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「自分のため」「誰かのため」

多くの「労働」をメインとした仕事、特に不労所得ではない、時間を提供することで、給与を主として受け取っている人に、今の時代は時間的にも所得的にも余裕は少ないだろう。かつての、高度成長期やバブル時代のような余暇や休日、ボーナスなどは、もはや伝説のようになり、年功序列ももはや崩壊。とにかく「今」という時代を「自分」がいきるために精一杯というのが本音ではないだろうか。

1、「自分のため」に生きる

まず、人は「一人」では生きていけない。だから、多くの人の協力や支援によって、相互に支えられ、そしてそのことによって生み出される「余力」や「余白」によって、時間を生み出す。

自給自足をすべての人がしていたら、効率が悪いのだ。

だから、道具をつくる人、狩りをする人、調理をする人など、「分業」によって、役割を効率的に回すことを人間は考え出し、それが、結果的に「生産性」ということで、多くの人が「相互の協力の下」に暮らせるようになった。これが「社会」そのものと言えるだろう。

だから、私達の「生きる」という目的は、初めから「他者の存在」がなければ存立せず、そして存在し続けることもできないのである。

ところが、お金という価値の代替手段が生まれることによって、これらの役割が「交換」できたり「付加価値」という方で「差」が生まれ始めた。これが資本社会の始まりである。

その時には、「関わりや関係のない」人からも、モノやサービスが受けられるようになり、それは多くの交換可能な対象を広げ、社会全体をくまなく豊かにしていった。

一方で、「お金さえ払えば」ということで、強いることや強制、あるいはもつものと持たざるものといった「従属関係」をも生まれ、人間の中に「階級」や「仲間」というクラスターが生まれたのである。これが、お金が「無機質」であり、「冷たく」感じる印象を生み出している原因に違いない。

2、「他人のため」に生きる

では、そんな形で、「自分」が生きていくために、「他人」がお金の存在によって切り離され、そして、社会に貨幣が流通すると、いったいどういうことが起きるか。

それは、モノやサービスが生み出される苦労や大変さ、あるいは困難さや痛みなどを一切削ぎ落とし、「求められる価格」さえ満たせば、基本的には交換が容易くなる社会の到来である。

このことが、お客様は神様のような「購買関係」における片務的な存在感を生み出し、人が人を支配するような関係性を生み出したのだろう。これが行き着くと「奴隷制度」になるわけである。

でも、人間には、いつの時代にも「痛み」を感じる存在である。特に、心は、「相手を思うこと」によって、相互に理解し、そして、分かち合うことができる。この「相手を思う」ことを忘れた人間も、たまに散見されるが、それは、プライドや立場、あるいは何か過去のトラウマなどを通し、他者との関わりについて遮断せざるをえない状況があったからと思いたい。さもなければ、単に冷酷な「人間の姿をした悪魔」にすぎない。

だから、人は、ときに「お金の価値」を超えて、他者のために生きることができる。持ちうるものを捧げることができる。それは、大切な何かを守ることや、そのことがかけがえのないものを失わないために、すべてを提供することができる。それは、合理的ではないかもしれないし、後に失敗となるかもしれない。それでも、人は「人のために動く」という心がある限り、この地球上において「人間」で有り続けることができる、存在理由でもあるだろうと思う。

美談などではなく、ただ、ひたすらに、守りたいものがある。
どんなに痛みや苦しみが伴おうとも、失うことが許せない存在がある。

それが、「他人のため」に生きる人間であり、社会の中で、互いに協力し合うことのできる「人間」としての最低限の資格なのかもしれない。

3、「自他のため」に生きる

でも、他人ばかりに捧げていても、自分自身を保てていたり、あるいは余力がなければ、その捧げた他人への時間や労力は、トレードオフで消えてしまう。

だからこそ、私達人間は、常に「余力」を持っておくべきであり、「余白」を大切にしなければならない。もっというならば「遊び」があるからこそ、本気を保つことができ、そして、どんなときも「楽観的に」捉えることができる。

ありとあらゆるものを削ぎ落とし、無駄をとることだけが「生産性の向上」ではない。生産性とは、「何かを生み出す源泉」と、それを「効率的に続けられる仕組み」によって成り立つ。

必要最小限にすることだけが、「生産性」ではないのである。在庫を持たなければ、それは在庫リスクは低いだろう。でも、昨今の世界事情のように、緊急的に輸入や物流が止まれば、一気にすべての事業を停止することに追い込まれる。

こんな不安定な時期に、「余力」をもっていたところのみが、事業を継続できる。削ぎ落としだけが効果的でないことは、この1~2年の社会の様相によって明らかになったことだろう。

自分も大事。そして他人も大事。もっというならば、自分の他人の両方が大事。そのために、私たちは「自分に」なにができるだろうか。「他人に」なにができるだろうか。そして、「自他」という社会のなかで、できることはなんだろうか。

仕事でも生活でも、あるいは日常生活でもいい。「自分だけ」ではない、この社会の中に置かれた「自分」という視点で、もう一度社会を見直してみたほうがいいと思う。

みんな利己的すぎる。自分だけでいい。自分が大切。でも、それは巡り巡っての話だってことに、そろそろ自覚したほうがいい。


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