Tokyo in Books――・・・・・・・・・の思想的背景について(2017.10.16)

1、はじめに

 この記事では、2016年9月から活動している日本の女性アイドルグループ「・・・・・・・・・」(以下、ドッツと表記)のコンセプトの思想的背景を明らかにしていく。端的に言えば、ドッツのコンセプトに大きく影響を与えていると考えられる思想家・評論家として、東浩紀、宇野常寛、濱野智史の名前を挙げることができるだろう。基本的にはこの三者の議論を辿ることが多くなるが、彼らの議論における共通の問題意識をより明らかにするために、まず大澤真幸による戦後日本の時代区分を確認し、その後で東の議論および宇野・濱野によるAKB48にかんする議論を見ていき、ドッツのコンセプトとの関連や差異を浮かび上がらせることにしたい。

 

2、理想の時代から虚構の時代へ

 大澤は、師である見田宗介の議論を引き継ぎながら、理想の時代(1945~1970年)、虚構の時代(1970~1995年)、不可能性の時代(1995年~)といった形で、戦後の日本を区分している。そして東・宇野・濱野の三者がともに議論の前提としているのが理想の時代、虚構の時代という区分であり、その後の時代をどのようにして特徴づけるのかについては、彼らは大澤とは異なる視点を打ち出している。ともあれ以下では、この理想の時代と虚構の時代について、簡単な整理を行っておきたい。

 まず理想の時代であるが、この時代にはまだ確固たる理想が、ただしアメリカに準拠して考えられるところの理想が、存在していた。高度経済成長によってアメリカという理想へと着実に近づいていっていることが実感されていたし、あるいは反対に、アメリカという理想の裏返しとしての共産主義革命という理想によって学生運動が盛り上がりを見せた。

 しかし、70年代に突入して以降、こうした理想が失われていく。その結果が虚構の時代の到来であり、この時代には、「現実すらも、言語や記号によって枠づけられ、構造化されている一種の虚構と見なし、数ある虚構の中で相対化してしまう態度」((大澤真幸『不可能性の時代』岩波書店、2008年、68頁。))が生じてきた。そしてこうした虚構の時代を象徴するものこそが、1983年に開園した東京ディズニーランドだった。

 以上のような推移を別様に言うならば、「大きな物語」の消失していく過程という表現を与えることができるだろう。経済成長や民主主義などの理想によってまとまりを与えられていた社会が、そのまとまりを失っていく過程であるとも言える。この過程において、かつては存在していた超越的な理想が自己を規定してくれるということもなくなるので、空白が生じてしまう。この空白を埋めるべく、大きな物語の代わりを虚構の中に見出すという態度が生じてくる。こうした中で日本に出現してきたのはオタクであり、オウム真理教であった。

 このように、大きな物語が弱体化するとは、かつてそれが提供してくれていた人間性の根拠づけが失われてくるということに他ならない。そうなるとそうした空白を埋める必要が出てくる。端的に言えば、こうした虚構を作ることで空白を埋める者たちこそがオタクであり、そしてその極端な形態が、サブカルチャー的想像力で塗り固められていたオウム真理教の教義であったと言える。こうした諸現象は、大きな物語が失われた時代の気分を反映していた。

 しかし、大澤自身がその後に不可能性の時代を付け加えていることからも明らかなように、同じ時代がこのまま続くことはなかった。というのも、大きな物語の消失を補填する必要があるのは、理想がまだ確かであった時代を生きていた人たちにとってでしかないからだ。では、生まれたときから大きな物語などもはや自明ではなかった人々の時代はどのようなものなのか。東はそれに「動物の時代」という名を与えた。

 

3、動物の時代、環境管理型権力

 『動物化するポストモダン』は、動物の時代のオタクについて分析を行った。動物であるとは、もはや満たされても消えることのない欲望を持つ人間ではなく、特定の対象について、それが充足されれば満たされる単なる欲求(例:おなかがすいたのでご飯を食べたら満足)しか持たないということだ。東はこのことを、オタクがどのようにして「萌える」のかを例に挙げて説明している。オタクが萌えるのは、キャラクターにおける猫耳のような紋切り型の「萌え要素」と呼ばれるものに対してであって、そこではもはや物語のストーリーがどうこうといったことは二の次でしかない。このとき、オタクはそれら「萌え要素」が登録されている「データベース」に接続している。ゆえに東はこうしたオタクの行動様式を「データベース消費」と呼んだ。

