見出し画像

短編小説1(後編) 流血のディエップ ~怠惰終焉~

【これより前の文は中編をご覧下さい】
※グロテスク表現あります。苦手な方はご注意下さい。

 やがて制圧したカジノに、ぞろぞろと他の部隊が集結して来た。
 だが、連中の様子を見るに、ようやく空いた穴に潜り混んで来たという方が実際の所だ。
 まさに前方への脱出…一時避難と言った方が正解だ。
 皆がmkⅡヘルメットの下にくたびれた顔を覗かせている。オレも今、似たようなツラをさらしているのだろう。
 男どもの軍服にこびりついた潮と汗の匂いがホール内に漂う。
 まったくもって酷い匂いだ。もっとも、自分も例外とは言えないわけだが。
「このカジノを基点にして突破口を探る」
 大尉はつづけた。
「別動隊を組織し、市内に進出する。上陸作戦はスピードが命だ」
 おっしゃる事はよく分かる。
 屋内とはいえ、こんな数の戦力が一ヶ所に固まっていたら野戦砲に食われ放題だからな。
 それに、早く作戦目標を達成してこの海岸から撤退しないと、内陸から戦車部隊でも送り込まれたら、オレたちはすり潰されちまう。
 まだ実際に見た事はないが、ドイツの戦車部隊はどれも精強という話だ。
 既に半壊状態のカルガリー連隊だけでしのぎ切れると思うヤツは考えが甘いだろう。
 さて、オレの隊は突破チームとカジノの防衛、どっちに回されるか。
 ボルトアクションのリー・エンフィールドで家屋の掃討は不利だという事は、このカジノでの戦闘で散々思い知った。
 銃剣での刺突なんざ、最後の手段だ。
 本来は曲がり門から短機関銃や手榴弾を食らわすのが一番なんだよ。
 ああ、出来ればここに陣取って突破チームの援護に回りたい。
 そう願ってはみたものの、機械のように組織割が進み、晴れてめでたく突破チームの一群に加えられた。
 まぁ、ここまで来た以上、今さらどうしようもないか、分隊長という立場を利用して部下を盾に使えばいい…と、そこまで思いかけたその時。
 何発もの炸裂音がコンクリートがむき出しになった壁越しに伝わって来た。
 くそっ、もう始まりやがった。
 オレ達は耳をふさぎ、口を開けながらその場に伏せた。
 マヌケな格好だが、これで鼓膜がイカれずに済む。
 炸裂音が絶え間なく続くなか、次第に違和感覚える。
 野戦砲にしては威力が小さいのだ。
 壁も天井も大して崩れて来ない。
 さては迫撃砲だな?保護国とはいえ、地元住民に要らない反感を植え付けるのを嫌ったか、味方の巻き添えにビビった末の苦肉の策か。
 ここまで想像を巡らして、自分が思いの他冷静である事に気づいた。
 海岸にへばりついていた時と比べて明らかに違う。
 まるで別の誰かと中身がごっそりと入れ替わったみてぇだ。
 これも慣れってヤツか。恐ろしいもんだな。
弾着音が鳴り響く中、敵と味方の銃声が窓を通じて聞こえて来る。
 だが、いくらクラウツ共でも味方の迫撃砲が降ってくるなか、このカジノに突っ込んで来る様子はなさそうだ。
 この迫撃砲も永遠に続く訳ではない。
 敵が弾を射ち終えたら、この装備で狭い家屋をひとつずつ潰していくという極めて厄介な仕事に従事しなければならない。
  向こうは屋内戦に有利なMP40短機関銃を装備してるというのに。
 だいたい戦車の支援が望めないのは致命的だ。
 かの英国首相の名を冠した切り札のほとんどが海岸で立ち往生している。
 かろうじて突破した数少ない車輛も、街の入り口に設置された対戦車障害物に阻まれている始末。
 正直言って戦車を伴わずにこれ以上進出するのは気が乗らない。
 上陸作戦のセオリーなら、制空権を奪って爆撃と砲撃で街を耕してから、戦車が建物を破壊しつつ歩兵が掃討。という流れがベストだろう。
 だが、上の連中はその砲爆撃でさえも、地元民に遠慮して満足に実施しなかった。おまけに瓦礫は敵兵の隠れ家になるとのご高説だ。
