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「ウラニアのエロイカ」CDの追跡

序文

「ウラニアのエロイカ」とは、ベートーヴェン作品の権威である指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラーとウィーン・フィルによるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」のレコードで、同曲の決定盤として名高い名盤です。

元々は1944年12月19日、戦時中のウィーン学友協会大ホールにおいてRPG(ドイツ帝国放送)により聴衆のいない状態で行われた放送用の演奏でしたが、戦後になってからレコード化され人々に広まったことで「ウラニアのエロイカ」はベートーヴェン交響曲第3番「英雄」の名盤として知られるようになります。

米URANIA:URLP 7095(1953年)※LPレコード

「ウラニアのエロイカ」は1953年に初版が発売されて以来、現代に至るまで聴き継がれているため数多くのレコードやCDが存在するのですが、フルトヴェングラーによる戦時中の録音は複雑な経緯を辿って世に出たため、それぞれのレコードやCDが一体どのような音源を使用して制作されたものなのかを把握することが困難となっています。

フルトヴェングラーによる戦時中録音が辿る経路図

この記事ではそれを整理、追跡することで、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」の決定盤たる「ウラニアのエロイカ」を一体どのCDで聴くのが良いのかを判断するための参考にしていただきたいと思います。


1. 録音からソ連による接収まで

先述の通り、「ウラニアのエロイカ」は1944年12月19日に聴衆のいないウィーン学友協会大ホールにおいてRPG(ドイツ帝国放送)のウィーン支局により録音されました。このときにピッチが高い状態でテープに収録されてしまったという問題が、後に発売されるレコードやCDに影響することとなります。

フルトヴェングラーが指揮するオーケストラ演奏のマグネトフォン録音風景

そして、第二次世界大戦の結果としてドイツはソ連に占領され「ウラニアのエロイカ」を含むRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープがソ連に渡ることとなります。まだ、この段階では「ウラニアのエロイカ」のレコードは制作されていませんでした。

A:RPGウィーン支局のテープがドイツへ渡る
B:ドイツを占領したソ連がRPGのテープを接収

2. ウラニア/VOXへの訴訟

フルトヴェングラーの演奏を収めたRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープはソ連に接収されてしまいましたが、「ウラニアのエロイカ」の初版は意外なことにアメリカで発売されることとなります。1951~53年にかけて、アメリカのレーベルであるウラニアとVOXが東ドイツの放送局を経由してソ連から録音テープのコピーを入手し、レコードを制作したのです。

C,D,E:米ウラニア/VOXへ録音テープが渡る

ただし、これらのレコードはフルトヴェングラーら演奏家の許可を得たものではなかったため、ウラニアやVOXは訴訟を起こされることとなります。このときの経緯については下記のサイト「復刻Lab」様にて詳細がまとめられています。
米Billboard紙からよみとるURANIA RECORDSの裁判 (fukkokulab.com)

ウラニアからはベートーヴェン交響曲第3番「英雄」が、VOXからはフランク交響曲とベートーヴェン交響曲第4番が発売されました。このときに発売されたウラニアのレコード「URLP 7095」が本家本元の「ウラニアのエロイカ」です。この時点ではまだ、高くなってしまったピッチの修正は行われていませんでした。

米URANIA:URLP 7095(1953年)※「ウラニアのエロイカ」
米VOX:PL 7230(1952年)
米VOX:PL 7210(1951年)

「ウラニアのエロイカ」のレコードURLP 7095はプレス時期によって5つに分類されており、その内の最初期である①および、それに準ずる①bの2つの時期にプレスされた盤のみが良好な音質であるといわれていました。

① 最初期プレス
A面 E3KP-4554 1A
B面 E3KP-4555 1
①b 最初期と次のプレスの中間
A面 E3KP-4554 1A
B面 E3KP-4555 1B および URLP-7095 の刻印もあり

フルトヴェングラー完全ディスコグラフィー (archive.org)

