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批評はLife Style −『歌というフィクション』をめぐる対話 pt.2− (対談:伏見瞬+韻踏み夫)

韻踏み夫(I)
伏見瞬(F)
吉田雅史(Y)

 F:韻君が事前に出してくれた議題の一つに、「海外の音楽批評についてどう見てるか」という話。天皇制に対する考え方やナショナリズムの捉え方で、ざっくり言って保守とリベラル、あるいは右翼と左翼で対立を深めても仕方ないみたいな感覚を僕が抱くというのは、つまり海外の人に日本の音楽批評が読まれてないからだと思うんですよ。音楽に限った話ではなく、批評が日本の外で読まれてるという話はほとんどきかない。柄谷行人がアジア圏で読まれているのが、数少ない例外。
最近考えているのは、英語なりほかの言語なりで書いたり話したりして、日本語話者以外の人がどういう反応を示すかを見る経験が日本の批評家には必要なんじゃないか、ということ。韻君と吉田さんのフィールドでもある日本語ラップに関しても、日本のヒップホップにはこういう歴史があって、こういうことが問題になってきたんだ、みたいなことを、たとえば英語圏の人に伝えるとどうなるか。「あ、全然違うわ」ってなるかもしれないし、もしかしたらアフリカン・アメリカンの人が「わかるぜ、bro」みたいになるかもしれない。日本から提示した文脈に対する海外からの反応を見ることによって、新しい一歩になる気がするんですよね。俺はそのことをすごいやらなきゃと思いながら、いまは手が付けられていない。サボってる。本当は「てけしゅん」も英語でやりたい。今言った批評文化の面でも、ビジネス的な問題としても意味がある。海外で、日本の音楽やカルチャーの需要は少なからずあるのだから。
外国語で批評を発することには、色々なメリットが考えられる。国内でやり続けていたらグダグダになってしまう言論状況を打開する可能性があり、ビジネスとしても商機があり、政治外交的な効果も持つ。個人のプレイヤーにとっても、日本全体の状況にとってもやった方がいいのに、私も含めた日本人はそれが苦手っぽい。実際やってみたら色んな壁があるだろうし簡単だとはいえないけど、今の時代にそこの壁をブレイクスルーしないと日本で批評やってる意味なんかない。そんな緊迫感は抱いているんですよね。
 
I:大変わかります。手前みそな話だけど、『日本語ラップ名盤100』がアメリカに向けて英語でとも思うし、韓国語とか中国語とかに訳されたりしねえかなと思ったりしたことありましたもん。
 
F:そうそうそう。英語以上に、韓国語と中国語は翻訳のチャンスありますよね。中国は市場が馬鹿デカいから、ニッチな本でも一定数は売れるという話もある。
 
I:ね。日本のヒップホップへの興味はそれなりにあるんじゃないかと思うんですけどね。現状唯一の日本語ラップの包括的な入門本だから。
 
F:先日、佐々木敦『ニッポンの思想』の増補版が出たのに合わせて、佐々木さんとミュージシャンのシバノソウさんと一緒にトークイベントに出たんです。そこで話したことなのですが、『ニッポンの思想』で書かれている1980年代から2020年前後までの40年、つまり浅田彰・中沢新一から東浩紀、最終的に國分功一郎と千葉雅也までという歴史は、全部輸入文化の歴史なんですよね。要するに、フランス現代思想の輸入文化が近年の「ニッポンの思想」だった。そうした輸入文化としての思想が、近年になって途切れる感じがする、國分さんと千葉さんで終わる気がすると佐々木さんは書いている。輸入が終わるとなると、今度は輸出をしないといけない。そうしないと新しい刺激が失せて、批評や思想が立ち行かなくなるのではと僕は考えているんですよね。
 
I:輸入から輸出へ、というのは面白いですね。批評という日本でガラパゴスに発展した知の形態が、海外とどう切り結ぶかというのはいくつか複雑な屈託を抱えていますね。たとえば自分の体験で言うと、去年絓秀実論というか『小説的強度』論を書いた。絓は日本の細かい左翼史や文学史にめちゃくちゃ精通してる書き手だけど、そっち方面フォーカスすると袋小路かなと思って、それを一回無視しようと、あえて『小説的強度』の現代思想的な側面を、「ここの元ネタはこれだろう」とか言いながら、つまり世界性の線で読もうとした。そしたら、案の定、絓というのは世界における日本のマイナー性にこだわった批評家じゃないのか的なツイートが流れてきたりした。それも言ってること全然わかる。西洋理論万歳みたいなのはどうなのかとか、散文性こそ批評だとか、そういう議論はもちろん僕も知ってる。けど、現状を見ると僕はそっち方向にあまり未来が見えなかった。貫いてる人にはリスペクトだけど。まあだからそういう西洋理論万歳もそりゃダメだろうけど、かといって日本に閉じてるのも湿って淀んだ空気が流れるだけだし、というような問題は批評史の論点にあると思う。たとえば、西洋に対する反骨精神みたいなので言うと、さっきの蓮實のインタビューなんかまさにそうで……なんかもうあれ笑っちゃうよね、嫌味がすごくてさ。アメリカのアカデミシャンが、みたいな嫌味を節々に。
 
