「この私」に常に取り憑くアイドル――・ちゃん、幽霊、量子力学(2018.01.01)
「会いに行けるアイドル」から「常に纏えるアイドル」へ。あるいはさらに、「この私」に常に取り憑くアイドルへ…。・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)のコンセプトに忠実に、もしかしたらドッツ以上にそのコンセプトに忠実に、その参照点である東浩紀の議論を参照しつつ、「この私」に取り憑いている幽霊としての・ちゃんのありさまを描いてみたい。以下で断片的な形ではあれ試みられるであろうことにかんして、さしあたりこのような表現を与えることができるでしょう。しかしここから一体何が得られるのでしょうか。
一つ目。これがメインですが、・ちゃんを「この私」に常に取り憑く幽霊として捉えることで、よりその存在感(存在ではない!幽霊なので)を感じることができるようになるのではないか、ということです。現在、「常に纏えるアイドル」というコンセプトがあったうえで、そのコンセプトを実装化するためのテクノロジー(HeartSync、都市の幽霊観測装置など)の導入が進められています。ただ、常に纏えるという状態を実感できるような段階に至っているとは言えないでしょう。このような知覚を介してコンセプトを実感するという位相からズレて、もう少し抽象的なレベルで、身に纏おうとする以前にそもそも絶えず「この私」に取り憑いているような幽霊として、・ちゃんを考えてみたいのです。
こうした議論の過程で、・ちゃんは誰でもありうるにもかかわらず、いやだからこそ、余人をもって代えがたい存在であると感じることができる、という逆説的な構造もまた露わになってきます。さらにこれと同時に、・ちゃんはなぜ「観測」されると言われるのかについても、一つの見通しを示しておきます。そしてここでもまた、東の議論からの強い影響を見て取ることができるでしょう。これらが以下の議論から得られるはずのことの二つ目になります。
いずれにせよ、幽霊としての・ちゃんを考えるにあたっては、幽霊という言葉の意味合いを、とりわけ東が用いる限りでのその意味を、まずは確認しておく必要があります。そのために参照されるべきは、『存在論的、郵便的』という東の著作です。これはジャック・デリダというフランスの哲学者について論じたものであり、幽霊という言葉ももとはデリダによって用いられています。そして東は、デリダの幽霊論を扱うにあたって、バートランド・ラッセル、ソール・クリプキ、柄谷行人らによる固有名にかんする議論と共に論じています。というわけで以下ではまず、幽霊についての議論を確認していくための準備として、東による固有名の議論について、整理を行うことにしましょう((以下の内容はあくまで東の議論を再構成したものです。そこでのラッセルやクリプキにかんする東の理解が正しいのかといったことは、ここでは問題になりません。))。
固有名とは何なのか。ラッセルによれば、それは縮約された確定記述の束だ、ということになります。これに対して、クリプキおよび柄谷は、固有名はそうした確定記述には還元されえないものだ、固有名には剰余があるのだ、と応じます。
もう少し具体的に説明してみます。試しにドッツの公式サイトを開いてみましょう。九つの点が、画面上を浮遊しています。一つだけ適当に押してみます。「橋本環奈ちゃん」とか「AB」といった言葉が飛び出してきました。これらは特定の質問に対する答えのはずなので、「橋本環奈ちゃんが好き」とか「血液型はAB型」みたいに書き換えることができます。こうしたある個人の性質にかんする記述を、確定記述と呼びます。ラッセルは、こうした記述を集めれば、それがすなわち「・ちゃん」という固有名に等しいと考えるわけです。でもそれってどうなの…って直感的に思わないでしょうか。いくらその・ちゃんについての記述をかき集めてみたところで、・ちゃんという固有名で名指されるあの女の子のすべてを言いつくすことができるなどと考えることには、どうしてもためらいを感じないでしょうか。そんな記述を超えた何か(=剰余)があの子にはあるはず。クリプキと柄谷もそのように主張し、柄谷はその剰余を「単独性」と呼びました。