 整理すると、大きな物語の消失によりもはやオリジナルもコピーも無くなったシミュラークルの層がある一方で、「シミュラークルとは決して無秩序に増殖したものではなく、データベースの水準の裏打ちがあって初めて有効に機能している」((東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』講談社、2001年、87頁。))。シミュラークルの世界は決して何でもありなのではなく、データベースへの参照によって良し悪しが決まっている。

 このように、『動物化するポストモダン』は、大きな物語が失われた時代=ポストモダンにおける消費社会論であった。もちろんこれはみんながオタクになったという話ではなく、また反対にオタクという限られた人たちの特殊な事情について論じているのではない。そうした分析を通じて、ポストモダンの新たな人間性を、つまり「データベース的動物」というあり方を、析出する試みであった。実際、東は次のように述べている。

 

 近代の人間は物語的動物だった。彼らは人間固有の「生きる意味」への渇望を、同じように人間固有な社交性を通じて満たすことができた。言い換えれば、小さな物語と大きな物語のあいだを相似的に結ぶことができた。

 しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通じては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。〔…〕シミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。((同上、140頁。))

 

さて、以上のような東による消費社会論は、実は権力論と対になっている((東浩紀、大澤真幸『自由を考える――9・11以降の現代思想』NHK出版、2003年、21頁。))。ではそれはいかなる権力論なのか。

 『動物化するポストモダン』のシミュラークルとデータベースの二層構造は、前者において自由にシミュラークルの戯れを行うと同時に、後者がそうした戯れを管理するという構造になっている。つまりそこには「自由と管理の二層構造」があるのであり、権力論は後者の「情報管理のシステム」についての分析を行うものになる。そして、こうした管理を行う権力こそ、「環境管理型権力」と呼ばれるものに他ならない。

 この環境管理型権力は、フーコーやドゥルーズの議論を下敷きにしているものなので、これについてはフーコーの「規律訓練型権力」と対比させながら確認しておきたい。まず規律訓練型権力とは、学校の教育などを通じて規範を個人に内面化し、自ら進んで社会の規範に従うように仕向けるような権力である。このようにして規律訓練型権力は価値観を共有させようとするが、何度も見てきたようにポストモダンにおいては大きな物語は消失しているから、こうした戦略はもはや有効ではない。そこで次に管理社会がやってくる。そこでは個々人の価値観の多様性(シミュラークルの層に対応)が認められる一方で、人々の動物的な部分に働きかけることで管理が行われる。有名な例として、マクドナルドが椅子を固くすることで客の回転率を上げるというものがある。

 こうした権力を東は批判しているのだろうか。そうではない。2003年の時点で、東は次のように述べている。

 

 それ〔=環境管理型権力〕は、良く言えば、多様な価値観を共存させる多文化でポストモダンなシステムです。しかし、悪く言えば、家畜を管理するみたいに人間を管理するシステムでもある。この二つは同じことなのです。(( 同上、33頁。))

 

以上のように、この時点の東は環境管理型権力に対して両義的な態度をとっている。しかしその後の東の歩みから判断すれば、佐々木敦も指摘しているように((佐々木敦『ニッポンの思想』講談社、2009年、322頁。))、こうした環境管理型権力を所与として、その中でいかに環境あるいはアーキテクチャを良い方向に改良していくか、という方向に向かったと考えられる。それゆえに、ショッピングモールや観光といったテーマについて議論を行うようになったのだろう((前者に関しては、東浩紀、大山顕『ショッピングモールから考える―ユートピア・バックヤード・未来都市』幻冬舎、2016年を、後者に関しては、東浩紀『観光客の哲学』ゲンロン、2017年を、主な著作として挙げることができる。))。

 ここまでの議論から一体どこにアイドルとの関係があるのかと思われるかもしれない。それゆえ先回りして述べておけば、ドッツがやろうとしているアイドルは、結局のところ東におけるショッピングモールや観光に対応するものだと考えられる。つまり、同じような問題意識が前提されたうえで、その問題解決の手法がショッピングモールや観光であるのか、アイドルであるのかという違いがある、ということだと考えることができる。実際、ドッツのコンセプトのキーワードの一つとして「都市の幽霊」を挙げることができるが、この幽霊という言葉は東のデビュー作である『存在論的、郵便的』のキーワードに他ならない。ここからも東とドッツのコンセプトとの関わりは明らかだろう。とはいえ、ドッツのコンセプトは宇野と濱野の議論も参照した方がより理解しやすくなると考えられる。次へ進みたい。

