ドッツ9thワンマン「Tokyo in Natural Machine」について(2019.03.09)



 さて、「Tokyo in Natural Machine」について、というわけだが、一体何を書けばいいのだろうか。なんたってヒントが少なすぎる。とりあえずほぼ唯一の手掛かりと言えそうなツイートを貼るところから始める。

 

【3/24日】都市とは何か、アイドルとは何か、人間とは何か、そんな大それたテーマを視野に入れつつ、「・ちゃん」たちがパフォーマンスで物語る|・・・・・・・・・ 第9回ワンマンライブ 「Tokyo in Natural Machine」 https://t.co/z9GMOgBzVw @dotstokyo pic.twitter.com/3G7CJdmsXH

— Peatix イベントソムリエ (@PeatixJP) March 5, 2019
 

「都市とは何か、アイドルとは何か」については別にいい。ドッツはこれまで都市をコンセプトに掲げてきたアイドルであるから。しかし、「人間とは何か」という問いかけは気になる。今までにこんな問いが主題化されたことがあったとは記憶していない。

 ここで改めて、「Tokyo in Natural Machine」というタイトルと今のツイートを踏まえてキーワードを列挙してみる。「自然(Nature)」、「機械(Machine)」、そして「人間とは何か」。こうした「大それたテーマ」というわずかな手掛かりを踏まえて、当日のパフォーマンスとはほぼ無関係になることも恐れず、少しだけ何か書いていきたい。そもそも制限が多い中で、何とか無い知恵を絞ってやってみた結果、たいていスベるけどたまにおもしろいことが起こる、というのが「オタ芸」というものだろう。というわけで以下では、気がはやってもうワンマンが自分の中で始まってしまっているオタクのオタ芸が繰り広げられていくことになる。

 とはいえ。「人間とは何か」というテーマをアイドルと絡めつつ論じていく、などということは私の手に余りまくりであるがゆえに、何かしら手掛かりとなるものが必要不可欠だ。今回は、久保明教『機械カニバリズム――人間なきあとの人類学へ』という本の議論に頼りながら話を進める。

 「機械カニバリズム」とは何か。機械のほうはいいとして、まずカニバリズムとは、辞書的には「人肉食」を意味する。ただ久保が「機械カニバリズム」を論じるとき、そこで踏まえられているのは、ブラジルの人類学者エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロによる、カニバリズム論である。そのカストロの議論を踏まえて久保は、「機械という他者の視点から自己を捉え自己を変化させていく営為」を、「機械カニバリズム」と呼んでいる。そして久保は、この「機械カニバリズム」のうちに、「機械-人間のイマージュ」と「生きている機械のイマージュ」という両極を見出す。前者は、デカルトの「動物=機械説」に端を発する、機械と人間との関係にかんする近代的な考え方であり、逆に後者は、そうした近代的な見方が通用しない事例が数多く見受けられるようになった現代において探究されるべき「人間なきあとの人類学」がもたらす、機械と人間との関係にかんする考え方である。

 まずは「機械-人間のイマージュ」について、その概要を確認しておく。先ほど述べておいたように、この第一の「機械カニバリズム」の発端は、17世紀の哲学者ルネ・デカルトの議論にある。久保はジョルジュ・カンギレムの議論を参照しながら、デカルトの「動物=機械説は、機械の二重性を自然の事物に重ねあわせることで構成される」と述べる。どういうことか。まず「機械の二重性」とは、機械が人間の関与なしに自律的に動いているように見える一方で、機械の背後にはやはり、その動力や目的などを機械に与える人間が存在しているという事態を指す。これが自然界に重ね合わせられる。するとそこでは、機械の二重性における人間に相当するのは神であり、こうした神が導入されることによって、動物や人間の身体といった自然物は、自然法則に従うだけの機械として把握されるようになる。さらに今度は、こうした機械としての自然物と比較されることによって、人間の精神は「自然界から抜け出し、「自然の主人にして所有者」としての地位を獲得する」。こうして人間は、身体と精神とに分割されることになる(デカルトによる有名な「心身二元論」)。