F:笑いますよね。流石だわ、となる。
 
I:あそこでカマしに行ける教養というか、国際感覚というか、その迫力がありますよね。一方で柄谷は一億円だかの賞を取って、マジ批評ドリームじゃんとか思ったわけだけど、そういう柄谷がポール・ド・マンなりジジェクなりとの絡みがあったりというのもあったり。それに対して日本というこの環境に粘り強く内在して批評をしようという人も別にリスペクトなんだけど、でも最近は僕も、ちょっと世界見てなさすぎるなって見方に重心傾いてるかな。
 
F:先ほどの「海外の批評をどう見ているか」という設問に戻ると、まず、PitchforkやRolling Stoneみたいな英語圏音楽メディアに掲載されているレビューって、訳しても別にそんな面白くないよねっていうのが感覚的にある。
 
I:うん、まあね。
 
F:音楽批評に自分独自のパースペクティブを持ち込もうとしている我々のような人って、向こうでは日本より少ないんじゃないか。もうちょっとナード的な気質が向こうのミュージック・クリティックにはある。あるいは、アカデミックな研究とレビュー文化が分かれている。日本には、音楽研究と批評とレビューが渾然一体となっている文化がある。もちろん、『Retromania』のサイモン・レイノルズみたいな興味深い批評家は今の欧米にもいるし、日本でも大したこと書けないライターはたくさんいるから、一概には言えない。でも、日本の過去10年20年の音楽批評を見れば、菊池成孔と大谷能生がいて、田中宗一郎がいて佐々木敦がいて野田努がいてと、ライティングセンスも音楽の好みも人間性もバラバラなクリティークがすぐに浮かぶ。僕の10~20歳上の、1960年代から1970年代生まれの人たちには、それぞれの方法で今でも面白いことをやってる人が多いと思うんです。僕にはそうした先人を受け継いでる要素は間違いなくあるし、ラップ批評も多かれ少なかれ同じことが言えるんじゃないかなと思う。日本の音楽批評は、海外と比べても相対的に豊かに見えるんですね。そういう批評の遺産を僕らがどう活かしていくかが、今問われていると感じる。
 
I:うん、そこもまさに伏見さんと話したいことだった。伏見さんは佐々木さんなりタナソーさん(田中宗一郎)なりを引き継ごうというような意思が、なんとなく活動を見ていると感じられる。それが偉いなっていうか、リスペクトだなっていうか。
 
F:まあ、個人的には背負うのが楽しいからやってるだけなんですが。とはいえ、先人の功績を背負ってやってというのは、良くない意味でマッチョイズムのような気もします。一方で意気揚々と歴史と文脈を背負いながらも、もう一方でその入れ込み具合を恥ずかしくてダサいものとして無視する。そういう、矛盾にも似た二面の感覚は持っていたいと思う。「POP LIFE THE PODCAST」の話になるけど、司会のタナソーさんはそういう批評の歴史や文脈の話に乗るけど、もう一人の司会である三原勇希さんはそういう話にほとんど乗らない。それに似たバランスとか両面性は持っておいた方が楽しい。
 
I:。「POP LIFE THE PODCAST」の最終回で、「タナソー特集」で行こうみたいなのやってましたもんね。
 
F:そうそう。僕の企画が発端になって最終回が「田中宗一郎特集」になったんだけど、あそこで三原さんが「結局、過去の業績は私にはどうでもいい」みたいなことを言ってて(笑)歴史を意識するあまりに思考や行動が凝り固まったり「自分が偉い」と勘違いしたらつまらないから、その感覚を持つことは大事なんだよね。タナソーさん周りの人はみんな三原さんのこと好き好き言うから、単純な図式で褒めたくはないんだけど(笑)。
 
I:たしかに批評のホモソ的連続性というか、小林・江藤・吉本・柄谷云々みたいな固有名数珠繋ぎの問題とかいろいろ議論ありますからね。僕も結構師弟関係なり影響関係なりを気にする方で、日本語ラップ批評でいうと磯部涼さんがいて僕が日本語ラップ批評書く上で最大の影響を受けてるけど、その磯部さんの上には野田努がいて、とか。そういうのを三原さんのように距離を置いて見るのも大事だし、批評っていうのはそういう営みでもある。
 