これで固有名の剰余についてはあらかた理解できるのではないかとおもいますが、どのようにしてクリプキ/柄谷がラッセルの主張を退けるのかについても触れておきます。なぜ固有名は確定記述の束に還元できないのか。それは、ある固有名についての一つの確定記述にかんして、常にその反実仮想(~でなかったかもしれない)を考えることができるからです。例えば、「アリストテレスはアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」と語ることができますが、もしアリストテレスを「アレクサンダー大王を教えた男」によって定義していれば、「アレクサンダー大王を教えた男はアレクサンダー大王を教えなかったかもしれない」となり、矛盾が生じます。こうした矛盾は、ほかの確定記述にかんしても同様に生じうる。ゆえに、固有名は確定記述の束には還元しえない、となるのです。つまり、固有名には訂正可能性が絶えず付き纏っているのです。
ここまで確認してきたことを踏まえれば、まず固有名の剰余(固有名は確定記述の束とは無関係であり、ただ個体を個体として指示するのみ)があって、その次に固有名の訂正可能性がある、というように理解できるかもしれません。しかし、そうではない。むしろ反対なのです。東は絶えず取り憑くこの訂正可能性を幽霊と呼びますが、まさにまず初めに幽霊がいるのであって、そのあとこうした幽霊を見ないようにすることで固有名の剰余が生じているのです。引用しておきます。
固有名の訂正可能性、つまり「幽霊」たちは経路の脆弱さから生まれる。その経路を抹消して主体の前にある(=現前の)固有名から思考するときにこそ、ひとは固有名の剰余、単独性を見出す。すなわち単独性は幽霊たちを転倒することで仮構される。((東浩紀『存在論的、郵便的ーージャック・デリダについて』新潮社、1998年、128頁。))
ここで言われている「経路の脆弱さ」とは、固有名が伝達されていく過程で、それにかんする確定記述のいくつかが齟齬をきたすようになったり、そもそもある確定記述が行方不明になったりする、ということを指し示しています。こうしたコミュニケーションの失敗があるからこそ常に訂正可能性という幽霊が存在しているのであり、こうした幽霊がさまよう空間を、東は「郵便空間」と呼んでいます。
とにかくポイントは、「幽霊=訂正可能性⇒固有名の剰余」という順番です。東は別の著書で次のようにも述べています。
固有名とは、名前が社会のなかで伝達され、さまざまな「誤配」や「誤解」に曝され、いく度も訂正されることではじめて生まれるものである。((東浩紀・大澤真幸『自由を考えるーー9・11以降の現代思想』2003年、NHK出版、190頁。強調は引用者。))
しかし東はここで同時に、訂正を生むことになる「誤配」の可能性が、情報技術の発達によって減っていることを指摘しています。そしてそこから、情報技術の支援を受けることで、特定の個人についての確定記述がどんどん蓄積されていって、もはやそれらデータの集合に固有名は尽きる、ということになってしまうのではないかという疑いも生じてきます。つまり、固有名の訂正可能性というものは、単にコミュニケーションの複雑さに技術が追い付いていなかったことから生じていただけだけなのしれない、といった疑いです。
こうした現状認識のもとで東は、「誤配を引き起こす」ために必要なものとして、「匿名性」を挙げています。匿名性を確保することで、誤配を、固有名の訂正可能性を担保し、固有名に宿る剰余という感覚を生じさせること。ますます自分についての確定記述が蓄積されていくなかで(Twitterがそのいい例です)、「この私」の感覚を生じさせること。これが匿名性の効果であり、・ちゃんにおいてはまさにこの匿名性が確保されているといえます((ただし・ちゃんが匿名的であるということは、一人あたり10万人の東京の女の子の名前が、個性が重なりあった存在であることから帰結するものであることは確認しておかなければなりません。))。
以上のような意味で、・ちゃんは匿名的な存在です。・ちゃんという名前では各メンバーを区別できないので誤配が生じやすくなります。例えば・ちゃんのツイートは、その内容や文体からどの・ちゃんのものであるかを予測することはできますが、直接・ちゃんに確認でもしない限り、最終的にどの・ちゃんのものであるかを確定させることはできません。とうぜん誤解が、誤配が生じやすくなっています。