残念ながらウラニアがレコード制作のマスターとしていたテープは失われているのですが、URLP 7095から復刻した板起こしCDが多数発売されたため、間接的にその音を聴くことができます。中でもMYTHOSとDeltaの2レーベルのCDが高く評価されていました。詳細は後述しますが、URLP 7095より後に制作されたレコードやCDの音源はそれぞれ何らかの損傷や欠落を抱えているため、URLP 7095の板起こしCDは「ウラニアのエロイカ」の演奏を完全な形で聴くことのできる唯一の選択肢といえます。

MYTHOS:MPCD5011
MYTHOS:NR-ZERO3 ※CD-R
Delta:DCCA-0031

おすすめCD第1位:MPCD5011

MYTHOSのMPCD5011はURLP 7095の「①最初期プレス」から復刻した、数ある「ウラニアのエロイカ」のCDの中でも最も鮮明な音質を聴くことのできる1枚です。明瞭さという点では抜きん出ており、これを聴くと他のCDはベールを被ったような音に感じられてしまうでしょう。オリジナルのLPに忠実なピッチ未修正の状態で収録されています。明瞭な音を聴ける反面、収録レベルが高くてレコードの再生ノイズも目立つ、耳障りであるともいえる音作りのためヘッドホンで聴くには向かないかも知れません。MYTHOSによる復刻には「NR-ZERO3」という規格番号のCD-Rも存在しますが、これはMYTHOSが復刻LP「MPLP003」を制作するためのマスターとして新たにURLP 7095から復刻した音源をCD-R化したものです。MPCD5011に比べると帯域が狭くやや鮮明さに劣る印象を受けますが、これはLP化を念頭に置いた復刻であるために、カッティング時に高域が歪まないよう抑えたり再生ノイズが二重にならないようノイズ低減を重視した影響ではないかと考えられます。

おすすめCD第2位:DCCA-0031

DeltaのDCCA-0031は「①b 最初期と次のプレスの中間」から復刻されたCDです。レコードの再生速度を調節することでピッチが修正された演奏の欠落がない復刻であるため、元々のフルトヴェングラーの演奏に最も近いCDといえるでしょう。音質については、先述のMYTHOSによる復刻CDと比較するとかなり籠ったように感じられ後述のTurnabout系のCDと比較しても優位性のあるものではなく、その点は少々残念だといわざるを得ません。鮮明さではMYTHOSによる復刻に譲る反面、収録レベルは自然な範囲に設定されており穏当で耳当たりの良い自然な音で聴くことができると評価することもできるでしょう。


3. ユニコーンによる正式リリース

1951~53年に発売されたウラニアとVOXのレコードはフルトヴェングラー本人の許可を得ていませんでしたが、1970年前後にはエリーザベト夫人から許諾を得た上で、「ウラニアのエロイカ」を含むフルトヴェングラーによる戦時中録音のレコードが正式に流通するようになります。

このとき、ソ連から「ウラニアのエロイカ」を含む数点の録音テープがエリーザベト夫人のもとへ送られ、英ユニコーンはこのテープを利用してレコードを制作しました。録音テープが得られなかった他の戦時中録音についてはソ連の国営レーベル「メロディア」が制作したレコード※1を入手、板起こしを行うことで音源を準備しました。このときに英ユニコーンによって制作された一連の音源は「ユニコーン原盤」と呼ばれます。これを基に制作されたCDも多く存在しますが、別系統の音源を利用したものが「ユニコーン原盤」と銘打たれているケースも散見されるため判別が困難となってしまっています。

F:ソ連からエリーザベト夫人を経由して英ユニコーンへ録音テープが渡る
(録音テープがない演奏は露メロディアLPの板起こしによる音源を作成)
G:米Turnaboutはユニコーンから認証と原盤の提供を受ける
H:「ウラニアのエロイカ」の音源は米Turnaboutがウラニアから継承

※1 メロディア盤のレコードについて
ソ連では終戦時に接収したRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープを利用して、1950年代から国営レーベル「メロディア」が自国内向けのレコードが制作、販売されていましたが、何故か「ウラニアのエロイカ」と「VOXのフランク交響曲」については該当する戦時中の録音テープを利用せず、1950年代に入ってからEMIとDeccaにより制作されたスタジオ録音をコピーしたものが販売されていました。(VOXのベートーヴェン交響曲第4番と同じ演奏、録音によるメロディア盤のレコードは存在します。)

