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色彩の再現と審美的基準の統一的理解を目指して(1/10) はじめに

 2021年のいま、映画などの映像作品は「色が付いている」状態が普通です。米国アカデミー賞において、1968年(撮影賞でモノクロとカラーの区別が撤廃された年)以降に開催された54回中、全編モノクロで製作され作品賞を受賞したのは、1993年”シンドラーのリスト”(一部パートカラーあり)・2011年”アーティスト”の実に2タイトルだけです(独自調査)。
 映像作品を楽しむ感覚としても、モノクロになっていること自体にカラー作品には感じない特別な演出意図を感じるという方が多いのではないでしょうか。自分で写真や映像を撮影する場合も意識しなければカラーでしょう。LeicaやREDからモノクロ専用機が発売されていますが、購入者は相当限られているはずです。なんといっても高い。
 映像は色彩豊かである「当たり前」。しかしそれは裏を返せば「無意識に画面上の色彩から影響を受けている」と考えることもできて、これは視聴体験に影響する重要な要素として画面の色彩設計が存在していることを示唆しています。”ジョーカー”のあの狂気を孕んだ陰鬱な雰囲気は綿密な色彩設計がなければ成り立っていないでしょう。
 したがってすべての映像作品で色彩設計が行われているはずです。実写作品ではアニメーション作品と違って特定の色彩設計者がクレジットされていることがないように思いますが、監督・撮影監督・照明監督が中心的役割を担っている点は想像に難くありません。また衣装・大道具・小道具・メイクアップなど画面に映るすべての要素が考慮の対象であって、それぞれを担うアーティストとの擦り合わせもあるはずです。ポストプロダクションにおいてカラリストが与える影響も大きいと想像します。作品が成り立つためには脚本との整合性まで関係してくるでしょう。映像(映画)が総合芸術であると言われる所以の一端を見る思いがします。

 映画鑑賞から撮影機材や編集ソフトに興味を持ち、そこから映画の色がどうやって作り込まれているのかに好奇心をくすぐられたのが始まりです。いろいろ勉強してみましたが、理論的な裏付けとなる色彩科学がとてつもなく難しい。同じ気持ちだという方も多いはず。おそらく人間の視覚機能が良くできすぎていて、眼を開けば自動で起こる生理反応であるために、当の人間自身にメカニズムの整理が難しいのではなかろうかというのが個人的な感想です。基礎に位置する学説の間で100年以上も論争が続けられた事実がその困難さを物語っていると思います。

 この連載は、映像表現のうち特に色彩に対して興味を持った門外漢が、色彩科学や視覚について勉強しおぼろげながら掴んだ全体像の素描に挑んだ無謀な試みです。色彩現象を統一的な基盤の上で理解するために必須となる知識をできるだけ因果関係を明示して接続したい。特に映像技術と印刷技術、そして配色理論を扱った種々の解説を読みながら感じた曰く言い難い歯切れの悪さを解消できないかと考えたのが今回の執筆動機です。したがって原理原則を議論の対象としており、レタッチ、カラーコレクション、グレーディングなど華やかなクリエイティブ作業を行うにあたって即効性のあるテクニックはでてきません。冗長で説明くさい記述ばかりになっています。ビジュアライズ時代真っ只中に、「色」について説明するにもかかわらず、むしろ言語表現でしか伝えることのできない色彩現象の捉え方があると信じて書きました。表象に先立つ言語解釈を必要とする場面が往々にしてあると思っています。苦行体験であることは否定しませんが、いままさに色彩科学の難解さに頭を抱えている方に少しでも見通しの晴れる内容を伝えることができれば幸いです。
 また「色彩の正体は、光によって刺激された人間の視覚系を起点に生じる脳内現象である」という認識が連載全体を支える大きな柱です。すでに色彩科学を勉強されて作品制作にも慣れ親しんだ方が色彩に対してどのような捉え方をしてるのか想像は難しいですが、もし捉え方が違っていても混乱を助長するのではなく、新たな視点となるような内容を提供できるとすればこれもまた嬉しく思います。

 内容の正確性を第一目標にしつつ、説明の簡便さを優先した部分が多くあります。適宜補足したつもりですが、もし簡便さを通り越して不正確になっている記述があればぜひ教えてください。コメント欄やTwitterでもかまいませんのでなんでも反応いただければ幸いです。

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