 そんなもの戦車の榴弾でまるごと吹きとばせばなんとかなるだろうに。
 おかげさまで、ちょっと街で暴れてすぐに引き揚げるような作戦は、こうして初手からどん詰まっているのだ。
 ひとしきり心の中でさんざんに愚痴り散らすと、いつの間にか砲撃が止んでいる事に気づく。
 オレはあわてて大尉の居た方向に目を向ける。
 大尉は煙の立ち込めるホールで、先ほどまでの狂奏などまるで無かったかのように平然と立ち上がり命じた。
「では諸君!反撃開始!」
 男達は弾かれたように動き出す。
 もう賽は投げられた。
 ここから先は覚悟を決めて、良い目が出るのを祈るしかない。
 どうせ撃ち合いになるのだから、敵の援軍が来る前に片付けて、とっとと撤収だ。
 上手く生き残りゃあ、パブでエールをしこたま呑む事だって出来るだろうさ。
 こうなりゃヤケだよ。
 道にスモークが展張されると、ロイヤル・ハミルトン軽歩兵連隊の兵士達が道路を蹴り進み、向かい側の家屋郡に次々と突入を始める。
 新編成されたオレ達の小隊はこのブロックの左端の3階建ての煉瓦づくりのビルの制圧を担当する事になった。
 そこを目指して一気に駆ける。
 まずは建物に飛び込むしかない。
 路上をうろちょろしてると上から撃たれる。     
 カジノの連中、しっかり援護してくれよ。
 小隊が縦一列になって進む。
 ポイントマンの兵士を先頭に、小隊長、A分隊、オレのB分隊、最後にC分隊だ。
 建物に沿って突き進み、奥の丁字路にたどり着いたその時、A分隊のポイントマンの脳髄が弾けとぶ。
「なんだ!?」
 見ると、丁字路を挟んだ正面の建物の屋上にスナイパーが潜んでいるのが見えた。
 向こうの装備はおそらくリー・エンフィールドと同じボルトアクションのKar98k。
 だが、向こうは狙撃用のスコープを取り付けていやがる。
 まったく言わんこっちゃない。
 チャーチルの6ポンド砲さえあれば、スナイパーを屋根ごと吹き飛ばせるのに。
 小隊長はスナイパーを警戒しつつ右手の突入目標のビルに向かって手榴弾の投擲を部下に命じた。
 炸裂音が響くと、まずA分隊が突入を開始する。
 その間C分隊が丁字路の警戒とスナイパーへの牽制を行うなか、オレ達はA分隊に続いてビルに突入した。
 1階部分には特に何もなく、入り口の扉のすぐ先に螺旋階段が走っている構造だ。
 オレ達は上から手榴弾を落とされないように警戒しながらそれを駆け上がった。
 A分隊の面々が2階を制圧する中、オレ達はそのまま3階を目指す。
 上りきった先にはL字型の廊下に扉が並んでおり、丁字路側まで扉が続いていた。
 カジノが見える道路側は吹き抜けの窓になっている。
 本来こういう場所を通り抜けるのは厄介だ。
 普通の窓ならしゃがんで行けば良いが、こういう所は身の隠しようがなく、素早く通り抜けないと外の敵から狙われてしまう。
 しかも扉を明けながら行かないといけないので、窓から身を曝す時間が長く、その危険度は増す。
 幸いカジノ側の通りは味方が確保しているのでその心配はないのだが…。
 次々と扉を明け放ち、あるいは蹴破り、ついに残すは最後の道路側の奥の部屋のみとなった。
 ここまで来たが意外にもドイツ兵の姿は見当たらない。
 すべての建物にクラウツどもが隠れている訳ではないらしい。
 さっきのスナイパーや向かい側の建物にいる敵さん達も、さっきの迫撃砲も、おそらくはカジノの失陥を知って出張って来た連中だ。
 丁字路や十字路は砲爆撃の目標になりやすいから、張り付くのは避けたかったのかもしれない。
 まあ、結果的にオレ達の飼い主は満足にそれらを行わなかったので、敵さんの取り越し苦労となった訳だが。
 なんにせよ、この建物を確保すれば、しばらくは丁字路の警戒に使える。
 願ったりかなったりだ。
 部下が扉に手をかけ開け放とうとする。