3.1. ユニコーン盤(UNI-104)

英UNICORN:UNI-104(1970年5月)

英ユニコーンの制作、販売したレコード「UNI-104」は正式なライセンスを得て販売された「ウラニアのエロイカ」の第1弾ともいえる存在で、マスターにはエリーザベト夫人を経由してソ連から取得した録音テープが使用されています。しかし、この音源にはテープのコピー時に発生、混入したと思われる周期的な音揺れ(ワウ)が存在し、第1楽章においてそれが顕著であるという問題があり鑑賞する上で大きな障害となってしまっています。この録音テープに由来する後発のレコード、CDにも同様の問題が存在します。

3.2. Turnabout盤(TV 4343)

米Turnabout:TV 4343(1969年11月)

米Turnabout(VOXが1965年に設立したレーベル)は、英ユニコーンから二次的に認証を受ける形でレコード「TV 4343」を制作、販売しました。英ユニコーンから認証は受けたものの、「ウラニアのエロイカ」の音源についてはユニコーンのものではなくウラニア(1956年4月に活動停止)で使用されたものを引き継いだため、英ユニコーン盤に存在していた周期的な音揺れが米Turnabout盤にはなく良好な状態の音を聴くことができました。Turnaboutがウラニアの音源を取得できたのは、ウラニアを運営していたのがTurnaboutの母体であるVOXのプロデューサー、Ward Botsford氏であったためです。

Botsford's work was produced on a variety of labels including Urania Records, Vox Productions (with which he was Vice President and co-owner), and Arabesque Records (Botsford founded Arabesque Records in 1980).

Ward Botsford: Remembering our Founder - The Classical Music Guide Forums

ただし、Turnaboutのレコードにはウラニアのマスターテープがそのまま利用されていたわけではありませんでした。Turnabout盤にはピッチ未修正とピッチ修正済のレコードが混在しており、また、レコードのA面に第2楽章の途中まで収録するようカッティングが変更されています。これらの補正や編集を行うため「ウラニアのエロイカ」から更に数世代のコピーを経た録音テープがマスターとして使用されていたと考えられます。

また、Turnaboutが制作、販売した「ウラニアのエロイカ」以外のフルトヴェングラーによる戦時中録音のレコードは、ユニコーンと同じくメロディア盤レコードの板起こしによるものと思われるため、これらはユニコーンから供与された音源を利用して制作されたと考えられます。

4. 日本のレコード/CD

先述の英ユニコーン、米Turnaboutを由来とする「ウラニアのエロイカ」のレコードは日本でも発売されました。日本コロムビアの「DXM-101-UC」はユニコーン原盤、日本フォノグラム(Fontana)のレコード「FCM-50」はTurnaboutを原盤とするレコードで、それぞれ原盤に準ずる音を備えていました。また、これらのレコードにもピッチ未修正とピッチ修正済のレコードが混在していました。

I:日本コロムビア(英ユニコーン系統)
J:日本フォノグラム(米Turnabout系統)
K:東芝EMI(日本コロムビアから音源を継承)

日本コロムビアの音源は後に東芝EMIへと継承されたため、東芝EMIからはユニコーン原盤によるフルトヴェングラーのレコード、CDが発売されました。東芝EMIからの「ウラニアのエロイカ」初出CDは1989年に発売された「CE28-5746」(ピッチ修正済)ですが、これもやはりユニコーン原盤に存在する音揺れの問題を継承しているため鑑賞には不向きな音質です。ユニコーン原盤の音揺れがどういったものであるのか聴いて確認したいのであれば、東芝EMIによるユニコーン原盤のCDを入手することでその興味を満たすことはできるかも知れませんが、それ以上の価値を見出すことはできないでしょう。

日本コロムビア:DXM-101-UC(1970年7月)
日本フォノグラム:FCM-50(1973年)
東芝EMI:CE28-5746(1989年5月24日)※CD