 

4、新しい想像力、拡張現実の時代

 前節で確認したような東の議論を批判し、2008年の『ゼロ年代の想像力』において新たな時代区分を設けたのが、宇野常寛であった。その議論を確認する前にまずもって指摘しておかなければならないのは、東をかなり批判しているとはいえ、あるいは批判しているからこそ、宇野の議論における東の影響力は計り知れないものであるということだろう。さらには、宇野の批判は東の議論をその根本的な部分では受け入れているのであり、だからこそ東(あるいはその「劣化コピー」)に対する不満もより強いものになったのかもしれない。

 では、宇野が追加した新たな時代区分とはどのようなものだったのか。宇野も、戦後の理想の時代、それに次ぐ虚構の時代という時代区分は、東と同様に踏襲している。それゆえ、新たな時代区分が設けられるのは1995年以降についてであり、そこに宇野は1995~2001年までの「引きこもり/心理主義」の時代と、2001年以降の「決断主義」の時代という区分を新たに導入する。以下では、この二つ時代がどのようなものであるのかを確認していきたい。

 まず、「引きこもり/心理主義」の時代を理解するために、宇野による二つの『新世紀エヴァンゲリオン』についての解釈を辿っておく。一つ目の『エヴァゲリオン』は1995~96年にテレビで放映された『エヴァンゲリオン』を指す。その最終回で主人公のシンジは、父から課せられたロボットに乗って「使徒」を倒すこと(=「社会的自己実現」)を拒絶し、自らの内面に「引きこもる」ことを選択する。こうしたシンジの選択は、努力をすることで社会的自己実現をはたすというかつて機能していた回路が、大きな物語の消失によってもはや機能不全に陥っているということを反映している。

 しかし、1997年公開の『Air/まごころを、君に』という『エヴァンゲリオン』の劇場版の結末では、世界は滅亡し、シンジはヒロインのアスカと二人だけでそこに残されるが、アスカはシンジを「キモチワルイ」と言って拒絶する。これは、「ポストモダン状況下においても、人は時に傷つけあいながらも他者に向き合って生きていくしかないのだ、というシビアだが前向きな現実認知に基づいた結末だった」((宇野常寛『ゼロ年代の想像力〔文庫版〕』早川書房、2011年、96頁。))として、宇野は評価している。ゆえにここに現れている思想は「引きこもり/心理主義」の時代と区別され、「九五年の思想」と呼ばれる。

 とはいえ、『エヴァンゲリオン』劇場版を始めとする「九五年の思想」はすぐに挫折したのだと宇野は言う。そしてこの挫折を象徴するのが「セカイ系」と呼ばれる一群の作品である((セカイ系をざっくり定義すれば、「僕-君」という私的な関係が、社会の制度のような中間をすっ飛ばして「世界の運命」のような重大な事柄に直結しているような物語、ということができる。代表的な作品として、『ほしのこえ』、『最終兵器彼女』、『イリヤの空、UFOの夏』がよく挙げられる。))。こうした作品においては、主人公は母的な存在からの無条件な承認を得ることで、自己愛へと退却するのだとされる。ゆえにセカイ系の作品は、「引きこもり/心理主義」時代の完成形だと言える。こうした作品における想像力を宇野は「古い想像力」と呼び、ゼロ年代以降の「新しい想像力」と区別する。ではこの新しい想像力の時代はどのようなものなのか。

 ゼロ年代に入ると、小泉政権の構造改革も相俟って格差が広がっているという意識が広がった。するとシンジのように引きこもっていては生き残れない、という「サヴァイヴ感」が生まれてくる。ウジウジしてないで積極的に決断することが重要だ。以上のような事情を宇野は次のようにまとめている。

 

 世の中が「正しい価値」や「生きる意味」を示してくれないのは当たり前のこと=「前提」であり、損な「前提」にいじけて引きこもっていたら生き残れない――だから「現代の想像力」は生きていくために、まず自分で考え、行動するという態度を選択する。たとえ「間違って」「他人を傷つけても」何らかの立場を選択しなければならない――そこでは究極的には無根拠であることは織り込み済みで「あえて」特定の価値を選択する、という決断が行われているのだ。((宇野前掲書、25-26頁。))

 