 しかし、開かない。
 ここまでは想定内だが、中から女の叫び声が聞こえると一同に緊張が走った。
 オレと部下が銃床で扉を何度も打ち付けて破り部屋に入ると赤ん坊を抱いた母親らしき人物が押し殺したような悲鳴をあげる。
 顔は青ざめ引きつり、赤ん坊を抱える手も震えている。
 まだこんな所に逃げ遅れた民間人がいたのか。
 だが、こういう場合でも油断は出来ない。
 この女がドイツ野郎の将校と通じていない保障がないからだ。
 幸い向こうの両手は赤ん坊でふさがっている為、仮に銃を出そうとしてもこちらが先に撃てる。
 それよりも問題なのは…。
「ギャーギャーうるせえ!位置がバレんだろが」
 言い終えたその時、窓ガラスが割れる音と共にヘルメットごしにハンマーで殴られたような衝撃が走り、オレは床に倒れ込んだ。
 なんだ?撃たれたのか?だが、痛みは感じない。
 いや、そもそも脳天を撃ち抜かれたのなら痛みを感じる以前の問題だ。
 手は?足は?…動く。少なくともとりあえずは五体満足のようだ。
 天井に敵が撃ったであろう銃弾が突き刺さっているのが目に止まる。
 どうやら向かいのビルから放たれた銃弾がヘルメットに良い角度で当たって弾かれたみたいだ。助かったぜ。
 上半身を起こそうとした時、首に鈍痛が走る。
 撃たれた衝撃で首の筋でも違えたか。
「このクソアマ!だから騒ぐなっつたんだ」
外でドイツ語の喧騒が激しくなる。
 英語の怒声も聞こえているのが幸いだが、それらをかき消すような大声で赤ん坊も泣き出した。
 面倒な事が起こった。
 さらに銃弾が飛び込んで来る。
 向かい側はちょうどスナイパーが屋上に張り付いていた建物だが弾数が多い。スナイパー以外にもそれなりの数が潜んでいるようだ。
 クソっ!外のC分隊は何やってんだ!
「伏せてろクソアマ!」
 向かいの建物の屋上を警戒しつつ窓際ににじりよる。
「死んじまえよ」
 向かい側の窓に見えたナチ野郎の首を撃ち抜くとガラス一面がケチャップのように赤く染まる。
 しばらくすると、外のC分隊の奮戦や他の小隊の進出も相まってか、ようやく向かい側の建物の連中もおとなしくなった。
 順番が前後したが、次にやるべき事は室内の安全確保だ。
 女が武器を隠し持ってないか調べる必要がある。
「おいクソアマ!そのまま後ろを向け!」
 女は訳も分からないと言った様子でうつむきながら、フランス語でうわ言をしゃべっている。ガキの鳴き声もまるでサイレンのようにうるさく耳障りだ。
 ちっ!めんどくせぇ!
「伍長。こっちの言葉でまくし立てても駄目だ。それになんだその態度は?ご婦人が怯えているだろう」
 オレが部下に女を調べるように命じようとした矢先、小隊長が部屋に入って来る。
「異国の兵士に踏み入れられては怯え切るのも無理は無い」
 彼は言いながら、手帳を見つつ片言のフランス語で女に語りかけはじめた。
 おいおい、こいつはバカなのか?
 女が赤ん坊を小脇に抱えながらピストルを向けて来る可能性だってない訳じゃないんだぞ?
 だが、オレの心配をよそに女は小隊長の質問に答え続けた。そして、ガキの性別という、極めてどうでもいい情報を口にしたのを境に、次第に落ち着きを取り戻して来た。
 女はこの街のドイツ軍将校クラブで働いており、カナダ軍の上陸が始まった5時台にあわててここに戻って来た。
 夫は既に1940年の戦いで戦死しており、ベビーシッターにガキを預けて仕事に出ていたが、ソイツはオレ達の攻撃が始まると自分ひとりで逃げちまったらしい。そのうちあれよあれよと戦闘が始まり、腰を抜かしている間にオレ達に踏み込まれたという次第だった。
「つまり、彼女は生活と子どもを守る為に身を粉にして働いているという事か、夫のかたきを相手にしながら…」
 小隊長が悲哀に暮れたような表情になる。
「そいつはご苦労なこった」