5. VOX後継レーベルによるCD

英ユニコーンによる認証を受けてTurnaboutレーベルから「ウラニアのエロイカ」を制作、販売していたVOXですが、1980年には社長であるGeorge H. de Mendelssohn-Bartholdy氏がVOXを売却し、その後にPrice-LessとPantheonという2つのレーベルを設立します。そして、Turnaboutの音源を継承したこれらのレーベルによって「ウラニアのエロイカ」を含むフルトヴェングラーのCDが世に出ることとなります。

After selling Vox Productions to the Moss Music Group in 1980, he created two more labels: Pantheon and Price-Less.

George H. de Mendelssohn-Bartholdy, 75 - The New York Times (nytimes.com)

Price-LessのCDおよびPantheon原盤の「ウラニアのエロイカ」は、Turnaboutのレコード制作用に作成されたマスターテープが音源となっているため、Turnaboutのレコードで第2楽章が盤面を跨いだ場所に相当する、第2楽章の10分50秒を少し過ぎたタイミングで一瞬だけ完全な無音状態になるブランクが存在することが特徴で、ピッチも修正されたものとなっています。「ウラニアのエロイカ」以外のフルトヴェングラーによる戦時中録音についてはメロディア盤レコード板起こしであり、このあたりの音源についての事情はTurnaboutが制作、販売したレコードと同様です。

L:米Turnaboutの音源がPrice-LessとPantheonへ継承される
M:独BayerがPantheonのライセンスを取得してCDを販売
N:日クラウンレコードがPantheon原盤のCDを販売 ※「ウラニアのエロイカ」は未発売

Price-Lessからは「ウラニアのエロイカ(D16395)」や「メロディアの第九(D13256)」といった形で直接CDが制作、販売されたのに対し、Pantheonでは他社レーベルにライセンスと原盤を提供する形が採られており、ドイツのBayer Dacapoと日本のクラウンレコードからPantheon原盤のCDが制作、販売されました。ただし、クラウンレコードからは「ウラニアのエロイカ」に該当する演奏のCDは発売されていません。

Price-LessおよびPantheon原盤によるフルトヴェングラー戦時中録音のCD

おすすめCD第3位:D16395/BR 200 002 CD

VOXの後継レーベルであるPrice-Lessから販売された「D16935」と、Pantheonからライセンス認証と原盤提供を受けてBayer Dacapoから販売された「BR 200 002 CD」です。VOXのレーベルであるTurnaboutのレコード制作用マスターが音源であるため先述の通り、第2楽章の10分50秒を少し過ぎたタイミングで一瞬だけ完全な無音状態になるブランクが存在しますが、後述する他のテープ音源がより大きな何らかの損傷を孕んでいることを考えると大した問題ではありません。Turnaboutの音源が元々のウラニアのものであったことを考えると、「ウラニアのエロイカ」の遺伝子を正当に受け継いでいる、たった2枚のCDであるといえます。

米PRICE-LESS:D16395(1987年)
独BAYER DACAPO:BR 200 002 CD(1988年)

音質については高域が削られて籠った音質であり、テープ音源から制作されたCDの状態としてベストとはいい難いものですが、これは制作、販売された時期がCD黎明期にあたる1980年代後半であり、当時はノイズを抑える手段が充実しておらずフィルターを強く掛けることしかできなかったからだと考えられます。しかし、他のテープ音源を由来とするCDが軽い印象を受ける音であるのに対して、これらのCDでは低音の充実した響きを聴くことができます。これは「ウラニアのエロイカ」のマスターテープが持っていた音の傾向なのかも知れません。

Price-Less「D16935」とBayer Dacapo「BR 200 002 CD」の音質は同一といって差し支えありません。前者がAAD(アナログマスタリング)、後者がADD(デジタルマスタリング)と表記上はマスタリング方式が異なり、実際に音声データ(raw)のバイナリが一致しないことから音の違いはあるものと思われますが、ブラインドテストでこの2枚のCDを聴いて判別することは非常に困難かつ現実的には不可能といえるでしょう。