こうした生き残るために決断をしなければならないような時代を、「決断主義」の時代と呼ぶことができるだろう((西兼志は『アイドル/メディア論講義』においてアイドルの本質を、新たな状況に次々置かれたときに前向きに取り組む姿勢に見出しているが、このことを踏まえれば、ゼロ年代に入ってアイドルシーンが盛り上がりを見せたのは、こうした時代背景に裏打ちされていると言えるだろう。))。

 以上からなぜ宇野が東を批判したのかも理解できる。東はゼロ年代にセカイ系にかんして評論をし、評価もしていたが、宇野からすればそれは「古い想像力」でしかないのであり、それを評価し続けることは時代の変化を取り逃がしている、ということになる。とはいえ繰り返すが、両者の問題意識は非常に似通っている。このことは次のような宇野の記述からもはっきりと窺える。

 

 私たちは、多様すぎる選択肢の中で(もちろん、これはあくまで単一化の進むアーキテクチャーの枠内での選択である)から無根拠を踏まえた上で選択し、決断し、他の誰かと傷つけあって生きていかなければならない。この身も蓋もない現実を徹底して前提化し、より自由に、そして優雅にバトルロワイヤルを戦う方法を模索することで、決断主義を発展解消させてしまえばいいのだ。

 ひとつの時代を乗り越えるために必要なのは、それに背を向けることではない。むしろ祝福し、めいっぱい楽しみながら克服することなのだ。((宇野前掲書、156-157頁。))

 

ここに現れている宇野の姿勢は、東のそれと酷似している。さらに興味深いことに、この引用箇所の直前では、社会学者の稲葉振一郎がフーコーについて述べている文章が引用されている。その要旨は、権力に抵抗するのではなく、それをいかにうまく活用するのかを考えるべきだ、というものだ。これに賛成している宇野は、フーコーの権力論を前提としながら、彼が明らかにした権力の仕組みに抵抗するのではなく、それを所与として受け入れた上でいかに良い方向へと作り替えていくのか、という問題意識を有する点で東と一致している。

 さらに宇野は、2011年の『リトル・ピープルの時代』において、95年以降の時代を、大澤の「不可能性の時代」とも東の「動物の時代」とも「半歩ずつずれたもの」として、「拡張現実の時代」を提唱した。ここで言われる拡張現実とはどのようなものなのか。長くなるが宇野による説明を引用しておく。

 

 冷戦が終わり、やがて貨幣と情報のネットワークが国家たちよりも上位の存在として定着していったとき(グローバル資本主義)、世界を支配するもっとも「大きなもの」はビック・ブラザー(疑似人格化し得る国民国家)ではなくなった。ビック・ブラザー亡きあとのリトル・ピープルの時代――それは、世界が非人格的なネットワークによってひとつにつながれた時代、世界に〈外部〉が存在しなくなった時代だ。このとき、〈現実〉に対置し得るものはかつての意味での〈虚構〉ではあり得ない。かつてのように、失われた大きな物語を埋め合わせるために〈ここではない、どこか〉=〈外部〉に消費者たちを誘う「仮想現実」ではもはやあり得ないのだ。〔…〕そんなときに〈反現実〉として作用するもの、それが私たちの想像力によって彩られ、多重化した〈いま、ここ〉の現実、すなわち〈拡張現実〉なのだ。((宇野常寛『リトル・ピープルの時代〔文庫版〕』幻冬舎、2015年、452-453頁。))

 

前半で言われている時代認識については、ここまで何度も確認してきたので繰り返さない。またこうした状況で〈ここではない・どこか〉へ向かうのではなく、資本主義によってもたらされた「非人称的なネットワーク」に覆い尽くされた現実を、〈いま・ここ〉に留まって、その中にいながらより良い方向へと変えていくという姿勢は『ゼロ年代の想像力』のときと何ら変わっていない。

 そして現実を多重化して拡張するものとして、宇野はAKB48を評価することになるのだが、AKBについての議論を見ていく前に、その時の共闘者といっても過言ではない濱野智史の議論についても、簡単に触れておきたい。

 

5、アーキテクチャからアイドルへ

 濱野の主著として、2008年に出版された『アーキテクチャの生態系』を挙げることができる。アーキテクチャとは、要するに東が環境管理型権力と呼んでいたもののことであり、『アーキテクチャの生態系』という本は、インターネット上の様々なアーキテクチャを分析すること、さらにそれを通じて日本のアーキテクチャは独自な進化を遂げており、その独自性には新たな可能性が含まれていること、こうしたことを示そうとした。具体的な議論の内容に踏み込む余裕はないが、この可能性とは、簡単に言えばアーキテクチャ=環境管理型権力の設計によって社会をより良くする、ということに尽きる。実際濱野は次のように述べている。

