『ユリイカ 総特集日本の男性アイドル』の感想② カキン・オクサナ「日本の男性アイドルの文化人類学ーー「未熟さ」を愛でるファン文化の検討」

 タイトルの前半でおっ、と興味をひかれるも、タイトルの後半を読んでおう…となる。そんな人も多いのではないだろうか。「未熟さ」ときたか。アイドルは未熟であるがゆえに、ファンはその成長過程を応援する。そしてこうした未熟さを愛でる文化は日本古来のものだ…。まさかそんな話が続くわけではないよな…などとおもいながらページを繰っていった。

 そのまさか、だった。もちろん記述は整理されたものだし、慎重さも感じられる。とはいえ。結論としては、アイドルの未熟さを愛でるという日本の文化は、西洋の文化のオルタナティヴたりうる、ということになる。でもちょっと待ってほしい。本当にアイドルオタクは未熟さを愛でているのか。そしてそういう未熟なオタクの態度を、西洋のオルタナティヴとして肯定すること。これはまさに、かなり昔に、「近代の超克」というお題目のもとで論じられたことと構図としては違っていない。そして「近代の超克」についての思想をもとに掲げられた「大東亜共栄圏」という構想が、どんな結末を迎えたかは誰もが知っている通りである。

 問題設定そのものを見直す必要がある。絶対にある。それはちょうど、本来の人類学の分野で新たな「転回」が生じているのと同じように。筆者によるアイドルの文化人類学から帰結するのは、西洋の文化もあるけど、それとは違う日本の文化もあって尊重すべきだよね、という文化相対主義であるようにおもえる。一つの自然、いくつもの文化、というわけだ。しかしこうした構図を覆す議論も出てきている。詳細は省くが、エドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロによる「多自然主義」がそれだ。一つの文化、いくつもの自然。

 同様に、アイドルとオタクの関係を考える際の構図を新たにする必要がある。たしかに、オタクはアイドルの未熟な部分を肯定する。しかしそれは単なる帰結ではないのか。つまり、「アイドルを未熟であるがゆえに愛す」というふうに、未熟であることは愛する原因ではないのでないか。ではなぜ愛するのか。端的に言えばそれは、アイドルがオタクにとって、子供であるからではないか。

 粗雑な話をすると、オタクが自分の「推し」のことを話したり、その写真を見たりしているとき、その表情は親が子に向ける視線と同じであるように私にはおもえる。もちろんこれは単なる直観でしかないのだが、おそらく手がかりになるほど議論はすでに存在する。かつて濱野智史と東浩紀との対談において、アイドルは子供だという話が出ていた。また、血の繋がりを抜きにして、原理的に子供について考察した檜垣立哉『子供の哲学』という著作もある。こうした議論を踏まえながら、子供としてのアイドルについて考える余地はあるはずだし、こうした考察は、アイドル論を「未熟/成熟」という二項対立から解放する一つの手がかりになりうるのではないか。

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