F:「歴史の繋がりが大事」と、「そんなん知らんわ」という感覚。この二つの視点の両立をやる意識が「てけしゅん音楽情報」にはある。自分の場合、中学生くらいのときからホモソーシャルと呼ばれる空気感が苦手だったんですよね。中高一貫の男子校にいて、「男だけだから喋れることあるよな」とか言われても、「別にそんなことないけどな」と思ったりしていて。女の子だから話せないことなんかない。話せる・話せないというのは友人それぞれに対してはあっても、性別でパキッと分けられるものはない。もっとみんな混ざればいいじゃん、そっちの方が楽しいじゃんと思うタイプの人間だった。それは、僕がヒップホップ文化に感じる距離感とも繋がっている。
 
I:うんうん、その「混ざればいいじゃん」的な感覚はね、僕もフィールしますね。批評やってても、そんな細かいことでぐちぐち言ってないで「混ざればいいじゃん」とよく思う。ユニティだろ、リンクアップだろ、ソリダリティだろ、みたいな。そういう感覚で生きてた方が楽しいなと思いますけどね。
 
F:やってて楽しいからね。
 
I:ですよね。そういうのはよく考えてて、たとえば自分の文章のなかで、この人とこの人現実では仲悪いらしいけど別に関係ないし一緒に引用しちゃおう、とか。
 
F:うん。
 
I:あと、海外の音楽批評というテーマでもうちょっと聞きたいなと思ったのは、たとえばだけど、タナソーさんはブルース・スプリングスティーンの本書いたデイヴ・マーシュってひとを尊敬しているとかってあって。
 
F:雑誌『CREAM』からキャリアをスタートさせた批評家ですね。エルヴィスの本なども書いている人。
 
I:タナソーさんや野田さんは明確にマーシュなどの欧米の批評を意識していますよね。ロック批評の60年代の第一世代にはポール·ウィリアムズとかいて、ブラック·ミュージックにはリロイ·ジョーンズいて、そのあとでグリ―ル·マーカスとかサイモン·フリスがいて、マーク·フィッシャーなりサイモン·レイノルズなりグレッグ·テイトいて、とか。で、タナソーさんとか野田努とか、多かれ少なかれそういうのを意識してたんだろうなというのに思い至って。で、手前みそな話だけどたとえば自分の場合は、前やってた連載「耳ヲ貸スベキ──日本語ラップ批評の論点」(文学+WEB版)では、先行する文献をすごい掘ってきて書く、みたいなことをやっていた。あれは半分、文献紹介のために書いていたと言ってもいい。とか、文芸批評では、『批評空間』の「近代日本の批評」があり、東浩紀もその後のことを『ゲンロン』で引き継いた。そういう、過去の批評の歴史化することで立ち上がってくるものがあると思ってて、大谷さんだって栗原裕一郎と『ニッポンの音楽批評』って言って、150年分の音楽批評を振り返り100冊読む、みたいな本を出している。あれは日本版だったけど、海外のそういう音楽批評の歴史化みたいな意識も必要だと思う。その意味では、ヒップホップ批評/研究の歴史はまあ言っても長くないけど、ロックはそれよりも歴史と蓄積があるはずだから、もっといろいろできそうで羨ましいなと思ったりするんですよね。
 
F:英米の批評をもっと掘り下げなきゃいけないとは僕も考えています。Pitchforkのレビューとか面白くないよねとは言ったけど、重要な著書は英語圏に当然たくさんある。歴史を掘れば山ほどある。最近ではimdkmさんたちと『Retromania』の読書会をオンラインでやったりしています。以前に、名著と名高いグリール·マーカス『ミステリー·トレイン』のロバート·ジョンソン論の章を全文写経したことありました(笑)
 