 

 もはや私たちは、なんらかのヴィジョンや合意を通じて、社会というもの変わるというイメージを抱くことが難しい状態にあるといわれます。筆者もそのように感じている一人です。そのとき、こうしたアーキテクチャの設計を通じて、社会をいわば「ハッキング」する可能性を信じることは、筆者にとって、単なるオプティミズム以上のものを意味しているのです。((濱野智史『アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか〔文庫版〕』筑摩書房、2015年、348頁。))

 

東・宇野・濱野が同じ問題意識を持っていることは、もはや明らかだろう。そして宇野と同様にあるいはそれ以上に、この問題意識のもとでアイドルを評価したのが濱野だった。『アーキテクチャの生態系』の「文庫版あとがき」では次のように述べられている。

 

 情報技術/情報環境が真の意味で「社会を変える」のだとすれば、それは(情報技術がバーチャルな空間に留まるのではなく)「身体性」とのよりダイレクトで密接な結合が必要である〔…〕。

 実は筆者にとって、この「情報技術と密接に接合した身体のあり方」こそが、現代日本社会における「アイドル」という存在である。いま日本では、アイドルこそが情報環境の生態系の変化にもっとも敏感な身体性の「器」なのだ。((同上、363頁。))

 

以上から、宇野と濱野の両者は、大きな物語が失われた時代において、その現実をより良いものに拡張する環境=アーキテクチャとしてアイドルを評価していくことになった、とまとめることができる。次節では、両者のAKB48にかんする具体的な議論を辿っていく。

 

6、AKB論壇の時代

 AKBがその知名度を確固たるものにしていた2012年、AKBにかんする重要な著作が相次いで出版された。一つは、宇野と濱野が共著者に名を連ねる『AKB48白熱論争』(以下、『白熱論争』)であり、もう一つは濱野による単著『前田敦子はキリストを超えた』(以下、『前キリ』)であった。こうしたAKBについての議論の盛り上がりから、「AKB論壇」なる言葉も生まれた。以下では、これら二つの著作から、特にドッツのコンセプトとかかわりが深いと考えられる議論を取り上げていく。ただし、具体的な議論に入る前に重ねて強調しておきたいのは、宇野と濱野のAKBについての議論は、頭でっかちの人間がアイドルという「俗っぽい」ものにハマったので、それを知的に正当化するためのものだったのではない、ということだ。もちろんそうした側面が全くなかったと言い切ることは難しいのかもしれないが、前節までで確認してきた内容からして、彼らの思想にそもそもアイドルを評価するに至る可能性は胚胎していたと言える。このことを押さえた上で、具体的な議論を見ていくことにしたい。

 まず『白熱論争』の議論のうち、AKBが公共性を育むということが指摘されていることに注目したい。濱野は次のように指摘する。

 

 今までは公共性といったら、ちょっと頭のいい市民たちが勉強して啓蒙されて互いに議論をすることで、公共性が実現できるんだというのがハーバーマスとかの考えだったわけですよね。でもAKBのファンは違う。必死になって「ぱるるはこれだけゴリ押しされてるのに16位に入らないのはマズい」とか議論しながら、すごい勢いでCDを買っているだけ。〔…〕その判断や行動を通じて結果的に公共性をもった投票結果で、AKBの序列が決定されるわけです。((小林よしのり・中森明夫・宇野常寛・濱野智史『AKB48白熱論争』幻冬舎、2012年、83頁。))

 

大きな物語は失われているので、啓蒙によって共通の価値観を作り出していくという戦略はもう有効ではない。だから結果として公共性が生まれるようなアーキテクチャを設計する必要がある(例えばスマホのカメラのシャッター音を消せないようにすることで、盗撮を減らすことができるように)。そしてAKBこそそうしたアーキテクチャであり、公共性を生み出しているのではないか。ここで濱野はそう主張している。宇野も引用箇所の少し前で「もともと若いオタクに公共性がないのではなく、彼らと社会構造をつなぐ回路さえあれば、十分に公共性を発揮できる」と述べているが、この「回路」とはつまるところアーキテクチャに他ならず、両者は同意見だと言える。

