声と祓い(後編) 2020.03.23


 自分の音声を聞いて死ぬほど恥ずかしい思いをした後で、気を取り直して先日の続きを書いている。治りかけの喉風邪のせいもあるが、私の声質についてはそれ以前の問題だということは十分理解しているつもりである。(だから今後も似たような事に挑戦するかどうかは音声編集など諸々勉強してみて考える予定)


 声について取り上げようと決めたそもそものきっかけは、私の耳の不調であった。元々片方の耳は若干聞こえづらくなっていたのだが、新型肺炎ウイルスの件で職場でマスク着用が義務づけられてからは、自分の声も相手の声もますます聞こえづらくなってしまった。40代に入った頃から時々突発的な耳鳴りやめまいがするようになり、なんか耳が変だと何年か前に気づいて検査をして、軽度のメニエール症候群という診断が降りた。


 ある人の声は普通に聞こえるのに、別の人の声は何を言ってるのかさっぱり分からないという状態が今も続いている。音の高さや声質はそれほど大差ないように思えるが耳はそうは捉えていないらしい。そして話の内容が上手く聞き取れないなりにも、何かしら感覚的に伝わってくるものはあってそれで何となく相手はこういう事を訴えているんだろうと理解できる部分もある。声って単なる音以上に何かあるのかなと、その辺りから考えるようになったのである。


 音との共鳴については体感的なものを言葉で伝えるのはかなり難しいと思うが、実際に自分や誰かの録音した声や、好みだなと思う声優さんの声など様々な声を聞いてその違いを体験してみるのが最もわかりやすいのかもしれない。声はツボると人の気持ちを上げてくれるだけではなく、心の深いところを揺り動かす事もある。言葉も声も耳から入るものの、脳の中で通るルートが違う。声は言葉のような意味づけに時間がかからない分周囲に早く深く伝わりやすいのだろう。


 

 同じ言葉を話していても全然違うメッセージを感じるのは、場の状況が伝えるものだけでなく声のせいもあるのだろうと思う。声色とはよく表現されたものだなと思う。ある種の金切り声のような耳に入ってくるとそこから逃げたくなる声もあれば、優しく甘い(好みはそれぞれに違っていたとしても)何となく引き寄せられる声もある。人の声は癒やしにも武器にも凶器にもなり得ること、そしてそのような質の異なる音声を一人の人間が作り出せることに、私は不思議さと神秘さを感じるのである。

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