I:そのエピソードやばい。最高。
 
F:日本で出版されている『ミステリー・トレイン』の翻訳は、三井徹さんというこの前亡くなったポピュラー音楽研究者の方がやっている。三井さんのことはリスペクトしているんだけど、『ミステリー・トレイン』の翻訳は全然よくないのよ。グリール・マーカスの文章って英語で読むと簡潔でイメージ喚起力があるのに、翻訳ではわかりにくくぼんやりした文章になっている。英語で読むと、ロバート・ジョンソンがどういう風にアメリカのスピリットみたいなものを体現しているのか、グリール・マーカスがブルース/ロックを通してどのようなアメリカ史を描こうとしているのかが強く伝わってくるんですよ。原文を多少読んで、僕の中でのグリール・マーカスの評価はめっちゃ上がった。そういう発見をもっと経験しないとなと思う。ブラック・カルチャー批評も、ジャズ批評も含めてもっと原文でちゃんと押さえなきゃいけない。話を戻すと、僕が受け継ぐべきものは一つは音楽批評の流れで、菊地さん大谷さんタナソーさん佐々木さん野田さん、加えて片山杜秀さんや細馬宏通さんの仕事を自分なりに更新する。その前には中村とうようや渋谷陽一がいるわけだけど、先人にはグリール・マーカスとかポール・ウィリアムズとかデイヴ・マーシュとかアメリカのミュージック・クリティックも含まれる。で、もう一方の系譜はいわゆる「批評」ですよね。小林秀雄に端を発すると言われている流れ。吉本、江藤、蓮實、柄谷、浅田、東みたいな系譜も、僕は間違いなく引き継いでいる。その二つの流れが合流する仕事をしたいという気持ちはずっとあります。『スピッツ論』は、確実に二つの系統を意識してますね。
 
I:ほんとそう。僕もまったくそう思う。僕も大学生の時に文芸批評読んでて、それで文学を対象にしても絓とか柄谷に勝てないしと思ってラップを対象にしようと思って書き始めた。そういうアプローチの人って別に僕の後も出てきてはいる。でも、あるとき、文芸批評だけじゃなくて音楽批評の豊かな歴史を知らないでは全然ダメだと気付いた。若き日の自分は、音楽批評より文芸批評の方が偉くて、それを音楽批評に教えてやるぜくらい思ってた気がするんだけど、そういうのは全然ダメ。で、いまのタイミングというのはちょうどマーク・フィッシャーという人が日本でブレイクしてるわけでさ。思想と政治と音楽をもう一度セットでラディカルに考えるという流れが出てくるべきじゃないのか、と。だから音楽ジャーナリズムの側にも、もっと批評的政治的なラディカルさが欲しいし、逆に言えば批評系の人にももっと音楽批評で読むべきものがあるぞと言っていくべきというか。雑なこと言うと、マーク・フィッシャーで加速主義だの言ってる思想系の人は、日本でベリアルとかリアルタイムで反応してたのは野田努なんだからちゃんと『ブラック・マシン・ミュージック』も読むべき、みたいなさ(笑)そこを両方やるというのは僕は意識したいところ。それでアメリカのヒップホップ批評の掘り起こしみたいなのも多少は、さっきの連載なり、『ユリイカ』フィメールラップ特集なりで書いた。すると、日本の批評と響き合うじゃんとか、向こう早いなとか、いろいろ出てくるわけで。
 
Y:ちょっといい。あのさ、俺らもさ、「原文読書会」やろうよ。マジ今の超いいと思った。だってさ日本でヒップホップ批評を原文で読んでる人はやっぱり少数派だと思うしさ。絶対やったらいいよね。サイモン・レイノルズも絶対やるべきだと思うし。ダン・チャナスの『The Big Payback』とかも。デイヴィッド・トゥープとかもやりたい。
 
F:デイヴィッド・トゥープいいね。
 
I:『Rap Attack』ね。
 
Y:俺としては最近では80〜90年代の他のカルチャー、音楽ジャンルのクリティックの人がヒップホップにコミットしていく論が一番面白いと思ってるところがあって。デイヴィッド・フォスター・ウォーレスの『ラップという現象』とかさ。当時のヒップホップという新しい異質なものをどう捉えるのかっていう葛藤/格闘がすごいあるじゃない。ニューウェーブとかポストパンクの流れがあるところにヒップホップがどう映ったか、っていう。ヒップホップ·ネイティブな世代の人の面白さももちろんあるんだけど、たとえばサンプリングひとつとってもどう捉えればいいのかまだ分からない中で、少しずつ言語化してくっていうあの時代の読み物って面白いよね。ああこれ絶対やりたいわ。
 
I:『J·ディラと《ドーナツ》のビート革命』の訳者であられる雅史の英語力は武器なわけだから、読書会開くというなら僕も行きたいよ。めっちゃ需要あるでしょ。
 
F:たしかに雅史が言ったように、80年代のヒップホップ批評って「本場はこうなんだ!」とかじゃなくて、みんな現代の日本人としてのアイデンティティを考えながら四苦八苦してるわけだよね。
 