 『白熱論争』にかんしてもう一つ注目しておきたいのは、宇野が2ちゃんねる、mixi、Twitterなどに代表されるソーシャルメディアへの期待をはっきり表明していることだ((同上、88頁。))。

当時は、震災直後のTwitterによる情報発信が注目されたり、「アラブの春」と呼ばれる一連の騒乱の拡大においてソーシャルメディアが活用されたりしたことから、社会的な問題にかんしてソーシャルメディアに対する期待が現在よりもはるかに高かった((こうした風潮をよく現しているものとして、次のものを挙げることができる。津田大介『ウェブで政治を動かす!』朝日新聞出版、2012年。))。こうした時代の流れは、宇野の発言を後押しするものだっただろう。ゆえに宇野は、テレビという従来までのメディアに頼らず、ソーシャルメディアを利用してその人気を拡大させていった点においても、AKBを評価した。

 次に『前キリ』についても触れておきたい。この著作において濱野は、AKBの特徴について、①近接性、②偶然性の二つを指摘している。以下ではこの二点にかんして確認しておく。

 まず①は、要するにAKBが「会いに行ける」アイドルであるということに強みがあった、という指摘に他ならない。ライブ会場で「レス」をもらうこと(=アイドルに自分と目を合わせてもらうこと)や握手などの「接触」がもたらすものこそ、近接性でありAKBの魅力だった。例えば、従来のCDは基本的には音楽データとしてそれを売っていたのだが、AKBはCDを買うことで参加できる握手会という体験を売っていたのであり、そうした体験を売ることによってオリコンチャートをハックしたのだった。

 次に②は、メンバーの中から「推し」を決める際に、偶然的な要素によって大きく左右される、という指摘だ。より具体的には、AKB劇場の席がくじによって決まるシステムや劇場にある二本の柱によって誰からレスがもらえるかが左右されるといった、偶然性が含みこまれたアーキテクチャによって、どのメンバーを推しにするのかが決まってくるということが指摘されている。このことの意義について濱野は様々に論じているが、ここではこれ以上議論を追う余裕はない。ともかく以上を整理すると、濱野は現場における近接性とそこで推しを決める際に伴われる偶然性こそをAKBの特徴として評価した、とまとめることができるだろう。

 ここまで見てきた二つの著作が出版された2012年の翌年、後にドッツのコンセプト担当となる古村雪は、東が代表を務めているゲンロンのメールマガジンに、アイドルにかんする文章を発表した。この文章の内容を詳細に追うこともここではまたできないが、そこではアイドルの公共性が論じられていたこと、また臭いという感覚の思想的な重要性を指摘していること、そしてこれら二点がとりわけドッツのコンセプトに深く関わるということは強調しておきたい。

 

6、AKBから・・・・・・・・・へ

 『白熱論争』と『前キリ』が出版された2012年、AKBはすでに広い人気を獲得していたので、この時にはメンバーに「会いに行く」ことが難しくなっていた。つまり、濱野が指摘した近接性を体感することはブレイク以前と比べると難しくなっていた。こうした状況で、アイドルと会えなくなった人々は、「地下アイドル」と呼ばれる、現場を重視するAKBの戦略を引き継いでいるより規模の小さな無数のアイドルたちに「会いに行く」ことになった((こうした動きは濱野のアイドルオタク遍歴にもぴったり当てはまる。濱野は、それほど頻繁には会えなくなったAKBの代わりに「地下に潜って」アイドルたちに会い、ついには自身がアイドルグループをプロデュースするに至ることとなる。濱野が地下アイドルへと潜る経緯については次を参照。濱野智史『地下アイドル潜入記 デフレ社会のなれのはて――新潮45 ebooklet』、新潮社、2013年。))。それゆえ、様々なアイドルが次々と生まれ「アイドル戦国時代」といった言葉まで生まれることにもなった。しかし、こうしたAKBに端を発する現場を重視するアイドルについては、その欠点も指摘することができるだろう。この欠点とはどのようなものだろうか。

 現場中心的なシステムの欠点として、現場が重要視されるあまり、アイドルがもはや「みんなのもの」ではなくなってしまったということを挙げることができる。現場での体験が何よりも大切である以上、現場に足を運ぶ必要があるわけだが、そのためにはある程度の時間やお金そして体力も必要とされる。またライブにおけるアイドルの応援の仕方については独特の文化が築かれており、誰もがすぐ容易になじめると言うことはさすがにできないだろう。