6. 旧ソ連からの返還テープ

先述の通り、ソ連では終戦時に接収したRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープを利用することで、1950年代から国営レーベル「メロディア」により自国内向けのレコードが制作、販売されていましたが、「ウラニアのエロイカ」については該当する演奏のレコードは存在しませんでした。しかし、この系統の音源からフルトヴェングラーの戦時中録音を発掘する2つの動きが1990年前後に起きることとなります。1つ目の動きは、かつて神保町に存在した新世界レコード社(2007年7月3日閉店)がメロディアに働きかけ、新たに制作されたレコードとCDを輸入販売したことであり、2つ目の動きはソ連(この頃に崩壊)からRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープが返還され、それを基にしたCDが制作されたことです。

O:新世界レコードが露メロディアからレコード/CDを輸入
P:RPGの録音テープのコピーおよび原本が独SFBへ返還される
Q①:DGが1987年に返還されたコピーテープからCDを発売
Q②:1991年に返還された原テープは最終的にDRAへ移管される
R:墺PREISERが独SFBの音源を使用したと思われるCDを販売

ソ連が接収したRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープは「ウラニアのエロイカ」の原本ともいえる存在です。しかし、録音から半世紀近くが経過していたことによる劣化のためか、あるいは保管状態が良くなかったからか録音テープの損傷が激しく、この系統の音源には以下のような問題が存在します。

  • 第1楽章冒頭1音目の欠落(2音目を1回繰り返すことで補完)

  • 第1楽章13分30秒~50秒の欠落(別の音源を利用して補完)

  • 第2楽章全体の欠落(別の音源を利用して補完)

  • 補完箇所を除き全体を通して持続するハム音の混入

最後に挙げたハム音については経年劣化で混入するとは考えにくいため、そもそも終戦後にソ連が接収した録音テープ自体がウラニア盤に使用されたマスターとは別系統のコピーであったか、あるいは元々の録音テープが寿命を迎えたためにソ連、ロシアにおいて新しいコピーが作成されていた可能性も考えられます。

この系統の音源から制作されたレコードやCDには先述した多くの問題が含まれているものの、他の系統の音源と聴き比べた時にハッとさせられるような高音域の抜けの良さがあり、オリジナルテープが備えていた高音質の残滓を僅かながら感じ取ることのできる、捨てがたい魅力が存在します。

6.1.新世界レコードによるメロディア盤の輸入販売

新世界レコードが1990年頃から輸入販売したメロディア製レコードおよびCDは、概ね高く評価されて日本のファンに受け入れられましたが、強烈な疑似ステレオ効果やイコライジングなど、大胆なデジタルリマスターが施されているため好みの分かれる音でもあります。冷戦期のソ連で制作されたメロディアのレコードがレーベルの色によって桃色、青、黄色などと分類されていたことに倣って、このときの規格番号がM10から始まるレコードも、その色から「黒ジャケット」や「黒レーベル」と呼ばれました。

露MELODIYAによる「ウラニアのエロイカ」
M10 06443 009(1990年)※LP
MEL CD 10 00710(1993年)※CD

おすすめCD第5位:MEL CD 10 00710

先述の通り、強烈な疑似ステレオ効果やイコライジングなど大胆なデジタルリマスターが施されており、第2楽章以外はハム音も聴こえるため、好みの分かれる音質ではあります。しかし、原本たるRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープを保有していたロシアによって制作されたものであると考えると、オリジナルマスターに最も存在が近いCDといえなくはないでしょう。マスターテープの第1楽章冒頭1音目の欠落は2音目を1回繰り返すことで、失われた第2楽章は別系統の「ウラニアのエロイカ」音源を利用することで補完されています。また、第1楽章の13分30~50秒ではハム音が聴こえなくなるため、この部分は欠落を別系統の音源をクロスフェードさせることで補完したものと考えられます。

