森鴎外の数字は真実か

 国別の「一人当たりの年間ビール消費量」という統計がある。生まれたばかりの赤ん坊から酒を好まない大人まで、その国の国民一人当たり、年間どれくらいのビールが飲まれているか、という統計だ。単純なビール「総消費量」の統計だと、当然、中国やインド等、圧倒的に人口が多い国が上位になる。「一人当たり」を見ることで、ビールがどれだけその共同体に浸透し、また食文化として重要とされているかが分かる指標となっている。

 ここ30年程の期間を見ると、おおよそチェコ、ドイツ、オーストリアが上位3カ国で、一人当たり年間100リットルを優に越えている。その間、驚くべきことにチェコは常に首位で、消費量も突出し、200リットル近くで推移している。ここ数年で、ポーランドやルーマニア、アフリカのナミビアといった国が上位に入るようになり、上記の順位もビール大国3カ国を除いて変動するようになった。訪問した経験が無く、参考になる資料も見つからないのであくまで推測になるが、ナミビアはかつてドイツの植民地だったという歴史的経緯が影響しているのかもしれない。ちなみに日本の「一人当たり」の年間消費量は、30リットルを大きく越える程度である。

 森鴎外が書いたものに「独逸日記」がある。文字通り、彼のドイツ滞在中の記録がかなり詳細に読める。「エリート軍人」、「文豪」という響きが軽く聞こえるほど、それこそ日本という国家を背負って、強い決意と共にドイツに向かった当時の鴎外の重圧は、言葉にできないほどのものだったと思うが、やはり我々酒飲みとしては、彼のビールに対する感想や当時の酒場の情景が何より気になる。「独逸日記」の中で、彼は次のようなことを書いている。「仲間と酒場に行き、ビールを飲んだ。自分は1.5リットル程度で限界だが、中には12.5リットルも飲む奴がいて驚くばかりだ。」

 この記述を見た私は、俄には信じられず、いろいろと調べてみることにした。公文書や統計の数値を簡単に紛失するどこかの国もあるが、ドイツは全く違った。鴎外が滞在した140年程前の「一人当たり」の数値が、割と簡単に調べられるのだ。バイエルン州だけだと500リットルを優に越える程度、そして、ドイツ全体だと580リットルを越える数値を見つけることになった。個人的感想だけで言えば、鴎外に酒場で同席した酒飲み連中の「12.5リットル」という数値は、当時大いにあり得る、ということになる。呆れると同時に、お見事、とでも言いたくなる数値だ。言うまでもないが、酒には適量というものがある。飲み過ぎは決していい飲み方ではない。それでも私は、こんな光景、消費量を目の当たりにした鴎外のことを考えると、時代を超えた酒飲みに対する奇妙な親近感、連帯感を感じてしまう。

 美味いビールをゆっくりと飲みながら、彼の作品を読むのも悪くはないのかもしれない。エリート軍人、文豪ではなく、酒飲みの先輩としての彼に思いをはせるのも悪くはないのかもしれない。現代の酒飲みの私は、つい、そんなことを考えてしまうのだ。

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