 ドッツのコンセプトには、東の議論あるいは宇野や濱野のAKBについての議論を引き継ぐ部分と、宇野と濱野の議論をさらにアップデートして、今述べたような現場中心的なシステムの欠点の克服を目指すものとの両方が含まれていると考えられる。まず東・宇野・濱野の三者との共通点から見ていく。

 何度も確認してきたように、この三者の議論は、大きな物語が失われた後、資本主義に覆われたこの時代では、環境管理型権力=アーキテクチャによって管理されている、という認識のもと、そうした権力に抵抗するのではなく、社会をより良くするために、それを活用していくという戦略を持っているということでは一致していた。東はより良い社会のためのアーキテクチャとしてショッピングモールや観光を論じ、宇野と濱野はAKBを論じたのだと言える。そして当然ながらドッツがやろうとしているアイドルも、このようなアーキテクチャに他ならない。さらに濱野のAKB論との関連で言えば、偶然性を評価する点をドッツのコンセプトは引き継ぎ、さらには引き延ばしてさえもいる。どういうことか。

 まずドッツのメンバーたちの「素顔」は、一般的なアイドルと比べると、顔から受け取ることができる情報が少ない(コンセプトを台無しにして説明すると、メンバーはサングラスをかけている)。またすべてのメンバーの名前は「・」であり、ドッツの公式サイトを開けば九つの・がサイト上を浮遊している。この・をクリックするとその・ちゃんにかんする情報が次々と出てきて、それを見て一人推しの・ちゃんを選ぶことができるようになっている(( こうした・ちゃんにかんする情報は、哲学の用語を使えば「確定記述」といいかえることができるが、これらの確定記述は・ちゃんを推すきっかけにはなるが、次第に・ちゃんに詳しくなっていって、最初は偶然のものだった・ちゃん推しが必然に転じるとき、もはや推している対象を確定記述の束に還元できるとは言えなくなるだろう。こうした確定記述の束に還元されない余剰は「固有名」と呼ばれる。確定記述と固有名にかんする議論は、東の『存在論的、郵便的』において、デリダの幽霊論と絡めて論じられており、ドッツのコンセプトのキーワードが「都市の幽霊」であることなどとも併せて考えれば、・ちゃんと東のデリダ論との関係について議論を展開することが可能かもしれない。このテーマについては機を改めて論じたい。))。このサイト上で推しを選ぶ過程においては、メンバーについての視覚的な情報を介することが全くないと同時に、非常に断片的な情報から推しを選ぶのでその決断には必然的に偶然性が入りこむ((もちろん推しを選ぶ前に、インターネット上で・ちゃんたちの画像=視覚的情報を検索することは可能だが、そうしてもやはりそれによって与えられる視覚的情報は少ないし、初めて検索した人であれば、それぞれの・ちゃんを見分けることも容易ではないだろう。))。AKBのメンバーは顔をはっきり見ることができるのだから、ドッツのほうがより偶然性が高いといえる。

 それだけではない。・ちゃんの素顔の視覚的情報が少なくなっているのは、一人の・ちゃんにつき東京の女の子10万人を象徴しているので個性が表現し切れなくなった結果であるという説明がされる。もちろんこの10万という数字は便宜的なものであり、10万人がいいのであれば、100万人であってもいいはずだし、要するに何人でもよく、・ちゃんは誰でもありうる。とはいえ、現実に女の子の形をとっている目の前の「この」・ちゃんはやはり一人でしかない。とてつもない偶然ではないか。

 このように、濱野による偶然性の強調は引き継がれ、それだけでなくその偶然性はAKB以上に引き延ばされている。とはいえ濱野との決定的な違いもある。視覚的な情報が排されているので、従来あった推しの決め方とは別のものが提示されているし、・ちゃんは一人であると同時に誰でもある以上、一対一のガチ恋的な応援を必然的にずらしてしまうようになっている。なぜなら、一人の女の子としての・ちゃんを推すことは、誰もを推すこと(=DDになること)に転じるようになっているからだ((濱野はAKBの「疑似」恋愛性を評価し、ゲーム感覚でロマンチックラヴに近い体験を得ることができると述べていたが、とはいえこうした推し方には心理的負担を伴うことが多いのも事実だろう。もちろん「ガチ恋」という言葉が存在することからもわかるように、そこでは自分がアイドルに恋するという行いに対するメタ的な意識が、あくまでも疑似的なものでしかない(=本当に恋が成就することはない)のだという意識が、働いている(そうでなければわざわざ恋を「ガチ」と言う必要はない。社会通念上、恋はガチなものであるべきとされているから)。とはいえこうしたメタな意識(疑似恋愛)はベタな意識(恋)と混然一体となっていて、自分でもそれをはっきり区別することは難しいのではないだろうか。そしてこのことはやはりオタクに心理的負担をもたらさざるをえないのではないだろうか。))。