 小声で呟いたその時、轟音と共に天井が崩れ落ちた。
「なんだ!?ああ!くそっ!」
 崩れた壁から外を眺めると、墜落した機体が見えた。あれはホーカーハリケーンだ。遠くの建物に無様に突き刺さってやがる。
 大方、敵のフォッケウルフにやられて墜落する途中で、主翼がこのビルをかすったのだろう。
 もう少し低い高度で撃墜されていたら、ここに居るオレ達は皆そろって仲良く首と胴体がキレイさっぱり泣き別れするところだった。
 まったく、撃墜された挙げ句にオレ達を危険に晒すなんざ、パイロットはクソの役にも立たねぇ野郎だ。
 しかし、これは非常に不味い状況だ。
 クソッタレのホーカーハリケーンがビルの最上階をバターよろしく削り散らしてくれたおかげで、オレたちは外からまる見え。
 眺めは最高だが数分も立たずに敵から的にされかねないという最悪の立地条件だ。
 ふと床をみると天井に押し潰された女がうつ伏せに倒れていた。
 抱かれた赤ん坊もぐったりしている。
「衛生兵!衛生兵!」
 小隊長の声に応じた衛生兵が飛んで来た。
「民間人の容態を確認しろ」
 おいおい、そんな連中なんざ放っておいてここから避避した方が良いんじゃないか?これだから新米少尉さんは…。
 だが、命令を受けた衛生兵は律儀に手首、次いで首に触れる。
 ったく…どいつもコイツも。
「ダメです。おそらくはもう」
 衛生兵はいかにも残念そうに報告すると、続いて赤ん坊に触れた。
「子どもはまだ息があります」
 すぐ脇の小隊長はオレに命じた。
「ウィーロウ伍長。子どもを連れ、B分隊とともにカジノへ後退しろ。我々が援護する」
 目を丸くしながら見やるオレを無視するかのように彼は続けた。
「どのみち、これ以上は進めない。武器は預かる。民間人の子どもを避難させろ」
 冗談じゃねぇ。
 戦場のど真ん中で武器を持たない事がどれだけ危険な事か、この小隊長にだって分からないはずがないだろう。
 後退はありがたい話だが、こんなガキを連れていく道理なんてない。
 外の喧騒が再び激しくなる。前の2ブロック目の通りあたりから英語が聞こえて来るが、ドイツ語に比べて声量が小さい。
 味方が通りを抑えてる今のうちに後退するしかなさそうだ。
 オレは仕方なく母親の手から赤子を取り上げると、すぐ近くの部下にポイントマンに着くように命じ、B分隊と共に廊下に出て螺旋階段を下った。
 ビルの入り口から外に出るとC分隊の何人かは地面に倒れていた。路上には所々ねっとりとした液状の物体が転がっている。
 オレはそれに構わず丁字路の正面のビルの様子を確認する。
すると3階の窓にドイツ兵が銃を構える姿が見えた。
 クソっ、こっち見んじゃねぇよ!
 オレを見たドイツ兵が銃を向けて来る。しかし、この腕に抱えてるのが赤ん坊だと気づくと一瞬たじろぐそぶりを見せた。
 そして、それがヤツの寿命を決めた。
 C分隊の生き残りが放ったステン短機関銃の銃弾が、胸骨を割り砕き、肺を引き裂いたのだ。
 バカが、ガキなんざにかまうからだ。自分の思い切りの無さを呪うんだな。
 抱いている赤子を見ると無意識に頬についてる土埃を拭った。
何やってんだオレは?
「今だ、道路を突っ切れ!」
 困惑をごまかす為に部下を叱咤し、オレは走った。
 通りを渡ってカジノに戻ると、今度は大尉から撤退の話を聞かされた。
 後退じゃない。正真正銘の撤退だ。
 オレ達はカジノを制圧したはいいが、2ブロック目より先はまるで進めなかった。
もっと遠くの飛行場なり弾薬庫なりを攻撃するという当初の目的からすれば大失態だが、今はそんな事どうでもいい。
「撤退って。船はあるんですか?」
部下が問う。
「知るか。とにかくあのクソッタレの砂利浜まで急ぐんだよ」
オレが言いながら駆け出すと、B分隊が続く。
 撤退の命令が出たならこんな所にもう用はない。
 しかし、まったく何の冗談だ?
