ドッチャー・コンセプト派宣言(2018.09.10)

 ドッチャー((ドッツのファンの総称。以前は観測員という呼称が使われることが多かったが、最近はこの言葉が持つ何とも言えないユルさやダサさのおかげか、これが用いられることが多くなっている。この記事も流行りに乗っかって、この呼称を採用してみた。))たるものコンセプト派でなければならぬ、などと言うつもりは毛頭ないしそんな資格もない。だいたい自分自身を省みてみれば、一か月に一回の更新を目標にしていたこのブログも、この半年ほどのあいだは更新が止まっている。とはいえ…。ここのところ「・・・・・・・・・」(以下、「ドッツ」と表記)のコンセプトが(いい意味で)話題になることはあまりなかった、あるいは以前よりも少なくなった、このことは否定できない事実であるようにおもえる。このままではドッツ運営のコンセプト担当である古村さんは、独特の抑揚で、しかも無駄にいい声で、物販のときに・ちゃんのニックネームを元気よく呼んでいる、ただの眼鏡の兄ちゃんだとおもわれてしまうかもしれない…((聞いた話によれば最近は現場に姿を現すことも少ないらしい。古村さん、元気にしてますか。))。

 そんなわけで(?)いまこの文章を書いている。大きく分けてふたつのことを書いていくが、以下ではまず、ドッツにとってコンセプトはどういうものなのか、このことを私なりに整理することから始めてみたい。コンセプトの中身の話ではない。自分としては、ドッツのコンセプトをこんな風に位置付けた上で楽しんでるよ、という話をしてみたい。もちろんこれが正解とかいう話でないことは言うまでもないが、同じような仲間が増えるといいなぁとはおもっているので、誰かの参考になることがあればとてもうれしくなる。

 そもそもの話になるが、こんなふうにしてアイドルのコンセプトについて長々と文章を書く、ということ自体まあまあ珍しい気がする。もちろんアイドル運営が全く意図しないようなかたちで、批評的な文章が書かれる、あるいは学術研究の対象となるということは、とても多いとは言えないにせよ、これまでにもあった。しかしドッツの場合は、日本の批評の文脈を十分に踏まえているとしかおもえないコンセプトが存在している。通常アイドルのコンセプトといえば、それはキャッチコピーに等しいもので、それ以上の含みがあるようなものではない。他方でドッツにおいては、メンバーたちの一見すると奇妙な姿や名前、あるいはただ奇をてらっているだけとしか思えないような演出の背後に、必ずコンセプトが控えている。

 ただし注意しなければならない。以上のような話を聞かされると、まず初めに堅固なコンセプトの体系があって、そこからドッツにまつわるすべてのことが自動的に演繹されてくるといった、硬直的なイメージを抱かれるかもしれないが、それは完全に間違いではないにせよ、ドッツのコンセプトのある重要な側面を取り逃がしている可能性が高い。むしろこう考えるべきだ。まずかなりの程度偶然に左右された様々な出来事が起きる。その後でコンセプトを参照することで遡及的に、事後的に、その偶然は必然であり運命であったことになる。そのように解釈される。もちろんこの過程でコンセプトが改変されたり、新たな内容が付加されたりといったことも生じうるだろう。

 以上のことを踏まえたとき、ドッチャーはコンセプトとどのように付き合うことができるだろうか。まず何よりも強調しておきたいのは、コンセプトにかんして正解などない、ということだ((ただし強度の違いとでも言えるものはあるだろう。どれもが間違いとは言えないからこそ、むしろ各々の解釈の面白さや説得力こそが重要になってくる。))。例えばコンセプト担当が考えもしなかった文脈との接続を、ドッチャーたちは勝手にやればいいし、またあるいは、コンセプト担当以上にコンセプト担当らしく考える、などということも可能だろう。そしてそのための場も、材料も、ここでは用意されている。ここでは誰もがコンセプト派にもなりうる。古村さんもすでにこんなふうに書いていた。

 