 次に、ドッツのコンセプトにおいて都市あるいは都市開発が大きなテーマにされているのは、宇野と濱野が『白熱論争』において指摘していたアイドルの公共性についての議論を引き継いだものだろう。とはいえ、「みんなのもの」である都市をアイドルのコンセプトに持ち込んでいることには、現場での近接性の重視のあまり、「みんなのもの」ではなくなってしまったアイドルをさらにアップデートしようとする意図を読み取ることができる。しかし、かつてのようにテレビを通じて「国民的アイドル」という大きな物語の形で、再びアイドルを「みんなのもの」にすることはできない。私たちを取り巻くメディア環境はかつてとは大きく異なっているからだ。ここにこそ、アイドルのコンセプトに都市というテーマを取り入れるというアイデアが生まれてくる理由がある。

 だから・ちゃんという名前は、現場で見かけるあの女の子たちのことだけを指すのでも、さらには東京に住むあらゆる女の子のことだけを指すのでもない。まず抽象的な・ちゃんがいる。・ちゃんは、女の子の形をとったり、CDの形をとったり、都市の中の丸い形をしたものの形をとったり、かつて・ちゃんが自分のいる場所にいたことがあるという情報((「都市の幽霊観測装置」というアプリをダウンロードしておけば、・ちゃんが来たことのある場所を通った時にスマートフォンが振動するようになっている。))の形をとったりする、というようにあらゆる時と場所で、たとえ確固たる実体がなくとも幽霊のように「観測」されうる。それらすべてが等しく・ちゃんなのだ。とはいえ、・ちゃんを推すきっかけになるのはまず女の子の形をとっている・ちゃんだろう。しかし、女の子を推す、好きになるという非常に利己的な行為をとっていると、次第に・ちゃんは都市であるというコンセプトを知ることになって、女の子への好意は、都市に向けて反転されることになる。ありふれた都市の〈いま・ここ〉の日常の意味合いが、・ちゃんによって多重化される(拡張現実)。こうして以前よりも少し素敵になった都市の中で、・ちゃんを推す人が悪いことをしようと思うことは難しい。人・モノ・情報として現れる・ちゃんを常に「身に纏っている」からだ。ここには、利己性がアイドルというアーキテクチャによって公共性に転じる様を見て取ることができる。

 最後に手短に一つ付け加えておく。宇野は2012年の時点でAKBのブレイクにソーシャルメディアが大きな役割を果たしたことを評価していた。しかし現在、アイドルと最も関わりの深いソーシャルメディアは恐らくTwitterだろうが、2012年と比べると、Twitterにかんするポジティブな主張はかなり少なくなってしまった。こうした変化に対応するかのように、ドッツは従来のようなソーシャルメディアを介したアイドルとのつながり方とは別のものも提示しようとしていると考えられる。このことを示す例として、「HeartSync」というアプリを挙げることができる。これをダウンロードすれば、・ちゃんの鼓動にリアルタイムで連動してスマートフォンが振動する。ここでは、もはや言語を一切介することなしに、振動という形で・ちゃんの存在感が直接転送されてきている。この過程において、クソリプが送られてくるといったような、アイドルに負担を与えかねない出来事が生じる余地は一切ない。

 

7、おわりに

 ここまで紹介してきたような考え方は、あまりに資本主義や権力に対して順応的でありすぎるという感想を持たれるかもしれない。そうした批判は十分あり得るし、実際なされてもいるが、このことについて自らの主張を展開することは、この文章の目的に鑑みてここでは控える。ともかく以上で、ドッツの思想的背景についての概略を示すことはできたように思う。もちろんドッツのコンセプトはここで紹介したものに尽きるわけではないし、取り上げたコンセプトの一部についてもさらに突っ込んで検討する余地はいくらでもあるだろうが、とにかくこのコンセプトがちょっとした思い付き程度のものではなく、様々な議論の蓄積を前提として練り上げられたものであること、そしてそれゆえに真剣に向き合う価値があるということ、これらのことを多少は示すことができたのではないかと考えている。 

  

〈参考文献〉

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