I:そうそう、まさに。俺前書いたしいっつも言ってるんだけど、アカデミックな文脈でヒップホップに最初に興味を示して擁護したのはヒューストン・A·ベイカーとかヘンリー·ルイス·ゲイツ·ジュニアとかっていう、黒人文学批評の人たちで、彼らはバルトとかデリダめっちゃ読んでるような人たちで、ポストモダンの理論を黒人文学研究に持ち込んだ人たちだったわけでさ。で、在野の批評家ではグレッグ·テイトという「ヒップホップ·ジャーナリズムのゴッドファーザー」とか言われてる人もいたわけだ。それで俺もヒップホップでドゥルーズだの小難しいこと言ってんじゃねえとか言われるけど、いやいや歴史に無知なのはお前らの方で、ヒップホップ批評を創始したOGたちというのはポストモダニストたちだったわけで、むしろ俺のスタイルこそオーセンティックで王道なんだよ、というのを半ばカマしでいっつも言ってる(笑)
 
F:まあそうだよね、カルスタとかのイメージが強いけど、その前に面白いのがあったんだということだよね。
 
I:そうそう。ぶっちゃけさ、90年代くらいまでの方が理論的水準高いわけじゃん。いまはだいぶ後退してるよ。
 
F:『ブラック・ノイズ』とかすげえ面白かったもん。
 
Y:『ブラック・ノイズ』は今読んでもめっちゃ面白いもんね。
 
I:そうそう、90年代、ゼロ年代くらいまでというか。日本の音楽批評もずっと名前上げてる上の世代の人たちがいたというのもあるし、フェミニズム/クィア理論もそうだし、ポストコロニアリズムの議論もだけど、その時代の遺産をどう今のポリコレ状況で引き継いでいくかは大事だと思ってるかな。
 
F:わかるわかる。俺が海外と繋がらなきゃいけないと思う一つの理由に、若者の人口減少があるんですよ。フーリッシュな状態の熱いソウルを持ってる人間に響く仕事をするのはすごい大事だと思う。若者の絶対数が少ないというのは僕らのビジネス、生活にとっても問題がある。英語で書けば、米国・英国だけじゃなくて、オセアニアやアフリカの人が読む可能性だって出てくる。「てけしゅん」でわかったのは、良いことか悪いことかはさておき、視聴者層は40代以上が多いんです。現行のポップミュージックって若者が聴いてるイメージあったけど、今はそんなことない。日本の人口分布を考えるとそれが自然かもしれない。でも、僕にはユースに届けたい気持ちがどこかにあるし、韻踏み夫君にもあると思うんだよね。それが、人口の数が少ないことによってできない、というのではやりきれない。
僕が昼に働いている職場でも人が足りないと嘆いている声が聞こえるけど、労働人口の減少を解決するとしたら、移民がどんどん増えるしかないと思う。移民が増えれば軋轢は確実に増えるし、その状況に反応する文章も書かなきゃいけないし、やりがいもあると思っている。まあこれはちょっと話が別だけど。
つまり議論が後退するっていうのもパイが少ないという状況があるからというのが一つ。なんかポピュリズム的に、しょぼいけど色んな人が読む本の方が目立つっていうのはあるよね。しっかりした議論をしている本が読まれていない。それこそ『歌というフィクション』だってそうだと思うし。これこそ、「じんぶん大賞」とか取るべき本なのに。で、あと言おうと思ったのが、さっきの音楽批評と文芸批評という二本柱につけ加えるとすると、フェミニズム/クィア理論も受け継ぎたいと思っている。ホモソーシャルじゃなくて色々混ざって遊べばいいと思っている私にとっては、欠かせない文脈。日本だったら若桑みどりや中島梓や村山敏勝、欧米だったらレベッカ・ソルニットやダナ・ハラウェイのような作家に啓発されてきたし、その流れは重要だと思う。ただ、今のフェミニズム/クィア批評の人の多くは、日本の批評の流れを「ホモソだから」という理由で簡単に無視しているようにみえる。でも、切り捨てるとつまらなくなる。
 
I:その感覚もとても共感です。僕も特に最近ちょうど、ベルサーニや田崎英明を読み返していて、それっていうのはやっぱり批評史的な議論とも深く結びついていると思うし、なんならヒップホップとも深く関係していると思っている。まあ批評の歴史はたしかに男性中心的で批評の悪いところなんていくらでも指摘すりゃいいと思うけど、すべてが完全にずっとそうだった、みたいな語り口には違和感がある。素朴に、浅田彰の、千葉雅也の議論がどこまでクィア理論として読まれているの、みたいな。両方を切り結んで、往還して、越境するようなことが必要だと思います。
 