 以上のような「機械-人間のイマージュ」を踏まえて、久保は近年の人工知能にかんする言説の分析などを行っていて非常に面白いのだが、本題から外れてしまうので気になる人はぜひ実際に『機械カニバリズム』を読んでほしい。ともあれここからは、もう一つの「生きている機械のイマージュ」の話へと移る前に、いったんアイドルと「機械カニバリズム」論との接点を見出す作業を挟んでおきたい。キーワードは、「操り人形」と「心身二元論」だ。

 「アイドルは大人たちの操り人形(すなわち機械)に過ぎない」といった話法は、かなり使い古されたものだろう。未だにアイドルに対するステレオタイプ的な批判において用いられることがあるが、まさかアイドルオタクでありながらこうした言葉に心から同意する人は少ないだろう(操り人形性を楽しむみたいな態度はありうるにせよ)。とはいえ、議論の対象をアイドルとオタクだけでなく運営にまで広げてみたとき、「アイドルは大人たちの操り人形に過ぎない」と多くのアイドルオタクが考えずに済んでいるのかどうか、途端に怪しくなってくる。

 アイドルオタクの中には、アイドル運営の批判をする人がいる。こうした態度についてどう考えるべきか。そもそもたかだか一人のオタクに過ぎないにも関わらず、運営批判をするとはおこがましい、だいたい趣味なんだから肩肘張らずに楽しんで、気に入らなければ黙って去ればいいだろう、といった見方が割と多いことは承知している。しかしここではもう少し別の観点から考えてみたい。

 これはついさっき思いついたのだが、運営をやたらと批判している人たちって、暗黙の裡にデカルトの心身二元論的なものをアイドルと運営との間に投影しているのではなかろうか。すなわち、一方にはアイドルに優越し実際に物事を考えている精神としての運営がいて、他方にはそうした精神に制御されるがままの身体=機械=操り人形としてのアイドルがいる、というように。だからそのときオタクは、「アイドルは大人たちの操り人形に過ぎない」という命題を受け入れてしまっている。

 いや、話を一般化しすぎたかもしれない。そもそも今こんな話をしているのは、やはりドッツのことが念頭にあったからなのだ。ドッツの運営はこれまで割と多めに批判されてきた。そしてその批判にはたいてい、運営の精神を体現するものとしてのコンセプトがかかわっていた。そしてそこにはいつも、メンバーである・ちゃんたちがないがしろにされているのではないかという不安が含まれていたようにおもえる。

 例えば一昨年の12月、「Tokyo in Words and Letters」と題された定期公演が開催され、その月にはドッツのコンセプト担当による文章がいくつか公開された。そのとき一部では、そうした文章が長すぎるだとかわかりにくいだとかいった批判が運営に対してなされていた。たかだか1万字とか2万字とかで長すぎるとか笑わせんなよとか思わないでもなかったし(これはそう思う私が悪い)、明らかな誤読による批判とかもあってやるせなかったりもした(とはいえ誤読は「誤配」につきものなのでしょうがないか)。しかしそれ以上に今改めて振り返ってみて気になるのは、そうした一部の人を、私から見れば行き過ぎに見えてしまう批判へと駆り立てていたものは何なのか、ということだった。そしてこうした批判の根本的な原因こそ、メンバーである・ちゃんたちがないがしろにされているのではないかという不安であり、つまりそこでは、従(身体)であるアイドルに対する主(精神)としての運営が、自らの精神=コンセプトを語ることそのものが忌避されていたのではないか。

