ヨーロッパ文化教養講座(「フランス王朝史」ヴァロア朝 佐藤賢一著)

2022/11/25
1.幸運王 フィリップ6世(1328-1350)で始まった、ヴァロア朝だが、イギリス王家から横やりが入る。

イギリスは、1066年に、フランスのノルマンディー公ギョーム2世が占領して、ウィリアム1世としてノルマン朝(1066-1154)が開始、その後傍系のアンジュー公ヘンリー2世が、プランタジネット朝(1154-1399)を建てる。

1.フィリップ6世は、フランス・カペー朝最後のシャルル4世の従兄弟(父の弟の息子)だが、イギリス・プランタジネット朝 エドワード2世(1307-1327)が、シャルル4世の妹、イザベルと結婚したため、その子エドワード3世(1327-1377)は、シャルル4世の甥(妹の息子)にあたり、シャルル4世の後継者は、エドワード3世であり、1.フィリップ6世ではないというクレームが入った。

 そして、このことがきっかけになり、1337年に英仏100年戦争が始まる。戦争はずっと継続して行われたわけではなく、衝突しては講和ということを繰り返していった。
 また、1347-1348にはペストが流行し、人口の3分の1が死亡した。

2.良王 ジャン2世 (1350-1364) フィリップ6世の息子
フィリップ6世は、イギリス国王エドワード3世とちがって、カペー朝の男系の後継者なので、自分の王位の継承権があるとした。
ということは、必然的に、ヴァロア朝は、女系の王は建てられないことになった。

3.賢王 シャルル5世(1364-1380)ジャン2世の息子

4.狂王 シャルル6世(1380-1422)シャルル5世の息子
統合失調症のような症状であったため、自らは政治が行えなかった。
弟のオルレアン公ルイの台頭を許すことになって国が乱れた。

5.勝利王 シャルル7世(1422-1481) シャルル6世の息子
1429年に、聖女ジャンヌ・ダルクが登場し遂に、100年戦争が終結する。そのため、勝利王と呼ばれた。
「傭兵ピエール」は、この時代を背景としている。

6.ルイ11世(1481-1483) シャルル7世の息子
7.シャルル8世(1483-1498)ルイ11世の息子

以上の7代は、直系男子がいたが、ここで、絶える。
そして、
8.ルイ12世(1498-1515) は、曾祖父 4.狂王 シャルル4世の弟のオルレアン公ルイと3.賢王 シャルル5世の孫(娘の娘) ヴァランテーヌ・ヴィスコンティとの間に生まれたシャルルの子
という、男系とは行っても、傍流の傍流から、後を継ぐことになる。
#このルイ12世の時代が「王妃の離婚」の舞台となった。

9.フランソワ1世(1515-1547)も、ルイ12世の後継がいなかったため、今度は、シャルル4世の弟オルレアン公ルイのひ孫から即位する。

10.アンリ2世(1547-1559)フランソワ1世の息子

11.フランソワ2世(1559-1560) アンリ2世の息子
後継男子が不在

12.シャルル9世(1560-1574) フランソワ2世の弟
後継男子が不在

13.アンリ3世(1574-1589) フランソワ2世の弟
後継男子が不在

遂に、男系の後継者が身近にいなくなってしまい、
カペー朝の9.ルイ9世まで遡らないと繋がらない、アンリ4世がブルボン朝の1代目として即位することとなった。

#ヴァロア朝は、
1.ペストの流行
2.イギリスとの100年戦争とジャンヌ・ダルクの登場(国家意識の高揚)
3.イタリア戦争
4. ルネサンス
が、主要な出来事となった。


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