酒飲みの二元論

 ドイツのサッカースタジアムでは、その規模の大小にかかわらず、最前列の特等席は、全て車椅子専用席になっている。チケット料金が格安になっていることに加え、同伴者も同様に格安で、その席に入れるようになっている。率先して、車椅子サポーターと共に乗り込む。だから車椅子席も常に満席になる。スタジアムでは、そのホームチームをサポートするかしないか、この単純な違いしか存在しない。

 ドイツの場合、車椅子サポーターは「かわいそうな人達」ではなく、例えば敵チームに対する容赦ない野次から始まり、審判団の判定に文句を言い、ホームの選手の緩慢なプレーにはビールを投げつける(もちろんいいことでは無いが)。私は「お前より俺の方がまだ走れる」という車椅子席からの絶叫を聞いたこともある。選手に対し、名指しで「出て行け」という罵声は常にある。ある意味、凄まじい空間だ。が、車椅子サポーターから罵詈雑言、または熱狂的な声援を向けられ、奮起しないプロはいない。性別、国籍、年齢、障害の有無やその他の属性にかかわらず、ホームチームをサポートするか、しないか。実に単純な世界だ。単純な二元論。観客と選手が、そんな素晴らしい空間を毎回生み出している。

 ドイツで働いていた厳冬のその日、私はかなりの酒を飲んでから帰宅した。運悪く、臨時の工事か何かで、最終電車が途中駅までしか行かない、ということがあった。日本であれば代替の臨時バス等が出るのだろうが、ドイツはドイツであり、日本ではない。商店や人家も無い、街灯すらも殆ど無いような郊外の田舎道を5キロ程歩くことになった。酔っていれば何でも出来ると考えるのが酒飲みなので、この距離も歩けないことはないだろうと考えた。が、ものの数十秒で、それがいかに無謀であるかが分かった。他に手段は無い。覚悟を決めるしか無かった。

 その時、一台の乗用車が私の横に停まった。私と同じように帰れなくなった、かなり酔っ払った友人を迎えにきた一台だった。乗せてくれるという。酔っ払いは全て仲間だという。ドイツでは、全ての通りに名前が付いており、道の片側が偶数、反対側が奇数の番地が与えられている。通りの名さえ分かれば、誰でもそこに辿り着くことができる。たまたま私の住所が、彼等の通り道だったということもあるだろう。しかしながら日本で、酩酊した外国人を、誰が自分の車に乗せるだろうか。車中、全員で地元の公共交通の問題点を批判し、調子の上がらない地元のサッカーチームの批判をし、角にある地元の酒場を賞賛しているうちに、私の自宅前に着いた。そして礼を言って、握手をして別れた。その後、彼等に会うことは無かった。

 嫌な世界になっている。こんな時勢において私は、飲んでいるか、いないか、酔っ払っているか、いないか、という彼等の単純な二元論が忘れられない。ドイツを離れてかなりの時間が流れたが、あの車中の数分という時間は、幸福な思い出として私の中に残っている。寒い日にビールを飲むと、あの数分間だけの会話が、また聞こえてくるのだ。

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