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僕が考える仏教

僕はお釈迦さんのファンだ。でもあんまりお寺さんの事はわからない。
でもちょっと思ったことがあったのでここに書いてみる。(長文だしね)

葬式仏教っていうのは「葬式にしか出てこない仏教」とか「葬式にしか役に立たない仏教」だとかそんな風な悪口の事だろうと僕は思っている。
でもそれって現代人がそれを望むからニーズに合わせてそうなったっていう要素が強いと思うんだよね。だって日常で忙しいもん。
んでもって自分たちのニーズでそうなってるのに「葬式仏教」と揶揄するっていう馬鹿馬鹿しい形になってる。ほんとに馬鹿馬鹿しい。

とはいえ一方で、やっぱりお寺さんの失敗もあると思うんだよね。
お葬式なんかでは一般人の僕たちの中では「お経さえ唱えてもらえればとりあえず大丈夫」みたいなところがあって、それである意味死の不安だとか死の恐怖だとか、そういう死の心配は一応解決される。ちなみにうちの菩提寺の住職は法話なんか一切しない。お経上げたらすぐ帰る。やっぱりお経さえ唱えれば死の解決にはなっちゃうんだよね。

それを踏まえて言うけどさ、伝統仏教なるものが死の解決に日夜努力する一方で、生きる苦しみの解決っていうのを置いてけぼりにしてきたんじゃないかって思うんだよね。
そりゃさ、伝統仏教って盛んなのは浄土教と日蓮宗みたいな感じで鎌倉仏教じゃない?あの時代のひでぇ状況「今生じゃだめだな」的な気分で阿弥陀様にすがる、か、それを前提に「自力も必要だろ!」的な気分で妙法蓮華経っていう感じでしょ?
そりゃ今ここで生きる苦しみに対する解決は置いてけぼりだって。

それは鎌倉時代の「うわ、動乱だ」「うわ、飢饉だ」「うわ、元寇だ」っていう状態でのニーズであって今のニーズではない。今みんなここでの生きる苦しみにあえいでいるんだからそのニーズに応えなきゃいけないんだよね。
お坊さんたちの努力はわかるけど、どうやらそれができていない。
その傍証となるのが南伝仏教がジワジワ出てきているのと、マインドフルネスが流行り始めてるって事。

南伝仏教っていうか上座部って言うかその辺って、信仰ではあるんだけど、ある意味「お釈迦様による生きる苦しみの賢いやわらげ方」テクニックを色濃く残してるところもあるでしょ。
北伝仏教っていうか大乗仏教ってゴテゴテいろんな教学とか方便とかがくっついているからなのか、その辺のテクニックが判りづらいんだと思うんだ。
問題はそこなんじゃないかって思うんだよね。生きていくには要らん話がある。シンプルにお釈迦様が最初に言った事、四諦、八正道とかが何故重要なのか、無財のやつも含めてお布施が何故重要なのかとかを説明するだけで、物分かりのいい人は「あーなるほど」ってなると思うんだよね。僕はちょっと時間を要したけど。

だからさ「阿弥陀様のありがたさ」を説いてばかりではなくて「妙法蓮華経の凄さ」を説くのでもなくて「お釈迦様の人生ライフハック」を説くのに戻ればいいのに、と素人の僕は思うんだ。

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