F:これは千葉雅也が言ってることでもあるけど、東浩紀における誤配=クィア論というのを考えています。東浩紀の否定神学批判って、つまり男根批判ですよね。単数のファルスではなく複数性こそが重要という話で、これはジュディス・バトラーの言ってることとかなり近いんじゃないか。
 
I:まあ、ラカン批判って意味でね。
 
F:そうだね。東浩紀を毛嫌いする人は非常にもったいないと感じる。書物を読んで、そこに込められた思想まで立ち返ってから判断するべきなんじゃないの、と思うわけです。
 
I:その意図もわかりますね。批評が男性中心的だとして、別にそれを指摘し批判するだけがありうる戦略なわけじゃなくて、じゃあそういう男どもの批評の歴史をクィアに読み替えてやるぜ、ドゥルーズ風に言うと背後から襲って怪物を産み落とさせてやるぜ、みたいな戦略も普通にあるわけで、それこそ90年代とかってむしろそういうノリだったわけでしょって思う。で、あと音楽の話で言うと、最近考えてることがある。ヒップホップの男性中心性の議論はそれなりに僕も考えてきて書いたりもしてきたけど、よくある歴史のナラティブで、ヒップホップのマチズモとハウスのクィア性みたいな対比がなされる。二つのクラブ·ミュージックが別れちゃった、みたいな。それは事実なんだけど、でもそもそも僕はクラブ·ミュージックっていうのはポスト68年の音楽だと考えていて、ヒップホップの前にはブラックパンサー党があり、ハウスの前にはストーンウォールおよびゲイ解放戦線があったという歴史がある。たしかにパンサーは下層の不良の男たちが中心で、ゲイ解放運動とは層が全然違う、でも、こうやって68年という時点にまでさかのぼると面白いことが見えてきて、実はそのパンサーとゲイ解放戦線って一時接点があり、連帯が実現されかけていた。パンサー党のリーダー、ヒューイ·ニュートンは「同性愛者こそ最も革命的たりえるかもしれない」と声明を出して、それにゲイ解放運動の人たちが熱狂したと言われてる。だから、もう一回ヒップホップとハウスが連帯することだってできるはずだと思う。こういう観点からも音楽のジェンダーを考えることもできるんじゃないかって思っている。まあつまり、今は誰が差別反対の声を上げたかみたいなことに議論が縮減されているから、それとは別の方法を探すだけですね僕は。
 
F:ハウスとヒップホップという話で、Boss The MCがハウス好きなことを思い出しましたね。彼はプレシャス·ホール(札幌のクラブ)でハウスを浴びてきた、「Last Night a DJ Saved My Life」の精神な人。伝説的なDJであるラリー·レヴァンへの深いリスペクトを持っていると同時に、ヒップホップ·ヘッズでもある。Tha Blue Herbは僕が高校生の頃に入りこめた数少ないヒップホップ·グループで、当時僕が読んでた『SNOOZER』が取り上げてから文脈を理解しやすかったというのもあるけど、それだけではななかった。ブルーハーブもある意味ではマッチョなんだけど、他とはなにかが違ったんだよね。彼らを語る際に「地方vs東京」という文脈で語られがちだけど、その図式に収まらないところがある。僕はファーストよりもセカンド派なんですよ。セカンド『Sell Our Soul』はファーストに比べると地方性を出さないじゃん。「Shock-Shineの乱」みたいな曲はない。
 
I:ファーストはやっぱりこうファーストなだけあって、怨念とか闘争心がすごいから。
 
F:過剰なほどに反東京を掲げた作品ですよね。対して、『Sell Our Soul』にはハウス性があると思う。たとえば「STILL STANDING IN THE BOG」のような曲。あれは、ヒップホップ的な「ユニティ」みたいなものを、ハウスの感性で描いてるように聞こえる。そのユニティ感覚は、たとえば「チーム友達」とは違う。僕は「チーム友達」も大好きだけど、違う魅力が宿っている。「STILL STANDING IN THE BOG」の後半、仲間たちの名前を次々とコールしていくときの反復がハウスっぽい感じがする。俺たちはプレシャスホールに集まる仲間だけど、だけどずっと泥沼の中に立っている(=STILL STANDING IN THE BOG)という孤独の強調も、当時の日本のヒップホップの中で異質に響いた。ハウスとヒップホップって、方やゲイカルチャー、方やゲイフォビアなカルチャーとして対立して語られるし実際それは否定しがたいけど、The Blue Herbのようなグループを通せば繋がるかもしれない。もっと探って分析すれば、ハウス性を持ったラッパーの系譜も炙り出せるかもしれない。そういう系譜をたどることは意義のあることだし、面白い作業だと思う。書けるのなら自分でも書きたいし。
 