 ドイツ兵の顔面を潰し、仲間の死体にすら哀れみを感じなかったオレが、どこの馬の骨とも分からないフランスのガキを抱えて走ってる。
 我ながらに矛盾しているよ。
 カジノを出ると、攻略前に奮戦していたチャーチルMkⅡが事切れたかのようにたたずんでいた。
 それを横目に制圧した草地を走る。
 あたり一面に銃弾の音が鳴り響いている。
 敵だけでなく味方の流れ弾まで飛んで来そうで肝が冷えた。
走る間、随分と海岸が遠くに感じた。
 やがて、崩れかけた胸壁を滑るようにして降り海岸に出ると、生き残ったチャーチル戦車達が砲火を放ち続けていた。
 歩兵の撤退を最後まで援護する覚悟らしい。
 また、一帯には既に上陸していたカナダ軍フュージリア・モン=ロイヤル連隊が、オレ達の撤退まで時間を稼ぐ為に奮戦していた。ドイツ兵による銃弾にさらされながら。
 つい数刻前のオレ達のように戦車を盾にしながら応戦している部隊も居る。
 やがて風切り音が聞こえて来たかと思うと、 轟音と共に建物が所々砕けはじめた。
 旗艦カルプをはじめとした4隻の駆逐艦からの撹乱射撃だ。
 マウントバッテン。あの紅茶野郎!
 最初から街ごとクラウツどもを潰しておけば良かったんだ。地元民なんぞに遠慮しやがって!
 どのみち最後っ屁で砲撃を食らわすくらいなら最初からやっとけってんだ。
 胸の中でひたすらにイギリスのお偉方への文句を吐き絞りながら玉砂利を進む。
 危うく味方の死体を踏みそうになりとっさに飛び越えた。
 ガキを抱く手に自然と力が入る。
 海岸線には既に煙幕が張られ、上陸用舟艇の影がその奥に揺れているのが見えた。
 よし!あと少しだ!
 希望を抱いたその時、体幹の右側が一瞬にして重くなる。
 オレは子どもを離さないように、両腕で抱え込みながら、玉砂利に前のめりに倒れた。
 なぜそうしたのか分からない。こんな見ず知らずのガキなんざ放り投げてさっさと舟艇に乗り込めば良いはずなのに…。
 くそっ、右脚が痛い。いや、痛いってもんじゃない。
 あわてて足に視線をやる。
「うそ…だろ?」
 完全に骨が折れている。
 くそっ、あとちょっとなのに、なんでこんな!
 意識が戻ったのか、急に赤ん坊が鳴き始め、弓なりに仰け反りながらオレから逃れようとする。
 ああ、くそっ、くそっ、くそっ!暴れるなバカ野郎!
 そうだよ、こんなガキんちょ、浜に放っぽり出して両手を使って上陸用舟艇まで這っていきゃあ良いんだ。
 そう思い両手の力を緩めるが、やはり思うように動かない。体が言うことをきかない。
 両手は使える。なのに、この腕が赤ん坊を離してくれない。
「おいコラ、泣くな、泣くなボウズ」
 いつの間にか小声で呟きながら赤ん坊を強く抱き寄せていた。
 子どもを両手で庇いながら痛みに耐えつつ左足で砂利浜を蹴るが、思うように進めない。
 ちくしょう!あと少し、あとちょっとなんだよ!
 こんな所で、こんな所で終わってたまるかぁ!
 体を半分潰された蛇みたいに砂利の上を這ううちに、海水が自分の髪を濡らしていき、やがて耳まで浸かりはじめる。
 まずい、コイツが海水を飲んじまう。
「ぐあぁぁっ、クソがあぁぁぁっ!」
 オレは仰向けになった。
 案の定、右の下腿が捻れる
 だが、もうそんな事にかまっていられない。
 上空では、ホーカーハリケーンとフォッケウルフが入り乱れてドッグファイトを演じている。双方の機関銃の音が地表にまで響き渡っていた。
 さらに、首を上に曲げると上陸用舟艇の中で兵士達が塊りながら迷うような目でオレ達を見ていた。
 どうした?早くしてくれ。オレをこのガキごと引き摺り上げてくれるだけでいいんだ。やる事は単純だろうが。あと2~3人は乗れるじゃないか。
 それでも中で身を寄せ合う連中は動こうとしない。
 そうか、コイツらもオレと同じなんだ。
 舟艇から出たくないんだ。
 当然だよな。
 せっかくここまで来たのに、助かる希望が見えたのに、こんな所で敵の弾に当たりたくないんだ。
 でも、だったら…。
「せめて、このガキだけでも頼む…頼むよ。このガキだけでも!」
 もう声は掠れ、半ベソ状態だ。
 ああ、情けねぇ。本当に情けねぇ。
「立て伍長。肩を貸してやる」
上から声が聞こえる。
 涙でぼやけてよく見えないが、声の感じからして、カジノで指揮をとっていた大尉だという事が分かった。
 大尉は、自身が銃弾を受ける危険を顧みず、まず子どもを手に抱くとオレの左脇に自らの首を通し、一気に引き上げた。
続いて抱えた赤子をオレに返す。
「キミは自らに課した任務を完遂せねばならない。手助けはする。だが、歩くのは君の意志だ」
なんだ?人生論か何かか?