僕たち(この「たち」にはもちろん、運営だけではなくアイドル自身やファン、外部の人間も含まれます)はもっと話法を自由にしていいんだと思います。「界隈の良さを広げるためには分かりやすい解説が必要」という常識的な思考は一旦措いておきましょう。分かりにくかろうが断片的だろうが、感覚的だろうが理屈っぽくあろうが、「つまりはこういうことじゃない?」とか、「◯◯はこの文脈でここに位置付けられるので、△△が欠けてはいるものの□□を一歩前に進めたと言える」とか、「かわいい」と同じくらい発していい言葉なんです。何のエクスキューズもなく。適当に。自由に。的外れに。荒唐無稽な発想を。あり得ない文脈の接続を。偽史を。断片を。分かりにくい長文を。僕もそう文章を書いていきたい。好きな話法と文体で、構造化されないやり方で、記事間の関係を追えないようなやり方で文章を書いていきたいと思っています。そういうやり方で仮構される像で十分では?と思えてきました。(「・・・・・・・・・はアイドルの枠をいかにして「超えない」のか」) 

 

以上の引用箇所には、私自身たびたび励まされてきた。もっと好き放題やっていい。目の前にはそのための場所も材料も、十分に用意されている。Twitterでも、ブログでも、短くても、長くても、とにかく何か書いてみる。するとそれはほかの人の新たな思考を促し、思考の連鎖を生み出すだろう。「意志は言葉を変え、言葉は都市を変えていく」。都市はだれのものでもない。みんなのものだ。だからそのコンセプトだってみんなのものだ。コンセプト担当だけのものではない。彼が何も書かなくても、他の誰かが書けばいい。コンセプトをもっともっと自分たちのものにしていこう。

 以上で書きたかったことの一つ目は大体書き切った。正直一番伝えたかったことは書けたのでまあまあ満足なのだが、これだけ他人を扇動しておいて自分は結局何も書かないというのもちょっとどうかとおもう。というわけで二つ目として、本当に久しぶりにコンセプトの内容にかんして、少し書いていきたい。MIXを打つかのようにコンセプトで遊ぶという「オタ芸」としてのブログ芸。その一つの実例として読んでいただけるとありがたい。内容としては、科学人類学の議論とドッツのコンセプトとを重ね合わせてみる、というものになるはずだ。科学人類学とアイドルのコンセプトをつなげてしまうのはあまりにも強引だととおもわれるかもしれないが、意外にもアイドルとの関連がいくつかの点で浮かび上がってくる。このことを示すには意外と手間がかかる。以下で順を追って説明していきたい。

 以前からドッツのコンセプトは、フランスの人類学者ブリュノ・ラトゥールのアクターネットワーク理論と親和性が高い、と漠然と考えていた。このアクターネットワーク理論というのは、ざっくりいうと人間と非人間(モノ)とを同等のアクターと考え、それらの相互作用から事象を説明する、というものだ。これを踏まえて次の図を見てもらいたい。

この図は、ドッツのコンセプトを説明する際にしばしば用いられてきた。そしてこの図の中には、人間と非人間のアクターが書き込まれており、これらの相互作用によってドッツという都市で観測される事象を説明することができるだろう。

 ただし以上のように述べただけでは、ドッツのコンセプトにアクターネットワーク理論を当てはめてみたということに過ぎない。それはそれで面白いかもしれないが、先ほど述べておいたアイドルとのつながりはどうなったのか。実は思いがけず、ラトゥールの議論とアイドルとはこれから述べていく二つの仕方で関わってくる。順に確認していきたい。

 まず一つ目の関わりであるが、これを見てとるにはアクターネットワーク理論についてもう少し詳しく言及しておく必要があるだろう。まずラトゥールによれば、近代を特徴づけるのは客観的世界としての自然と人間理性が作り上げる社会との区別・分離である。これはデカルト的な身体と精神の二元論に対応している。そしてこうした二元論は実験法の登場と普及によって確立されたのだという。どういうことだろうか。

 ラトゥールは、実験によってモノに語らせるというあり方を、「政治的代理制」に対して「モノの代理性」と呼ぶ。つまり、外界から隔絶された実験場という理想的な環境を作って人間の主観を最大限排除することで、そこから得られる知識は、いわば事物の方からやってくることになる、というわけだ。以上のようにして、実験法の登場と普及によって二元論が形成されていく様を、ラトゥールは描き出している。