ここまで確認してきたように、まず今とは別様であったかもしれない可能性、および今とは別様になりうる可能性(以上をまとめて訂正可能性と呼びました)、これらが固有名に付き纏うようにして存在しており、次にこうした可能性=幽霊を無視して、今目の前にある固有名のほうから考えることによって、固有名の剰余という感覚は生じるのでした。だからこそ訂正可能性つまりは誤配の可能性が減るということは、固有名の感覚を生じさせにくくする。これが東の固有名の議論です。そして・ちゃんはその匿名性によって誤配可能性を確保しています。それゆえにそれら別様でありえた/ありうる可能性のほうから、それを否定して、まさに「他(=別の可能性)ならぬこの私」としての・ちゃんの固有性を感じることができる。おそらくこのように言うことができるとおもうのです。
そしてここを踏まえれば、次のようなドッツ運営の発言を読む際に、それが意味するところの厚みがが増してくるのではないでしょうか。引用します。
コンセプト・レベルで、人よりも場や都市の力を称揚したい思いはあります。実はメンバーの数がよくわからなくなる仕組みも考えたりしているんです。一方で、これは明言したいんですけど、この子たちがいいと思って採用しているので、いまのメンバーじゃなきゃダメなんです。
こうした発言にも今まで書いてきたような背景があると考えれば、ただの詭弁だと受け取るのは以前より難しくなるかもしれません。
とはいえ、ここまでの話は話の半分です。まだ・ちゃんと彼女たちを応援する「この私」との関係の話が残っています。しかしその前にまず、「観測」という言葉が意味するところについて確認しておきましょう。確認しているうちにだんだん本題に向かっていきます。
まず初めに確認しておきたいのは、「観測」という言葉が量子力学を意識して使われている、ということです。少し説明してみます。量子力学によれば、ミクロの世界において物質の状態は「重ね合わせ」として理解されます。例えばある電子はAあるいはBという場所にある確率がそれぞれ50パーセントずつであり、この電子は、それがAにあるのとも、Bにあるのとも違った、重ね合わせの状態として理解されるのです。そして、その電子が観測されると、状態の収縮が生じ、AかBいずれかの場所において観測されることになるのです。
こうした重ね合わせの状態、これは・ちゃん一人あたりに10万人の女の子が重ねあわされていながら、・ちゃんはしかしそれら10万人の女の子の誰とも違う者として、あるいはそうした東京の女の子たちを出現されるエネルギー=都市としてとらえることができるというような事情と重大な関連を持っているはずです。そして、そうした抽象的な・ちゃんが観測されてまさに点に収縮することで、私たちは実際にある特定の女の子としての・ちゃんと話したりすることができるようになる、ということです((これを踏まえて、ドッツの1stシングル「CD」を次のように解釈することができます。このCDには「Tokyo」という曲だけが収録されています。まずは短めのノイズから始まり、次いで「普通の」楽曲が3曲あり、それら楽曲の間はまたノイズでつながれています。3曲目の後はおよそ50分にわたってノイズが続きます。この曲において、「普通の」楽曲が流れている部分は、都市の力がアイドル=具体的な女の子としての・ちゃんとして観測されていることを表しています。そしてそのほかのノイズの部分は、まさに都市にあふれているノイズのように、どこにでも存在する抽象的なもの、都市の力=エネルギーを表しています。このような意味で、「Tokyo」という楽曲はまさに都市そのものなのです。))。
しかし、以上の説明で説明されてていないことがあります。それは、なぜ状態の収縮が生じるのか、ということです。この収縮を説明するものとして、量子力学には「多世界解釈」という解釈があります。これによると、電子が観測されるとき、それがAにおいて観測された世界と、Bにおいて観測された世界とに枝分かれしている、ということになります。当然それら2つの世界にいる私もまた、まったく別の私であるということになります。何かを観測することは、文字通り私を、世界を、一変させるということになるのです。もちろんこの解釈は一つの考え方であり、これが正しいと実証されているわけでもありません。ただ、この解釈から・ちゃんとそれを観測する「この私」との関係についてのイメージを得ることはできるとおもいます。
