強い言葉と弱い言葉

質的な研究を拝読していてよく違和感を感じるのは、質的な掘り下げに集中しているが故に量的調査では必須とされる充分な量のサンプルサイズや偏りのない抽出だとかいう手続きがぶっ飛ばされているにもかかわらず、「明らかになった」といった強い言葉遣いが見られることだ。

量的な研究においても、新規な組み合わせの因果推定には、慎重な調整を重ねてもなお、「かもしれない」という結論にすべきではないか、という議論がある。未知の交絡があるかもしれないからだ。横断分析で有意だったものが介入分析では有意にならないっていうことだってあるわけで。

そもそもわたしたち科学者が読み物を作るのは、文学や新聞記事などもそうであるように、自分を納得させるばかりではなく、他人を説得することが大きな目的の筈だよね。

だったら、強い言葉遣いはむしろマイナスになるんじゃあないかな。綱渡りな議論の上新発見的なこと(=まだ誰も言ったことがないこと)を「明らかになった」なんて言ったら「ほんとかよそれ」ってみんな思うし、そうなったらひとはあなたの文章を粗探しのまなざしでみるようになる。

複雑な世界をたった数ページの読み物にするんだから粗なんて絶対あるし、読み手が敵に回ったらダメなんじゃあないかと思う。

精密にデータをとり、しっかり論を重ねて、分析を積み重ねて、「~である可能性が示唆された」とか「~という仮説を手に入れることができた」とか書かれたら、読み手は「何弱気なこと言ってんのよ、しっかり分析できてんじゃん。読んでて俺も間違いなくそうだと思ったよ」って思うかもしれない。それは、サポーターになってくれたってこと。

複雑な世界を数ページの読み物に書き落とすこと。それはかならず飛躍を伴うものであるし、量的調査であろうが質的調査であろうが、わたしたちはその作業をより謙虚におこなっていくべきなんじゃないかと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?