I:そうだ、この流れでロック批評とヒップホップ批評の違いみたいなことも話したいなと思って。つまりどういうことかというと、ヒップホップ批評やるうえで誰もが抱え込まざるを得ない疚しさみたいなのがあって、それっていうのはさっきのセクシズムやミソジニーだし、あるいは暴力性だし、ネオリベ的なエートスだったり、日本語ラップで言ったら右傾化って問題もかつてあったし。そういう文化であるという事実をどう対処するか、というのがあって、それはヒップホップ書く人が全員乗り越えなきゃいけない壁。僕はまあぶっちゃけ、そこでウダウダ悩んで葛藤してます、みたいなスタンスはシンプルにつまんないし頭悪いから嫌で、それを超えてヒップホップを絶対的に肯定するにはどうしたらいいかみたいなことを考えてきた。他方で、別ジャンルながら推察するに、ロック批評の場合に付きまとう疚しさというのは、それこそヒップホップとかの台頭以降だと思うんだけど、やっぱり白人中心主義という問題が出てきたと思う。白人中心主義とか、まあそういうロッキズム的な価値感が相対化されたというか、そういうのも含めて。それは先の『ユリイカ』マヒト特集でもチラっと書いたことだけど。それへの向き合い方は人それぞれだと思うし、伏見さんの場合すでに話したような『スピッツ論』の読解の戦略もあるし、「てけしゅん」を見てても、ピックアップする音楽が多様で目くばせが利いてる。その辺ってどうですか。
 
F:白人中心主義については、幸運でもあり不幸でもあるかもしれないが、俺が白人じゃないのは大きい。書く上ではメリットですよね。たとえば僕の好きな欧米のバンド、なんでもいいけど、キュアーなりヴェルヴェット・アンダーグラウンドについて書くとして、白人が書くとそれは白人中心主義なんじゃないかみたいなうしろめたさが入ってくる。そうしたうしろめたさを、非―白人と見なされるがゆえに抱えないで済んでるというのはあると思う。かつ、僕は基本的にはポストパンク・チルドレンなんですよ。ポストパンクってそもそもが、白人中心主義批判のジャンルですよね。
 
I:反ロックのロックですよね。
 
F:そうそう、アンチ・ロック。WIREがスローガン的に使った、「ロックじゃなければなんでもいい」って言葉に表されてるものに自分も規定されている。だから僕は、広い意味ではロック好きだけれども、カッコつきの「反ロック」みたいなものが根っこにあるんですよね。そうしたポストパンクのルーツに対して素直にベットできてしまうからこそ、逆に言えば悩みや逡巡が少ない。面白味がないことになりかねないかもしれないな、とも思う。白人=ロックみたいな疚しさ、罪悪感みたいなものを抱えずに済んでいること自体を表すしかないかなと。
 
I:僕の場合はヒップホップで、伏見さんの場合はロックで、でも別に他のジャンルの音楽だって聴くわけだけど、そういうときにどういう意識で他ジャンルを聴くのか、みたいな意識とも関係するかなって思っていて。そのマヒト特集で書いたことというのは、ロックは普遍性の音楽だがヒップホップはマイナー性の音楽で、そのマイナー性の音楽のなかの最大のジャンルになったのがヒップホップ。だから逆に、さっきのハウスなり、デトロイト・テクノでもダブでも、そういうマイナー性の音楽ジャンルとヒップホップをどう連帯させる批評を書くか、ということを考えたいなと思っている。ヒップホップの場合はそうなるけど、ロックを軸足に置いたときにはどうなるのかなって気になる。だって「てけしゅん」は一時期、BAD HOP、舐達麻、KOHH、カニエみたいな連続して取り上げて、すげえなと思ってた(笑)
 
