親の記憶はほぼなく、ゲンドウは仕事を口実に育児放棄しているため、「父親に認められたいが、どうせまた捨てられる」と思い込んでいるわけです。
こんなシンジに必要なのは、作中でアスカが言っている通り「恋人ではなく母親」です。
作中では、ミサトが母親的な役割を担えそうで担えない事でシンジはさらに自分の殻に引きこもることになってしまいました。(これはミサト自体が父親に守られて自分だけ生き延びたことによるトラウマとも関連していますが)
興味深いことに、「愛する人を失い、大切なものから目を背けてしまう」という物語の構造は、作中で3パターン繰り返されています。
一番の失敗がゲンドウで、ユイとの再会のために世界を滅ぼす一方、シンジの育児は放棄します。
別のパターンがミサトで、加持と死ねなかったことを後悔しながら、加持との息子の育児は仕事を言い訳に完全に放棄し、今度こそシンジを守るため、人類を守るために一人で巨大化リリスに特攻して行きます。(加持の育てていたスイカの種を受け取ったり、ミサトの子供の身長がシンジよりも大きいところとか細かい演出が光る)
そして最後のパターンがシンジ。綾波クローンはネルフでの調整なしでは生きられないという自分の運命を受け入れ、それでもシンジに「名前を付けてもらえて嬉しい」と言う。その死というよりも生き様を正面から受け止めて、シンジは人間として大きく成長する。だから自分からヴィレに戻り、アスカともミサトとも正面から向き合えた。
冬月に言わせれば「愛する者との別れ」をゲンドウ同様にシンジに味わわせる必要があるのか?というくらい酷い仕打ちのはずが、シンジはゲンドウに共感せず、その先へ行ってしまう。
皮肉にも、ゲンドウはシンジに「自らの弱さを認め、受け入れること」を諭されることで、ずっと会いたいのに会えなかったユイの存在にようやく気が付くわけです。
ゲンドウの回想にある通り、ユイはゲンドウを批判や批評せずにそのまま受け入れてくれる存在だったからこそ惹かれ、そして癒されたわけですね。
もしユイが世界を滅亡させようとしているゲンドウを見たら、シンジと同様に「あなたの弱さを含めてあなたなんだから」と言ってくれたでしょう。
シンジはカヲルとの会話で、自分のことはもういいからアスカとか他の人を助けたいと願います。そして、時間や世界を戻すことなく、すべてのチルドレンを救うことが出来ました。
シンジの救済という意味では、これで終わりでもいいくらいです。
でもそこで終わらないのが、このシン・エヴァンゲリオン劇場版の「優しい」ところです。

マリの救済

マリについては不明な点が多すぎるので、想像するしかないですが、作中でキリストを裏切ったユダとキリストの弟子または妻ともいわれるマリアにかけた「イスカリオテのマリア」と冬月から呼ばれます。
裏切者として考えると、ゼーレ及びゲンドウの計画に加担するふりをしながら別の目的をもって行動していたと考えられます。
ゼーレのシナリオから外れ、ヴィレが新たな槍を作り出してミサトがシンジに届ける際には、亡きユイに「人類はここまで来ました」と嬉しそうに語りかけているので、ユイがエヴァに取り込まれる前にユイからゼーレのシナリオを超えるアイデアを聞いていたのかもしれません。
また、ユイの上司であった冬月は、シンジに写真を見せた後に「ユイ君、これでよかったんだな」と後悔しながらつぶやいているので、ユイに何かを頼まれていた描写があります。
新劇場版では冬月がなぜか、訪ねてきたマリにマリが必要としているエヴァシリーズを用意して待っています。
これはおそらくは「アダムスの器」と呼ばれる何らかの儀式に必要な特殊なエヴァです。
マリはこのエヴァを予定通り8号機で捕食し、本来たどり着けないはずの「エヴァのいる世界でエヴァが消失したことにより消えゆく世界」に取り残されたシンジのもとにエヴァにのって駆けつけます。
色が無くなり消えそうな世界にマリとエヴァが入ってきて色が戻るという演出です。もちろんこれは、「どこにいても必ず見つけ出す」と言っていたマリのセリフの回収です。
映画の最後、駅のプラットフォームには、助けられたチルドレンたちがいます。シンジもいますが、マリだけいません。おそらく、マリがまずはシンジをエヴァのいない世界に送り出し、わざわざ持ってきたアダムスの器を食わせたエヴァを使った儀式(?)で最後に自分も脱出したのでしょう。
ここで、恋人かのような「だーれだ?」クイズが入るわけですが、私はどうしてマリが「胸の大きい、いい女なのか」見ている最中は全く気が付いていませんでした。(作中でのマリ本人のセリフ、周りの男が言ったわけではないです)
シンジの声はわざわざ、緒方さん(女性、当たり前ですが)から神木君(大人の男性、当たり前ですが)に変更しています。
これはエヴァの呪いが解けて、シンジが大人になっていることを明示する演出です。
一方、マリは「昔」から「胸の大きい、いい女」なわけです。アスカに「髪が伸びるのはまだ人間である証拠」と言っていたマリは、既に髪が伸びない、人間ではない存在(使徒化した存在)なのではないでしょうか。
そして、本来簡単には外せないDSSチョーカーをシンジの首から外します。作中でDSSチョーカーを外すことが出来たのは、アダムスの魂を持つ使徒カヲルだけです。
演出的には、「ゼーレのワンコ」ことシンジから首輪を外し外の世界に連れ出す=シンジの解放、という最高の結末です。
マリ(および冬月、ユイ)はずっとこの時のために、ゼーレやネルフ、ゲンドウなどに気づかれないように準備して裏で動いていたんだなぁと考えると、シンジって幸せだなって思う。
というか本人は「孤独で誰も助けてくれない」と思っていても、誰かしらが「あなたのことを考えて動いてくれているのかもしれないよ」という優しいメッセージなのかもしれません。
マリは常にふざけて、物語を第三者的に楽しんでいる所がありましたが(戦闘中に歌を歌ったり、アスカを茶化したり)、ゼーレもゲンドウも超えちゃう結末をシンジにもたらすという悪魔的な魅力、ファウストのメフィストフェレス的な役割を見事に果たしたと思います。

