間違うのが怖い
過去を振り返って”あの時もっとこうしていればよかった”と思う事は私にはよくあった。だからといって今目の前の結果は変わる訳ではない。それでも振り返るのは次は絶対同じことを繰り返したくないからである。”あの時”を頭に刻み込むことで将来同じ状況に立った時に、その経験を生かして今度は上手くやれる、いややらなければならないという思いは仕事のみならず私生活においても私の中には常にあった。
同じ間違いをするべきではないと思う限りは、完璧な結果を求めて自分を追い込んでしまう。過去の私は少なくとも間違ったら終わりと考えていたので、何事においても自分を疑い厳しく監視しもっと改善しなければという思いにとりつかれていた。自分に自身が持てないのも、過ちを恐れる思いの現れだったのだろうと思う。
自分のすること全てが、常に何かが足りないような、何かが間違っているような気がする。それはそれで慎重な姿勢を養ってくれる面はあるので必ずしもダメとは思わない。けれども私自身が目標を明確にし、自分の足で立って新しい道を一歩踏み出そうとする時に後ろに引き戻す働きをするのも事実である。不思議な事に、そういう時にいろいろ横やりが入ったり何かできない理由が見つかると安心する自分もいるのだ。”ほらね、やっぱりそうでしょ…と、だからもう少し準備が整うまで待とう。”そうやって逃がしたチャンスも数知れないのである。
過ちを怖がるのはたくさん間違ったからではないと、今は思っている。人間でいる限り、ヒューマンエラーを日々経験しないのが不可能な話なのだ。怖がるのは、間違いをやらかしたときに私が下したジャッジ(審判)の故なのである。特に他者が絡む間違いに対して、機嫌を損ねた、迷惑をかけてしまったとなると突然自分を激しく責めてしまう。今度からもっと気をつけようと決意しても、またどこかで間違う。そして責める。その繰り返しの果てに、私は人と関わる事自体が億劫になってしまっていたのだ。
他者からは、私は常に自分の事に集中していて他人に関心がないように見えることがあるらしい。しかし関心がないのではなく、間違わないようにと全力を傾けてしまうので周りの動きや感情に気づいていても追いつかないのである。他者との距離を遠く感じるのも、元はと言えば何かの間違いが起きて相手や自分が傷つくのが怖いからであり自分から遠ざけている部分が大きいのだろうと思う。
出口のないような話ではあるが、怖いという気持ちは受け入れれば消えてしまう。怖がる私、億劫な私を全面的に受け入れるところから、克服への道は始まっているのだと思う。
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