こんな時に、なに場違いな事言ってんだコイツは?
 そう思いながらも右手で赤ん坊を受けると、なぜか不思議と痛みも和らいで来た。
 大尉に肩を借りながらランプを一歩ずつ上がる。
 そして中に入り、腰をおろすと、ようやくランプが上がり、舟艇は離岸を始めた。
 中は酷い有り様だった。
 皆が虚ろな目をして疲れ果てていた。
 オレに手を貸さなかった手前、ばつの悪そうな顔をして俯いているヤツも居る。
 恨みゃしねぇ、気持ちは分かる。オレがお前らの立場ならそうしてたさ。
「ウィーロウ伍長」
大尉がオレに語りかけて来た。
「はい、大尉殿」
「その子をこの先どうする?」
「イギリスの、どこか適当な孤児院に預けようと思います」
「そうか」
 大尉は少し黙ると再び話かけて来た。
「伍長」
「はい」
「よく頑張った」
 その瞬間、両目から異国の見知らぬ子どもの頬の上に涙がこぼれ落ちた。
 なぜだ?どうして?
 自分の命を守るため、敵兵を殺した。
 必要とはいえ、残虐の謗りを免れない方法で。
 こんなオレがなぜ涙を流す道理があるんだ?
 仲間すらも自分を守る盾、敵の目を反らす為の道具としか見ていなかった。
…だが、この男は、大尉はガキだけでなく、オレの命まで救ってくれた。
 不意にそんな事を思うとさらに落涙が止まらなくなる。
「どうした?傷が痛むのか?伍長」
 もうやめてくれ。これ以上オレに話しかけないでくれ。
「いえ…大丈夫です」
 もう、それしか言えなかった。
 いつの間にか、あれだけ泣きわめいていた子どもも、すやすやと眠りに落ちていた。
英仏海峡の波に揺られながら。

【エピローグ】
2021年8月19日。まだ新型コロナの脅威が冷めやらぬディエップのカナダ公園に一人の老紳士とその孫娘が佇んでいた。
海岸からの静かで心地よい風が、孫娘の髪を揺らしている。
「おじいちゃん。毎年この日になるとここに来るよね」
「ああ、今日この日はカナダ軍がこの街の為に戦ってくれた日だからね」
「ふーん。でも、連合軍が上陸して来なければ、おじいちゃんは戦闘に巻き込まれる事も無かったんじゃない?」
「そうなったらフランスは永遠にナチスに占領されたままだったかも知れないよ?」
「う…それはイヤ」
論破された孫娘は居心地が悪くなったのか、話題を変える。
「そういえば、昔、おじいちゃんを助けてくれたのも、カナダの兵隊さんだったんでしょ?どんな人だったの?」
「生まれたての赤ん坊だったからね。さすがに覚えてはいないなぁ」
「そっか…でも、カナダの人は良い人達なのね?」
「うーん」
「違うの?」
老人は困り果てる。
「カナダ人も、私達フランス人と同じで、色んな人がいる。いい人も、そうじゃない人も」
「例えば、おまえが持ってるその…えっと」
彼は孫娘が持っている最新機種のスマートフォンを指し示す。
「ああ、これ?」
「今はそれで世界中の人と繋がれるんだろう?そこにはどんな人がいるかね?」
「うーん、いい人もいるけど、変な人もいっぱい居る」
「そう」
「わたしはカナダ人がどういう人達か知らない。会った事がないからね」
 花壇に飾られているカナダ国旗を見つめながら老人は続ける。
「知らない以上、これ以上は語れんが、少なくとも、あのとき自分を助けてくれたカナダ兵には感謝してるよ」
 そのカナダ兵は生きていれば90歳を優に越えているだろう。
 この老親士が生まれた1942年に行われたディエップの戦いから、79年も経っているのだ。
「それに、彼らの行動が、その勇気が、この街を救った事は確かなんだ。それには敬意を評するべきなのさ」

【結びに】
この作品を、ジュビリー作戦で戦死した全ての将兵に捧げます。

※この小説は歴史を元に描かれていますが、フレデリック・ウィーロウ伍長はじめ登場人物はすべて架空の人物です。
※本作品は資料的価値を目指したものではありません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?