6.2. 旧ソ連からの録音テープ返還

終戦時にソ連が接収したRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープは、最終的にドイツのSFB(自由ベルリン放送)に返還されることとなります。まず、1987年にはエコー付加などのマスタリングを施された状態のコピーテープが、そして1991年には、その時点で喪失されずに残されていた原テープ全てが返還されました。最終的に、SFB(自由ベルリン放送)に返還された「ウラニアのエロイカ」の原テープはDRA(ドイツ放送アーカイヴ)へ移管されたことが確認されています。

1987年に返還されたコピーテープを基に制作されたCDがDG(ドイツ・グラモフォン)から販売されましたが、「ウラニアのエロイカ」についてはその時点の返還テープには含まれていませんでした。

返還されたコピーテープと原テープの内、ベルリン・フィルによる演奏を録音したものについては2018年にベルリン・フィルが自主制作したSACDセット(国内盤:KKC-5952/73)にて網羅されていましたが、ウィーン・フィルとの演奏である「ウラニアのエロイカ」や「VOXのフランク交響曲」は当然この中には含まれていません。

おすすめCD第6位:90251

詳細な経緯は不明であるものの、SFB(自由ベルリン放送)に返還されて以降の原テープからCD化されたと思われる「ウラニアのエロイカ」が、オーストリアのPreiserから販売されました。このCDでは先述のメロディア盤と同様に録音テープの欠落を補完した形跡が見られ、この系統の音源に存在するハム音も欠落の補完箇所以外で聴かれます。しかし、Preiser盤で行われている欠落の補完にはメロディア盤にはなかった2つの問題が存在しました。

墺PREISER:90251(1995年3月25日)

1つ目の問題は、第1楽章の13分30~50秒あたりの欠落を「ウラニアのエロイカ」ではない別の演奏で補完しているというものです。差し替えに使用されたのは1952年12月7日に演奏されたベルリン・フィルとのベートーヴェン交響曲第3番「英雄」のライブ録音で、メロディア盤より僅かに早い13分20秒あたりからクロスフェードが始まり、聴衆のいない状態で演奏が行われたはずの「ウラニアのエロイカ」であるにも関わらず、この部分ではオーディエンスノイズが存在するという奇妙な状態になってしまっています。

2つ目の問題は、第2楽章の10分50秒を少し過ぎたタイミングでブランクが存在するというものです。これは欠落した第2楽章を補完するための音源を調達するのに第2楽章が盤面を跨ぐTurnaboutのレコードから板起こしを行ったからだと考えられます。そのため、Preiser盤の第2楽章では強いフィルターがかけられているため判別しにくいものの微かなレコード再生ノイズを聴き取ることができます。

SFB(自由ベルリン放送)に返還された録音テープに元々存在する欠落に加え、Turnabout音源の第2楽章に含まれるブランクまで付け足されてしまった満身創痍ともいえる状態のCDですが、メロディア盤が大胆なデジタルリマスターを施して積極的に音質を変えていたのに対して、Preiser盤では元々の録音テープに近い自然な音で制作されているという大きなアドバンテージがあります。この点を踏まえると音質的にはオリジナルマスターに最も近いCDかも知れず、「ウラニアのエロイカ」を追及して聴き比べるのであれば参考のために是非聴いていただきたい1枚です。


7. DRA(ドイツ放送アーカイヴ)

これまで紹介してきた「ウラニアのエロイカ」のレコードとCDは、元を辿ると全て終戦時にソ連によって接収されたRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープが出自であり、それをコピーしたものをマスターとして制作されたものでした。しかし、ソ連に接収されたもの以外でドイツ国内に残されていた別系統のRPG(ドイツ帝国放送)録音テープも存在しており、それはDDR(旧東ドイツ放送局)を経由して最終的にDRA(ドイツ放送アーカイブ)に移管されました。「ウラニアのエロイカ」最後発のグループに属するCDはこのDRA(ドイツ放送アーカイブ)の音源をマスターとして制作されることとなります。

S:RPGの録音テープがDDRにてコピーされる
T:コピーテープは最終的にDRAへ移管される
U:1998年にDRA音源からの初CD化(仏TAHRA)