おまけ:カヲルの救済

カヲルは作中でシンジに対して「今度こそ幸せにするからね」とつぶやいていることもあり、シンジを救うために世界をループさせているようです。
これは、TVシリーズ、旧劇場版、貞本版の漫画など様々なエヴァワールドで設定や結末が合わないことに対する一つの答えでしょう。
ループしているのでバッドエンドもハッピーエンドもなんでもOKです。
一方、カヲルの「一方的な」シンジ救済計画は、シンジ本人により否定されてしまいます。シンジはカヲルに助けてもらわなくても、綾波クローンの生き様を通して、ミサトさんから命がけで届けられた槍を受け止められるだけの成長をしてしまいました。
シンジはカヲルのように「世界を戻す」のではなく、エヴァのない世界を創造します。
カヲルにしてみればバッドエンドにも思えますが、結局シンジが幸せなのだから問題ないわけで、カヲルの居場所は意外にも空白の14年にありました。
本編で語られていないようなものですが、新劇場版:破の後にネルフ関係者は拘束されて、ネルフは組織改編があった(?)のかゼーレから送り込まれたのか、カヲルと加持が協力してエヴァMark6を使いサードインパクトを阻止したらしく、この時にカヲルと加持の間には強い友情(?)が生まれていたようです。
正直、いきなり加持に「渚司令」「りょうちゃん」というやりとりみせられても、ポカーンですよ。
なんにせよ、もうシンジのためにループして首を飛ばされる必要もなくなったので、カヲルも無事、仕組まれた運命から解放されたわけですね。
おめでとう。
そして加持さんは二重スパイどころか三重スパイだったのか。

おまけ:ケンスケとアスカの関係

一部ではケンスケとアスカが付き合っているのでは?という解釈もあるようですが、私はそうは思いません。
アスカの救済でも書きましたが、アスカはもう自分は人間ではないと思っているので、トウジとヒカリのような夫婦にはなれないことを誰よりも理解しています。
裸のシーンは、昔シンジとミサトの家に居候していた時との対比で、アスカはかつてはシンジに裸を見られて暴れまわるほど恥ずかしがっていました。
今はもう、シンジもケンスケも人間の異性として意識していません。
シンジに告げる「私が先に大人になっちゃった」という発言も、体は子供のままなので「精神が」先に大人になっちゃったという意味でしょう。
むしろ、演出意図としては、シンジとの関係に区切りがついて思い出すのがケンスケとの関係であり、この先にケンスケのような人と出会えたなら、友人として仲良くなれたり、付き合ったりすることもあるでしょうという含みを持たせたものであると思います。
というか、まあアスカは基本エヴァに乗ってネルフ側のエヴァ量産機と各地を転戦している14年間だと思うので、暢気にケンスケと付き合っている時間もなかったでしょう。さすがにアスカとマリのエヴァ2体だけでネルフを敵に回すのきついですよ。

なぜケンスケなのか?ですが、実は最適なキャラだと思います。
ケンスケは自分の興味のあることにだけのめりこむ、いわゆる「オタク」であり、周りの普通の同級生からは浮いています。
子供の時は何も考えずにいられるかもしれませんが、ケンスケが大人になっていく中で、「自分は他人と違う」ことに悩みながらもそれを受け入れ生きていくしかなかったから、今のような構いすぎない優しさを身につけたのでしょう。
トウジのちょっとおせっかいすぎる対応と対比され、後にシンジが綾波クローンに吐露する「どうしてみんな僕にやさしくするの?」という屈折した思いを理解できるのがケンスケなんですね。
アスカの「自分は人間ではない、ヒカリのように母親にはなれない」という絶望と「それでも誰かと居たい」という人間の弱さを適度な距離で包み込んであげられるのがケンスケでしょう。

最後に

富野監督はガンダムの大ヒット後にガンダムしか作らせてもらえなくなった時期があったそうですが、庵野監督はそうはならないでほしい、というか完結しちゃったからもう流石に新作は撮れないですよね。

なんにせよ、エヴァ、最高。

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