ボジョレーの新酒

 今年もまた、フランスのボジョレー地区と日本でのみ騒ぎとなる、例の新酒の季節がやってくる。昔から、ぶどうの栽培と収穫、その後のワイン醸造は、文字通り足腰が立たなくなるほどの過酷な労働だったので、その年の仕込みが終わった後に酒神に感謝するという気持ち、もっと簡潔に言えば、その労働からの「解放感」は容易に想像できるものがある。ワインはキリスト教とも深く結びついてきた。その歴史的、文化的な部分を一気に飛び越えて、日付変更線の関係で、最も早く解禁になるというそんな理由だけで騒ぐここ極東の日本は、金儲けの市場としては、相変わらず最適な場所と言えるのだろう。

 日常的にワインを好む層は、特段この騒ぎに踊らされることは無いから、販売の主たるターゲットは、ワイン文化とは何の関係も無い、特にアルコールに興味も無い、ごく普通にハロウィンやクリスマス、バレンタインデーに反応するような層になる。輸入業者側にも、この新酒をきっかけにその購買者を「めくるめくワインの世界」に誘う、というような発想は無い。在庫が空になればそれで十分なので、結果的に毎年毎年、同じことが繰り返される。使用されるガメイ種は、一般的に「早飲み」用の品種なので、熟成させ、在庫として抱えるメリットも全く無い。そして、その帰結として日本は、この新酒の世界最大の輸出先となった。輸送費を少しでも安くするために、グラスボトルではなくペットボトルにさえ詰められるワインは、収穫の喜びや酒神に対する感謝の気持ちとは対極にある存在、容易に代替可能な単なる一商品と言えるのかもしれない。

 もちろん、新酒がここまで認知されたのは、長期に渡るマーケティングの勝利、莫大な宣伝広告費の成果と言うことはできる。しかしながら、ボジョレー地区の酒飲みではなく、そこから遙か遠く離れたここ日本で、決められた品種のワインを、決められた時期に、決して安くはない価格で飲むことの意味は本当にあるのだろうか。酒類を楽しむということは本来、もっと自由であるべきではないだろうか。酒飲みは、そして、これから酒飲みの仲間入りをする層の皆さんは、自分で飲む酒類を自分以外の誰かに決めてもらう必要はないはずだ。既存のシステムが作り上げた暗黙の縛りから自由になって初めて、この新酒も楽しむことができるのではないだろうか。

 アルコール文化、というものがもしあるのであれば、酒飲みは文化人であるべきだ、とまでは言わないまでも、自分の酒は自分の意志で選ぶべきだと私は思う。その結果として、毎年この新酒だけは試すことにしている、という層が厚くなれば、それは正にこの国のアルコール文化の成熟に繋がるのではないだろうか。秋も深まる11月は、私にとってついそんなことを考えてしまう季節だ。主にワインではなく、ビールと共に、だが。

 気が付けば、今年の11月も直ぐにやってくるのだろう。間違いなく。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?