「ファン列車」とビール

 ドイツのサッカーリーグ、ブンデスリーガのアウェー戦に向けて「ファン列車」が運行されることがある。距離のある開催地での、試合観戦だけのために準備される列車だ。破格の安さで往復できるものの、通常、ドイツ鉄道が保有する最も古く、最も汚い客車が使われる。例えば、ケルンのチームのファンが「ファン列車」でミュンヘンに向かうとする。途中、乗客の乗降は一切できず、ありとあらゆる列車に追い抜かれ、復路も全く清掃されない同じ客車で戻ることになる。文明国とは思えない、凄まじい混沌と共に移動する。特に帰路の無秩序状態は、凄惨と言ってもいいほどのものがある。が、同じ志を持った人間の、同じ目的のための列車なので、この列車に乗る時点で、非日常が、大騒ぎが、始まることになる。ここに各自が、大量の地元のビールを積み込む。

 ドイツでは、多くのビール醸造所が歴史的に、特定のサッカークラブと強固な関係を持っている。その関係は容易に切れるものではなく、クラブが降格しても昇格しても続いていく。だから、ある醸造所の銘柄が、ある年から別のクラブのスポンサーになる、ということは通常考えづらい。ブンデスリーガ全体の、或いは、ドイツ代表や審判団統括団体のスポンサー向けの醸造所の銘柄も存在する。「ここ30年、同じ酒場の、同じデーブルで、同じ銘柄のビールしか飲んでいない」という酒飲みが、本当に存在する国なのだ。自分がサポートするクラブとビールの銘柄は、だから、自然と分かちがたい存在となる。

 敵地でも、自分達の地元のビールをあえて飲むことは、試合前には重要な意味を持つことになる。相手を挑発することも含め、わざわざ大量のビールを持参するのだ。ドイツでは、20本入るビールケースごと列車に積み込むことが基本になる。ケースと瓶にはデポジットで料金が上乗せされているのだが、面白いことにドイツの酒飲みは、酔っ払いながらも何とか全てを持ち帰ろうとする。ケースには1,5ユーロ、瓶には1本につき8セントのデポジットが加算されている。全て返却すれば3,1ユーロ戻ってくる計算になる。敵地で挑発するためにわざと空き瓶を置いたり、割れたりすることも頻繁にあるが、何とか持ち帰ろうとする。スタジアム内には持ち込めないので、現地のビールを飲むことになる。復路の分が足りなければ、仕方なく現地の銘柄を大量に積み込むことになる。行きも帰りも試合中も、とにかくビールと共にあるのが、ドイツでの試合だ。

 私は、人生における「自分の銘柄」を選ぶことができる酒飲みを羨ましく思う。彼等は心底、自分がサポートするクラブと共に、その銘柄が、この世界で最高のビールだと信じて疑わない。同時に、選ばれた側の醸造所の幸福も思う。知名度や生産量の多寡は全く別にして、生涯の銘柄として、誰かの心と共にあることになる。

 私は、こういった日常の風景にこそ、ドイツがビール大国と呼ばれる本当の理由があるような気がしてならない。そして、彼の地の酒飲み達を羨みながら、今日もここで負けずに飲むのだ。

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