ここからようやく・ちゃんと「この私」との関係についての話に進んでいく前に、幽霊としての・ちゃんと量子力学を連想させたきっかけを書いておきます。それはやはり東の議論です。東は、幽霊が徘徊している空間、つまり誤配が生じる郵便空間にかんして「確率的」という言葉をしばしば使います。これはある程度量子力学を念頭においているようにおもえます。また、『存在論的、郵便的』の後に東は、『クォンタムファミリーズ』(=量子家族)という小説を書くのですが、この小説が雑誌で連載されていた時のタイトルが「ファントム、クォンタム」(=幽霊、量子)であり、量子力学が描き出す世界と幽霊とが重ね合わせて考えられていることは明らかです。
さて、以上の確認をしておいたところで、いよいよ本題に入ります。・ちゃんと「この私」との関係について。どんなアイドルにも当てはまることですが、アイドルを好きになるとそのアイドルへの憧れが生じます。つまり同一化の対象となるのです(だから振りコピしたくなる)。アイドルへの同一化を望むとき、何が起きているのか。それは、今の自分とは別様でありえた可能性、そして今の自分とは別様でありうる可能性、こうした可能性を、夢見ているのではないでしょうか。
あの時別の選択をしていたら今とは全然別なようになっていたのではないか…。これからは今とは全然違うようにやっていけないだろうか…。たぶん私たちは頻繁にこういった夢想を抱いてしまっているし、それゆえに過去と未来の別の可能性という幽霊に常に取り憑かれていると言えるでしょう。そして幽霊であり、一人でとてもたくさんの人を象徴している・ちゃんは、まさにそうしたたくさんの可能性を体現しています。だから憧れます(もちろんそれだけが要因ではないでしょうが)。
しかし。いくら憧れて、いくら近づこうとしても、同一化は失敗します。・ちゃんは他者だからです。もちろん一度同一化に失敗しても、憧れはまた幽霊のように回帰し、再び同一化を夢見るでしょう。そしてまた失敗する。こうした失敗をするたびに、・ちゃんが体現しているところの今の自分とは別な可能性は否定され、同時にそうした可能性のどれとも違うものとしての、「他ならぬこの私」という感覚が生じるのではないでしょうか。今とは別様の可能性を、固有名の訂正可能性を告げ知らせてくれると同時に、やはり完全に同一化することはできない他者。この二つの特性を併せ持つがゆえに「この私」の感覚を強化してくれる存在。これこそが幽霊としての・ちゃんではないでしょうか。
まとめます。今の時代、自分が自分であることの固有性を感じることは難しくなっている。「僕は誰だ」。そんなとき、へんてこなアイドルグループのメンバーに出会う。「君は誰だ」。君の名前は・ちゃん。ほどなくして憧れの対象となる。「僕と君が繋がり続けるそんな日が来ることを願ってる」。「僕は君だ」という同一化した状態を夢見る。しかし、・ちゃんは他者だからどうしたって同一化の試みは成功しない。そしてここから、・ちゃんが体現している別様の可能性とは違う「この私」の感覚が生まれる。「僕は僕だ」。でもよく考えてみると、「僕は僕だ」という一見するととても当たり前のことに思えるこの感覚は、「僕が君でなかったら」、つまり君(=幽霊)がまずいて僕はそれとは違うものだ、というふうに考えることで生まれてくる。だから「僕が君でなかったらそんな夢想ですら君なんだ」。「君なんだ」というのは、君のおかげだということと考えておきましょう。君のおかげで、僕は君ではないと、「この私」なのだと感じることができるのです。
さて、「この私」に取り憑く幽霊としての・ちゃんについて考えてきました。最初はまず「この私」がいて、その私に幽霊が取り憑いている、という話だと思われたかもしれません。しかし、ここまでで明らかになったのは、「この私」という感覚は、むしろまず幽霊がいてこそ生まれてくるものだ、ということでした。ひとが・ちゃんを愛するとき、・ちゃんに憧れ、同一化を試みるも失敗し、それを通じて「この私」の感覚が生じる。こうしたことが起こっている。いや、起こっていると後から考えることができる。このような意味で、・ちゃんは幽霊なのです。こう考えることによって、少しでも・ちゃんの存在感を身近に感じることができるのではないでしょうか。
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