DRA(ドイツ放送アーカイブ)に収蔵されている音源は、長い年月の間でRPG(ドイツ帝国放送)の録音テープから何度もコピーを重ねたものであり、また、経年劣化によると思われる損傷が再生状態に表れている箇所も見られるため、良質なマスターとはいい難いものです。この系統の音源が使用されていることの目印としては、ピッチが修正された状態で第1楽章の1分40秒を過ぎたあたりに一瞬レベルが下がる部分があることに注意して聴くとわかりやすいと思います。

●しかし、第1コピーは、保管スペースを小さくするために倍速でコピーされた後、処分された(!)。
●ドイツ放送アーカイブ(DRA)に現存するのは、この倍速でダビングされた質の劣るコピーである。

特別寄稿【フルトヴェングラー帝国放送局アーカイヴ:オリジナル・テープの遍歴とソース選択上の背景】|HMV&BOOKS online NEWS

DRA(ドイツ放送アーカイブ)の音源にはテープの経年劣化による多少の音揺れなどは存在するものの、Turnaboutの音源に含まれた第2楽章のブランクや、SFB(自由ベルリン放送)に返還されたテープの第1楽章の一部、第2楽章全体の欠落のように演奏の流れそのものを変える欠落は見られない点にアドバンテージがあり、今となっては「ウラニアのエロイカ」のマスターとして使用されることに耐え得る、唯一の音源といえる存在でしょう。

ちなみに、先述した通りDRA(ドイツ放送アーカイブ)にはロシアからSFB(自由ベルリン放送)へ返還されたオリジナルのRPG(ドイツ帝国放送)録音テープも所蔵されているはずですが、こちらから制作されたCDは現在に至るまで存在しません。録音テープの損傷や欠落が多く補正に手間がかかる状態であることを考えると、今後この録音テープを利用した音源がリリースされることは残念ながらないでしょう。

7.1 TAHRAからのCD化

DRA(ドイツ放送アーカイブ)の音源から最初に制作された「ウラニアのエロイカ」のCDはTAHRAの「FURT-1031」で、1998年4月27日に発売されました。TAHRAは放送局などに収蔵されている音源から積極的にフルトヴェングラーによる演奏の録音を発掘したレーベルであり、「ハンブルクのブラームス交響曲第1番(FURT-1001)」や「ルツェルンの第九(FURT-1003)」といった名演も、TAHRAによって従来のレコードやCDより良好な音質で聴くことができるようになりました。

しかし、TAHRAは良好なマスターへのアクセスという点で他のレーベルに先んじていたものの、リマスターの品質に対する評価は高くありませんでした。後にTAHRAと同じ音源を使用した他レーベルのCDも数多く制作されたため、今となっては音質の優位性という点でTAHRAのリリースしたCDに特別な意味を見出せるものは少ないでしょう。

仏TAHRAによる「ウラニアのエロイカ」
FURT-1031(1998年4月27日)
FURT-1034/39(1998年11月25日)
FURT2008(2011年8月20日)※SACD

TAHRAによる「ウラニアのエロイカ」中では最も高く評価されていると思われるのが初出であった「FURT-1031」です。しかし、このCDについてもノイズリダクションにより音質が劣化しているというリマスター上の問題が存在します。

デジタル音声編集技術が未発達であった黎明期のCDでは高音域をフィルターで削ることがノイズを低減する唯一の方法でしたが、このCD「FURT-1031」が発売された1998年頃になるとノイズリダクションが使用されるようになります。これにより高音域の楽音がフィルターによりノイズ諸共削られることで音が籠ってしまうという弊害はなくなりましたが、この頃はPCでいえばWindows 95/98の時代であり、進歩したといえどデジタル音声編集技術は発展途上にありました。ノイズリダクションの性能も十分なものではなく、低ビットレートの非可逆圧縮音源にも似た音質の劣化を招く悪影響の方が大きいケースがほとんどでした。クラシック音楽レーベルはノイズが多く含まれる古い録音に対してノイズリダクションを積極的に使用するようになったものの、それは多くのクラシック音楽ファンにとっては却って音質を損なうと感じられる余計な行為に過ぎませんでした。