 しかしながらこうした二元論は実際の科学実践に即したものであるのか。もちろんそうではない、とラトゥールは言っている。少し考えてみればわかるが、科学は当然社会との関わり抜きにはありえない。科学者が純粋に客観的な自然に向き合う、などということはありえないのだ。社会と自然は分離されるどころか、絶えず繋がりあっているのであり、ラトゥールが「ハイブリッド(混合物)」と呼ぶものが生み出され続けている。にもかかわらずそれらハイブリッドは無視され、あくまで自然と社会は分離されているという建前が維持されてきた。以上のようなごまかしが近代の図式の裏には潜んでいるのであり、私たちは近代人だとか近代は終わっただとかいろいろなことを言っているが、ラトゥールに言わせればそもそも「私たちが近代人であったことは一度もない(Nous n'avais jamais été modernes)」((この「私たちが近代人であったことは一度もない(Nous n'avais jamais été modernes)」というのは、邦題が『虚構の「近代」 科学人類学は警告する』となっているラトゥールの著作の原題である。))のだ。

 さて、以上のような議論において、アイドルとの関連を指摘できるのは、実験法にかんしてだろう。実験においては、そこで得られた観察結果(経験)から出発し、それらのうちに法則性を見出すという帰納法が用いられる。こうした考え方を提唱した人物として、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンの名前がよく挙げられる。そして彼は、実験や観察においてつきまとう人間の主観的な偏見・誤解を、四つのイドラとして定式化した。すなわち、種族のイドラ、洞窟のイドラ、劇場のイドラ、市場のイドラの四つである。これらそれぞれがどのようなものなのかといったことに、ここでは立ち入らない。むしろ注目するべきであるのは、こうしたイドラが、自然と社会の分離という近代的な枠組みが登場してくる過程で、真理に到達するために排除されるべきものであるとされたこと、そしてこのイドラ(idola)という言葉は、アイドル(idol)という言葉の語源であること、以上二点である。

 あまり精密な物言いができる段階に達していないのだが、以上のことからさしあたりの帰結を引き出しておく。現代において、男女を問わずアイドルというジャンル・文化への偏見や拒否感はなお根強い。今現在アイドルに親しんでいる人であっても、最初アイドルになじみ始めたころに、自分の中で様々な葛藤を抱いたという人も少なくないだろう(私もかつてはそうだった)。またアイドルになじみ切ってからは、アイドルに対して投げかけられるあまりにもその内実を無視した心無い言葉や偏見に、怒りや諦めを覚えたことがある人もまた、少なくないとおもう。こうした無理解・拒否感・偏見を、そうした言葉を吐く個々人の見識の無さや不寛容さに帰すことも可能だろうが、それ以上に近代的な枠組みに由来するもっと根深い問題であるのではないか。アイドルとはまさに、近代から排除されながら絶えず回帰する幽霊であり、それゆえにアイドルやアイドルを愛好している者たちは、自分が近代的で自立した主体であると思い込んでいたい者たちに対して、「不気味なもの」として立ち現れてくるのではないだろうか((ベーコンが論じたイドラがアイドルの語源であるからといって、現在私たちが用いている意味でのアイドルという言葉とは意味が違うのだし、それをつなげることには無理があるのではないかとおもわれる方もおられよう。もちろんその通りである。そもそも現代においてもアイドルという言葉の使われ方は多様で混乱している。このことは、香月孝史『「アイドル」の読み方――混乱する「語り」を問う』(青弓社、2014年)においてすでに指摘されている。こうしたことを踏まえた上でなお、少なくとも私自身としてはある程度おもしろい帰結を引き出すことができると考えているがゆえに、多少強引な接続を試みてみた。))。