 もちろんこうしたコンセプト語りが忌避されるのは、運営あるいはコンセプトがますます主としての立場を強めることで、ますますアイドルは従の立場に陥ると考えられているからだろう。しかしなんでコンセプトを強調することが、・ちゃんたちをないがしろにすることをすぐさま意味するんだ。要するここでは、先ほどから述べているようなデカルトの心身二元論が前提されている、つまりアイドルは、運営に従属するだけの存在とあらかじめ見なされている。何と失礼な前提であることか。しかもこうした批判は、自分の推しのことを第一に考えた結果なされるのである。もちろんこうした推しに対する思いに偽りはないだろう。にもかかわらず結果としては、「アイドルは大人たちの操り人形に過ぎない」という命題を、(たぶん知らないうちに)受け入れてしまっている。こんなに悲しいことはないはずだし、だからこそ今やもう一つの「機械カニバリズム」、すなわち「生きている機械のイマージュ」のほうへと考え方を転換させる必要がある。

 「生きている機械のイマージュ」とは何か。それは、「内在的な比較を通じて、機械の視点から自らを捉える機械のカニバリズム」だと久保は述べる。こうした内在的な比較においては、「人間は比較の主体でありながら比較の対象でもある」。比較対象である機械を、その高みから外在的に比較する主体としての人間はもはやここでは成り立たない。そうではなく、こうした比較においては、比較によって比較の対象と比較を行う主体とが同時に構成されていく。だから今や、人間と機械とを類比的に捉えようとする見方を徹底させるべきなのだ。つまり、規則に則り整然と動く機械とそうした機械ではないものとしての人間、という捉え方ではなくて、人間と機械は共にバグや機能不全を含んでいるがゆえにそれらを区別することはできない、というように捉えること((なお、なぜ人間のみならず機械も必ずバグや機能不全を含んでいるのか、ということについての詳細は、『機械カニバリズム』の191-199頁を参照。))。こうすることで、ある現象を人間と機械(非人間)のどちらかに還元して説明するのではなく、むしろそれらが結びついて互いに変化していくという相互作用によって規定されたものとみなすことが可能になる((ちなみに久保が述べているように、現象を人間のみに還元して説明するのがいわゆる「文系」の学問であり、逆に非人間のみに還元して説明するのが、「理系」の学問である。))。

 さてすでに述べたように、「アイドルは大人たちの操り人形(すなわち機械)に過ぎない」という話法が存在している。これはふつう否定的な意味で言われるが、「生きている機械のイマージュ」の議論に触れた今では、これを「アイドルとは生まれながらの機械(natural machine)である」という形で引き受けなおすことができる。なぜならもはや人間も機械=アイドルも、自らのうちにバグや機能不全を含むがゆえに、区別されえないのだから。そしてこうしたバグや機能不全をきっかけに、人間と機械との間で新たな実践の構造が生まれ、両者は変化を遂げていく。久保はこのことの例として、人間と「アイボ」というロボットとのやり取りを挙げていた。しかしここでは、多少乱暴ではあるがやはりアイドル運営やオタクといった人間とアイドルという機械とのあいだの相互作用を考えておきたい。

 運営とアイドル、あるいはオタクとアイドル、これらのあいだでなされる実践のなかで、バグや機能不全が生じることは不可避だし、日常茶飯事だろう。運営の目論見はいつも成功するわけではない。アイドルは時としてステージ上で歌詞や振り付けを間違える。オタクが推しの目を引くためにとった行動が、ただただスベるときもある。でもそうしたなかから広い意味での「アイドル現場」というものは立ち上がってくるはずだし、その楽しさやおもしろさの原因を、アイドル、運営、オタクのどれか一つだけに還元することはできない。できるはずがない。むしろその魅力は、これら三者が互いに互いを変化させていく中で生じていっている。このことは、言葉にせずともアイドルオタクたちが日頃体感していることなのではないだろうか。

 というわけで、結論。「アイドルとは生まれながらの機械である」。3月24日、ドッツ9thワンマン「Tokyo in Natural Machine」。この日、アイドルはもともと、生まれながらに機械であったこと、翻って、その機械に相対する人間もまた、機械と区別されえないということ、こうしたことが堂々と肯定されるだろう。こうした肯定がなされた後でこそ、新たなゆめははじまる。

 

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