7月3日、私とRAYのmoment

 俺は絶対に成仏なんかしないからな、そうおもってこれまでやってきた。もちろん、ドッツの話だ。・ちゃんは「都市の幽霊」なのだから、こっちの意志とは無関係に取り憑いてくる。だから、成仏するかどうかは問題になりえないのであって、問題はむしろ、幽霊の影響を被りながら自分が何をやっていけるのか、生み出していけるのかというところにこそあるのだとおもってきた。

 そうはいっても、お前はRAYとどう向き合うのよ、という別の問題はずっとあった。ドッツの運営がサポートする新しいグループ、それがRAYで、ドッツとメンバーは違っているとはいえ、気にならないはずはなかった。それに、内山結愛がいた。RAYが始まるまで会ったことはなかったが、絶対に会いたいとおもった。会いに行った。そこで出会ってしまう。もちろん、月日さんの話だ。

 正直なところ、グループとしてはドッツに勝るものはないとおもっていたし、いまでもその考えが揺らいだことはない。でも、単推しとかいう行為はしたことがなかったし、何か新しい感触を得られるのではないかと漠然と考えていた。その矢先に、下北沢で「始まって」しまう。本当に、自分でも思いがけないことだった。

 月日さんと関わることを通じて考えてきたことは大きく二つある。一つ目は、この世界の割り切れなさについて。人が難なく通りすぎるところでしっかりめに躓き、簡単に問題を割り切ろうとはしない月日さん。その様子を見ているうちに、自分の周りの世界もまた、これまでとは異なる相貌で、簡単には割り切れやしない難しさを携えたものとして、私に現れてくるのだった。

 二つ目は、自分自身のソロ性について。RAYの他のメンバーもそうなのだが、月日さんは自身のソロ性を意識しながら活動をしている。気がつくと私も、私自身のソロ性について強力に意識するようになった。結果として会社を辞め、東京に引っ越し、フリーランスとしてやっていくことになっていた。もちろんこうした変化の土台は明らかにドッツを通じて形成されたものだ。しかし、ドッツのラストワンマン以後の2年間は具体的な行動に打って出なかったこともまた確かなのだ。ドッツから受け取った種をひとまず芽吹かせるところまで持っていく過程に、確かに月日さんの存在があった。

 そして、7月3日。今度のRAYのワンマンは、あまり込み入った演出は見られず、どちらかと言えばストレートなワンマンライブだったとおもう。ライブ中にも色々考えたが、やっぱりこれがよかったのだとおもう。何というか、RAYのライブとの向き合いかたの糸口を掴めた気がするワンマンだった。向き合いかた掴むの遅えよとおもわれるかもしれないが、焦らなくてもいいのだ。簡単に問題を割りきる必要はない。月日さんが身をもって示してくれていることだ。

 そして何よりもこの日のライブは、メンバー四人それぞれの、7月3日をRAYというグループにとってのひとつの分岐点たらしめようとする意志、そして賭けを感じられるものだった。もちろん、出来事の意味というのは事後的かつ遡及的に定まるものだから、あの瞬間の意味を決めるのはこれからの各々の瞬間であり、それゆえにあの瞬間は絶えず反復しながら新たな意味を生み出していくだろう。そこに賭けへの意志がある限り。だから私もこの賭けにこれからも勝手に巻き込まれ続けていよう。そんなことを考えた夜だった。

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