酒類を輸入するということ

 非常に乱暴な言い方をすれば、誰でも酒類を輸入することはできる。一個人でも、異国の酒を国内に持ち込むことは容易だ。例えば旅先のイタリアで、素晴らしいワインを見つけた人間が、物理的に数本を持ち帰ることは簡単にできる。イタリアを代表するぶどう品種を使っている、或いは珍しい土着品種を使っているワイン。銘醸地と言われている産地のもの、或いは生産量の極めて少ない産地のもの。旅の途中でそういった出会いに恵まれれば、日本でも飲みたいと思うのが酒飲みだ。


 しかしながら、一本のワインを物理的に持ち込むこととは別の次元の感覚や概念も同時に存在する。酒場のざわめきやリストランテの食器が生み出す音、更に大袈裟に言えば、そのぶどうの産地や農家が持つ歴史、その地方の食文化といったものは、どうしても輸入できない。個人でも組織でも、酒類輸入に携わる者は、この「輸入できない」ということに自覚的にならなければ、持ち込まれた酒類は全て、単なる「アルコールの入った液体」になってしまうと私は思う。どういうことか。


 アメリカの詩人アーサー・ビナードが、興味深いことを言っている。日本の魚屋では、正に魚が売られているが、スーパーでは、「魚の死体」が並べられている、と。詩人の言葉の感覚に大いに共感する。そして、日本に輸入された多くの酒類は、もしかしたら「酒の死体」になっているのではないか、と思うことがある。バルクで大量に輸入され、日本で瓶や缶に詰められるワインとビール。もちろん、経済効率から考えれば、利益を出せる正しい方法だろう。誰も否定はできない。特に価格のみを重視すれば、結局、こういったやり方になる。が、それでも私は問いたい。わざわざ異国の酒類を求める酒飲みが、価格だけを見ているのだろうか、本当にそんなやり方でいいのだろうか、と。


 酒類の輸入に携わる個人や企業は、これまで以上にその酒の背景や物語を伝える覚悟が必要だと強く思う。そして、そんな輸入業者を育てるのは、最終的には酒飲み一人一人の思いでもあることも指摘したい。末端の消費者の意見は、必ず業界を動かす。国産、外国産を問わず、情熱をもった生産者が作る多くの酒類、選択肢があることこそ、豊穣なアルコール文化を生み出す第一歩であるはずだ。老人ホームの昼食にさえ、ワインが供されるイタリアの食文化を、そのまま日本に持ち込むべきだ、などと言うつもりは全く無い。が、そういった国で生まれた酒であると知ることには意味があると思う。そんな土地のことを思いながら飲む酒は、もしかしたら、普段よりも愉快に酔える、特別な一杯になるかもしれない。

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