 以上のことは、アイドルと対比される(だけでなくその上位に置かれる)ことの多いアーティストという言葉のことを考えてみれば、より理解しやすいのではないだろうか。そもそも歌手をアーティストと呼ぶことは90年代に端を発するとされているが、この言葉はただ単に歌手すべてを指しているわけでなく(そうであればアイドルとアーティストを対比させる必要もない)、①作詞や作曲にすべてではなくとも参加しており、②そうしてできた楽曲を通じて何らかのメッセージを伝える、といった歌手を特に指しているようにおもわれる。これはまさに自立しており(①)、内なる情念を活動を通じて表現する(②)といったいかにも近代的な発想の下にある主体像だろう。それゆえ、アイドル/アーティストというおなじみの問題を、ベーコンのイドラにまでさかのぼることで得られた大きな視点から考えることも、あながち突飛なことではないのかもしれない。

 ラトゥールとアイドルの関わりの二点目のほうに移る。一つ目は言ってみれば間接的な関わりであったが、こちらはもうすこしわかりやすい関連がある。ラトゥールは、「近代の〈物神事実〉崇拝について」という文章を書いている。「物神事実(faitiche)」というのは、「事実(fait)」と「物神(fétiche)」をくっつけてできたラトゥールによる造語であり、この論文で彼は、物神について論じている。で、この物神とはつまるところ偶像(idol)のことであり、この文章はラトゥールによるアイドル論であると言える。ではそこでラトゥールはどのようなことを主張しているのか。以下でごく簡単に確認しておきたい。

 近代人は、物神(=偶像)崇拝者たちが「魔力を持つ対象」を信仰しているとして批判し、それに対して自分たちは「事実としての対象」を持っていると主張する(反物神崇拝)。しかし議論の詳細は省くがラトゥールは、事実としての対象も結局は物神という魔力を持つ対象と同じように機能していると主張する。どちらも、様々なアクターの相互関係によってその存在が可能になっているのだ。少し引用しておく。

 

なぜ物神崇拝も反物神崇拝も存在しないと全く率直に認め、我々の生活に密接に係わっているあの奇妙な効力、あの「行為の移動者」〔=アクター〕の効力を認めようとしないのか。(ブリュノ・ラトゥール『近代の〈物神事実〉崇拝について――ならびに「聖像衝突」』、38頁。〔 〕内筆者。)  

 

 以上のようなラトゥールの議論を、もっと正確に説明しようとするとどんどん長くなりそうなので、一旦これでよいということにしておく。アイドルとの関連で興味深いのは、やはり何といっても反物神崇拝を主張する近代人の態度だろう。これは現代のアイドルに拒否感を示す人々の態度、つまりアイドルを応援する人々は、まさに魔力を持った実体のない対象を信仰しているのであり、それに対して自分たちは実力(歌唱力や曲を作る能力など)という事実に裏付けられたアーティストならば応援できる、という態度そのものにおもえてしまう。しかしラトゥールが主張していたように、自立した個人などというものは実態に即しておらず、むしろ人やモノという様々なアクター同士の相互作用こそが、個々の存在を可能にしている。

 以上のような回り道を経て、ドッツのコンセプトという当初の話題に戻ってきたとき、それについて何か付け加えて言えることは何だろうか。従来アイドルに対しては、アーティストに典型的な近代的な主体を想定した存在論が当てはめられることが多かった。それに対しては、少なからぬ人が何らかの違和感を抱いてきてはいたものの、それに代わる存在論が提示されたことはなかったように私にはおもえる。ところで、初めの方で確認しておいたように、ドッツのコンセプトはアクターネットワーク理論と似ている。そしてラトゥールはアクターネットワーク理論によって、近代的な存在論(自然と社会の分離、主体と客観の二元論)とは別のより動的で柔軟な存在論を描き出そうとしているように見受けられる。とすれば、次のように言ってみたくなる。すなわち、ドッツのコンセプトは、ラトゥールの試みと並行して、近代的発想では捉えることのできないアイドル独自の存在論を描き出しているのではないか。そしてそのようにして現代のアイドルがどのような仕方で存在しているのかという実態を初めて言語化したという意味において、ドッツのコンセプトそのものがすでにしてアイドル批評と言えるのではないか。だからドッツのコンセプトは、ある意味では(その一見すると突拍子もないことを言っているという印象に反して)実にアイドル的なのであるとここでは主張しておきい。

 

 

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