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もうええじゃないか

長引く流行禍も、そろそろ皆、徒労感を感じてきたところ。世界は軒並み「開国」し、再びの活気を取り戻そうとしている。

奪われたのは2年間だけではない

気がつけば、2020年初から、世界を駆け巡ったアイツは、1年どころか、2年目もあちらこちらで姿や形を変えながら、私達の身近なところで、騒ぎ続けてきた。
もう3年目に入るというのに、一向に私たちは「アクセル」と「ブレーキ」のどちらを踏んでいいかわからないまま、ゆっくりと惰性で前に進んでいるような感覚に陥っている。

それでも、多くの犠牲と我慢を強いた2年間だった。行きたいところにはいけず、会いたい人には会えない。しまいには、国民全体でババ抜きをしているような不信感が渦巻き、対立や分断さえもたらそうとしている。
そんな最中、主権の基礎である「境界」を半ば強制的に変更するような事態まで起き、未だ、多くの罪なき人々を苦しめ、冬の寒さの中、生活の自由を奪われた生活が続いている。

「安泰」や「安定」という言葉に、世界中の多くの人が疑いをもっただろう。「まさか」が現実に起こった時、これまで積み上げてきたものが、あっという間に崩れていく…。そうこの2年間だって、突然の存在にあらゆるものを奪われたのだ。それは、2年間だけではない。それ以前から積み重ねたたくさんの「時間」が一瞬にして奪われたようなものだ。

「無関心」という誠意

どんな衝撃的なことが起こっても、私達には平等に、そして、二度と無い「時間」を対峙している。そう、この文章を読み始めた数分前は、世の中の歴史の中で1度しか来ないように…。
不安なこと、つらいこと、嫌なこと、失敗すること、思い通りいかないこと…数々の出来事に、人は滅入る。やる気が無くなる、落ち込む、がっかりする…。それでも、その瞬間はもう過去のものになっていく。

限り在る時間を有効に使わねばならないのに、それでも、なぜ人は、モノゴトや感情に固執するんだろう。

「今」という時間は二度と無い。だからこそ、私達には「進むこと」しかできない。なのに、もらい事故のようなツイートにいつまでも「正しさ」をぶつけたり、実力不足の破天荒な未熟者を袋叩きにしたり、年始から本当に時間を浪費し続けるのはなぜだろう。

関わらなければよいのに、なぜ、そんなにも「こうあるべき」をぶつけるのだろう。理想的な姿、正しい道に矯正したい感情の奥底には、いったい何が在るんだろう。「否定」や「反対」の裏には「好き」がある。理想と現実のギャップこそが「怒り」の源泉と以前書いた。年始からの凄まじいエネルギーは、それだけ『他人に期待する人が多い』ということなのだろう。

「関わらない」

人生に「ブレーキ」をかけても、時間だけは無情に過ぎていく。
一度立ち止まって立て直そうとしても、たくさんの時間を費やしてしまう。

ならば、停滞や停止は、何も産まないどころか、後悔を増やすだけ。対立や批判で誰かと論争したり、正したりする時間さえも、何も得るものはない。

私たちは、ただの1秒たりとも無駄にせず、ただまっすぐに進むこと、進み続けるという不可逆的な選択肢「のみ」を持っている。それが「生きている」ということであり、足を止めることは、「死ぬこと」を意味する。

変化の激しい時代と言われる。私達が歩んでいる道は、もしかしたら高速道路かもしれない。そんなときに急ブレーキでもかけたら、大変だ。ましてや、あおり運転やノロノロ運転、逆走など、不確実な出来事を起こす相手に、追従してたら、事故に遭遇することだろう。

「関わらない」というのも、誠意ある態度だろうと思う。怪我をするのは、相手の自損事故だけでいい。危ないと周りがわかっているならば、避けることこそ、事故を回避する最も有効な方法なのだから…。

もう、ええじゃないか。




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