『ユリイカ 総特集日本の男性アイドル』の感想① 筒井晴香「「推す」という隘路とその倫理――愛について」

    男性である私が、女性アイドルのオタクで、推しがいることを口にすると、しばしば「付き合えないのになんで?」といったようなことを言われる。こういうときに「いや、そういうんじゃなくてさ」と、アイドルの魅力を語り始めるのはたぶん悪手だろう。そうではなくて、こう切り返すべきなのだ。「なんで付き合う可能性がなかったら愛は成立しないっておもってるの?」。

    筒井がこの文章でやっていることは一貫していて、それは、オタクがアイドルを推すということについて考えることで、そこから翻って、「ふつうの」愛の姿を照らし返すこと、さらにはそれに揺さぶりをかけるということに他ならない。例えば筒井は、推すことが「「愛する」ことの一種であるという考えに疑念を抱かせるような特徴」の一つとして、「規範的とされる性愛――端的に言えば、家父長的規範に適う性愛――の形から外れている」という特徴を挙げている。異性と「まじめな」恋愛をして、相応の年になったら「ちゃんと」結婚をすべきだという愛のかたち、これはとても「常識的」なものだが、オタクとアイドルの関係はこうした「一般常識」に明らかな揺さぶりをかけてくる。

    あるいは、「なぜそのアイドルじゃなきゃいけないの?」という問いかけがある。もちろんあれこれ理由はをつけようとすることはどこまでも可能だ。しかし逆に言えば、どこまでも可能であるということはいつまでたっても「この子」でなければならないことの根拠づけは終結しない。そしてここから翻って、同様の問題は「ふつうの」愛においても生じることに思い至るべきだろう。「「相手は決して替えがきかないもののように思われるが、その理由付けは容易ではない」という点は「推す」ことだけでなく「愛」一般に共通している」と筒井は指摘している。

    筒井の記述から二点だけ抜き出してきて紹介したが、いくつかコメントを付け加えておこう。まず一つ目の「推すことは「ふつうの」異性愛とは異なる」という指摘だが、この指摘の正しさは「ガチ恋」という言葉が存在していることによって証されているようにおもえる。誰もが知っているように、恋とはまじめな、ガチなものでなければならない。それにもかかわらず、恋という言葉の前にガチという言葉がわざわざつけられている場合、そこには恋から距離をとる意識が入り込んでいる。もともとガチであるべきはずの恋についてそのガチ性を言い立てるということは、「ガチ恋」が、いわゆる恋とは異なる愛のかたちであることを示していると言える。

    とはいえ、こうしたメタな「ガチ恋」がベタな恋と見分けがつかなくなる瞬間は、たぶん少なくない人に訪れている。これは欺瞞だろうか?いやそうではないはずだ。対象がアイドルでなくとも、友達なのか恋愛対象なのかわからない、みたいなことはいくらでもある。感情をはっきりと切り分けられるなどということはめったになく、そもそも私たちはそんなに「ちゃんと」していない、こんな当たり前のことにアイドルは改めて気づかせてくれる。

    話をもう少し(いや、かなり)大きくしておく。すでに少し述べておいたように、この文章は推すということの内実を明らかにすると同時に、「ふつうの」愛のかたちを揺さぶり、愛というものはもともと「ふつうに」考えられているよりも多様で、豊かなものであったということの再発見へと読者を導いてくれる。そして思うに、アイドルはこうした特徴をもつからこそ、少なからぬひとを不安にさせ、反発を生み出す。つまりアイドルとは、「不気味なもの」に他ならない。

    なぜ「不気味」なのか。それは、私たちが「ふつうの」、「ちゃんとした」人間像を作り上げるときに切り捨てて見ないようにしたものが、再び身近に現れなおしているからだ。ブリュノ・ラトゥールは、近代という枠組みの特徴として、自然と社会の分離を挙げているが、この分離が行われたとき、自然を対象にする科学が真理に到達するための妨げになるものとして、フランシス・ベーコンが四つの「イドラ(idola)」を列挙したことは非常に興味深い。イドラは見ての通り「アイドル(idol)」という語の語源である。アイドルとは、近代が排除したがゆえに絶えず回帰する不気味な幽霊ではないのか。そしてこの幽霊から目をそらさないことによってこそ、筒井がこの文章の中で愛という概念についてやったようなかたちで、私たち人間のあり方を再発見し、人間という概念をより多様なものへと開くことが可能になるのではないか。

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