この「FURT-1031」についても、ノイズ低減にフィルターではなくノイズリダクションが使用されていることから10年程前に発売されたCD群に属するPrice-Less「D16935」やBayer Dacapo「BR 200 002 CD」、東芝EMIの「CE28-5746」などと比較して音が籠っておらず高音域の抜けの良さでは優れているといえるものの、ノイズリダクションによる音質の劣化は避けられずアタック感の削がれた音になってしまっています。

7.2 アイヒンガー&クラウス

DRA(ドイツ放送アーカイブ)の音源から制作された「ウラニアのエロイカ」には、オトマール・アイヒンガー(Othmar Eichinger)とゴットフリード・クラウス(Gottfried Kraus)が関与して制作されたものが存在します。この「アイヒンガー&クラウス」はクラシック音楽ファンの間では悪名高いコンビであり、その劣悪なマスタリングにより数々の名演奏家達の貴重な録音を台無しにしてきたサウンドエンジニアとして忌み嫌われています。

独フルトヴェングラー協会:TMK200406151(2007年8月1日) ※ピッチ未修正
独ORFEO:C 834 118 Y(2013年2月2日)

アイヒンガー&クラウスが携わった「ウラニアのエロイカ」のCDはドイツ・フルトヴェングラー協会の「TMK200406151」とORFEOの「C 834 118 Y」ので、この2枚も残念ながら例外ではなく両名によって望ましくないリマスタリングが施されています。具体的には、過剰なイコライジングによって音が痩せ細り、コンプレッサーのスレッショルドとリリースタイムが度を越えて強く効くよう設定されたため強奏部で音が引っ込んでしまうという問題があり、聴いていてもどかしさの感じられる音質です。

ただ、ドイツ・フルトヴェングラー協会盤に関してはテープ音源を由来とするCDとしては唯一ピッチ未修正である点は特筆すべきで、ピッチが高く収録されてしまった元々のテープの音を聴くことができるという、資料的な価値はあるといえるでしょう。

おすすめCD第4位:MG17600062

MagistraleによってDRA(ドイツ放送アーカイブ)の音源から制作された「ウラニアのエロイカ」のCDです。音質補正はピッチ修正のみで、残響付加やノイズリダクションの行われていない素の状態の音質で聴くことができるという点が特筆に値します。元々の録音テープの音に極力手を加えないというこの方針は、リマスターに恵まれることのなかったこのCD群における唯一の良心といえるでしょう。

英MAGISTRALE:MG17600062(2023年6月30日)

唯一惜しむらくは、第4楽章の2分19~20秒に編集ミスによる音飛びがあることです。クロスフェードによる録音の接続がワンテンポ早く、演奏がつんのめる形で僅かに先送りされてしまっています。DRA(ドイツ放送アーカイブ)の音源はデジタル化されたことが確認されているため、もしかしたら欠落はその時点で生じ、Magistraleが音源を取り寄せた段階で既に存在していたものなのかも知れません。

ただ、DRA(ドイツ放送アーカイブ)の音源が持つアドバンテージはテープ劣化による再生状態の不安定さを除いて演奏自体に大きな欠落のない点であったことを考えると、ここにきて不要な欠落が新たに発生してしまったことは耐え難く大きな損失といえます。この欠落さえなければ、おすすめCD第3位にはPrice-Less盤/Bayer Dacapo盤ではなく、こちらのCDを推したいところでした。


後書

以上、長くなりましたがフルトヴェングラーによるベートーヴェン交響曲第3番「英雄」の名盤、「ウラニアのエロイカ」についての記事でした。名演であるが故に再販が繰り返された結果として長い時間をかけて数多くのレコードやCDが流通し、それぞれの情報が氾濫することになったものの体系的にまとめられた形で紹介されることは少なく、最近ではネット上に存在していた情報が風化し失われてしまうことも多くなってきました。

これから、ベートーヴェン交響曲第3番「英雄」の名盤を求めて「ウラニアのエロイカ」を聴いた誰が、その演奏と録音からレコードやCDが制作されるまでの背景について知りたいと思ったときに、ここに記した内容が参考になれば幸いです。

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