F:最近ヒップホップ多かったね。
 
I:しかも面倒くさそうな話題もちゃんと逃げずに。まあそれでヒップホップに限らず広いジャンルを扱っているのがすごいなと思って。
 
F:これも先ほどと同じ答えで、やっぱりポストパンクの感覚ですね。ポストパンクってなんのジャンルでも行くってバイブスもってるから。ポストパンク/ニューウェイブと言っても、レゲエがありファンクがあり、ゴスがありノイズがあり、エレポップがありみたいな、めちゃめちゃ何でもアリなジャンル分けですよね。そこにあてられた人間が、野田努だったり田中宗一郎だったり佐々木敦だったりするわけじゃないですか。僕もそれを受け継いでるから、そりゃあ何でもやるっしょ、となる。
もう一つ言えるのは、90年代のSNOOZERとか、ゼロ年代のpitchforkでもいいけど、ある種のリベラルエリート主義みたいな感覚がありましたよね。簡単に言うと、インディやオルタナを称揚する一方、ビジュアル系とかアイドルをバカにする、「あれは敵だ」と名指すみたいな時代があった。SNOOZERでHIDEが亡くなった時の追悼記事が載ってて、HIDEに取材したかったけどX JAPANの存在が大きな障壁になった、みたいなことをタナソーさんが書いていた。僕は当時、そういう意識を半分内面化しつつ、でもやっぱ違うんじゃないかみたいなことを思ってた。ほんとはLUNA SEA好きなんだけどSNOOZER読んで感銘を受けてる、みたいな自分に葛藤が生まれる。当時であればその敵視は、資本主義批判だったり、芸能批判によって正当化されていた。要するに、芸能界=資本主義は民主主義にとって敵であり、SMAPとかビジュアル系バンドみたいなものは芸能かつ資本主義だから批判されるべきだ、というロジックで批判されていた。そういう空気が音楽批評の中にあった。
やがて、反体制だったりオルタナティブな精神を持っているアートも、最終的には資本主義に回収されちゃうんじゃないかという議論になっていった。ジョセフ・ヒースとアンドリュー・ポターの『反逆の神話(The Rebel Sell)』は、カウンターカルチャーは結局消費社会を焚きつけているにすぎないと論じている。この本が出版されたのが2004年で、最初の日本語訳の出版が2014年。本書の認識は基本的に正しいと思うし、いくつかの音楽メディアの左派的空気に対して「資本主義批判や革命と言いながら金儲けてるやんけ」と僕も高校生のころからぼんやり思っていた。僕らは資本主義社会や消費社会の度し難さを痛感した後に生きているわけで、だからまずリベラルエリート的価値観は解除しなきゃいけないという感覚がある。アイドルだろうがラップだろうが、敵対心みたいなのは解除しないといけない。敵対心を解除するということは、部分的に資本主義を否定しないってことでもある。というか俺は部分的にというより、資本主義自体なかなか否定できないなって感覚が強まっているけど。
だから、自分のもともとのポストパンク·チルドレン性と、時代状況としてオルタナティブが無効化している状況が相まって、てけしゅんの多ジャンル性みたいなものが出てくる。何かを批判するというタイミングが出てくるときがあっても、「このアーティストは敵だ」「このアーティストは間違ってる」という言い方はしない。「構造としてこれおかしいんじゃないか」という観点から、音楽業界の構造とか、ファンダムの構造とかに対してメスを入れていくという形になる。
 
 
I:なるほど。いや、何重にもうなづくところがあり、大変貴重ないい話を聞けてるなと思ってます。なのでいくつも返したいことが頭に浮かぶけど、まず一個、さっきのポストパンクという問題について言いましょう。現代の社会はポスト68年革命ということで規定されていて、音楽もそうだと考えている。ロックという「大きな物語」の後にはヒップホップ、レゲエ、ダブ、ハウス、テクノ、アンビエント云々みたいな、マイナーな諸ジャンルがわーっと湧き出てきた。だけど、ロックの内部でもその状況を反映するような革新があったわけで、パンク/ポストパンクというのこそ、ロックにおけるポスト68年なわけですよね。ここは大事だと思うけど、どこまで世間で共有されているんだろうと前から思っていた。で、そうなると、上の世代とは違って僕らはエリーティズムをある程度解除しなきゃいけない、という肌感覚が出てくるというのにも、深く同意します。うーんたとえば、まあまた文芸批評の例を出すと、柄谷が中上の死とともに近代文学は終わったみたいなことを言ったわけだけど、まあそれってある種、そうしたエリーティズムを文学が保持できないからそこで文芸批評やめたみたいな話ともとれるわけですよね。そうしたエリーティズムを摂取しながらも、それを現代においては貫徹できないからどうするか、ということを僕らは考えなきゃいけなくなるわけで。もちろん、大塚英志は「サブカルチャー文学」みたいなことを言って、もちろん東浩紀のオタク批評があって、カルチュラル·スタディーズがあって、という流れはあり、僕らがいま文学じゃなくて音楽を批評しているというのは、そういう大きな流れの中に位置づけられることですよね。だから、文学という文化の中心が失墜して長いわけで、そうなるともうあらゆる批評はサブカルチャー批評たらざるをえないわけで、それをどう引き受けるかということは、すごく僕も考える。それで、エリーティズムを肩から降ろしてYouTubeに出ていくというのは、理にかなっている。だからつまり、現状認識が結構一致してるなと思いました。
 
F:ありがとうございます。いったんトイレ休憩しましょう。
 
I:僕も行ってこよう。

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