いつかの月日のこと

 あなたと結構な頻度で話をするという習慣が知らない間になくなってしまってから、どれくらいの月日が経ったでしょうか。もはやはっきりとはわかりません。というのも、私としては、何かはっきりとしたきっかけや意図があってそうした習慣をわざわざ失くした、というわけでもないからです。気が付いたらなんかそうなっていた、としか思いません。それが取り立てて良かったとも、悪かったとも、思っていません。ただそうなった。そしてそうなったことはかなり自然なことで、その自然な流れの源流をたどると、その一つにはあなたとの様々な形でのやりとりがあったということ、このことを明記しておかないわけにはいきません。
 それはそうと、私があなたとあまり会わないようになったことは、あなたにどんな影響を与えたのでしょうか。こう書くと直ちに「そんな可能性を考えるなんて思い上がりだ」という内なる声が聞こえてきます。しかしこんな声、今は捨て置きましょう。単なる浅はかな自己防衛に過ぎません。私は仕事で教師のようなことをしていますが、そうやって日々多数の人間と関わり合い、時にはそれなりに頼りにされたりもしてきた経験から考えても、やはり一人の熱心な人間がある時を境に自分の目の前にあまり姿を現さなくなるということは、かなり気がかりなことであると言えます。ある程度したら仕方ないと考えるより他がなくなるので、そうした気がかりはなんとなく流れていくにしても、やはりそうなのです。こんなことくらいはさすがに日々の経験の中から知りえています。こういう確かな感覚を、ことあなたとの関わりに限って無視するなどということは、あなたに対するより以前に、おのれ自身に対して不誠実を働くことになってしまうでしょう。
 とは言っても、それなりに月日は流れました。私は東京に引っ越しましたが、その後にあなたと話したのはおそらくほんの数回だったと記憶しています。つい最近も、正直もうどのように話したらいいのか分かりませんでした。いや、もっと言えば、以前からどのように話したらいいのか分からなかったのだということが、今になってより如実に明らかになってきたのだ、ということでしょうか。
 もちろん、私があなたと頻繁に話していた当時も、結局のところ私は一介のオタクに過ぎず、あなたとの会話はどんなに盛り上がりを見せているにしてもやはりどこか空転し続けているのだ、というような自意識は働いていました。でも、やっぱりなんかもっと根っこの部分で、「何か」は繋がっているはずだ。そんな思いもやはりどこかにあったことは否めません。質の悪いことに、こんなことを思いながらも、そこを必死に打ち消すかのように、手紙では勝手に私があなたに触発されることの喜びを綴り、自分自身にもそう言い聞かせていたのでした。
 こうして少し、いつかの月日のことを思いだしてみるだけでも、様々な自意識のもつれが見えてきます。そもそもあなたと頻繫に話すようになったのだって、まずは「誰か一人を「推す」という経験をしてみたい、いや、一度してみなければならない」という動機がまずあって、その上で、「こうした理知的な動機に基づいた行動であっても、そういうメタ意識がベタな意識との境目がなくなる瞬間が訪れるに違いない、そこを楽しもう」という予断がありました。しかし今改めて書いてみても思いますが、最初からそういう予断をしている時点でなんだか自分の身体のこわばりみたいなものを感じてしまい、少し笑ってしまいそうになります。
 こうやって「俺はちゃんとわかってるんだ」とやっておかないとどうも気分が穏やかでなくなるというのは、振り返ってみると私が小さい時からずっとあったような気がします。小学三年生くらいだったか、授業中の「僕わかってます」というような優等生的振舞いを(今ではもうすっかり会わなくなってしまった)友人に痛烈に批判されたことを未だに鮮明に覚えているくらいなので、よっぽど痛いところを突かれたという思いだったのでしょうね。というか、今もこの友人の言葉は刺さり続けている気がします。
 優等生という言葉を書き付けていて今思ったのですが、これはあなたの振舞いにも当てはまることですよね。常道から外れようとするその行動にも、優等生的な自意識が見え隠れしてしまう。これはどちらかというと構造の話をしています。あなたの意思とはさしあたり関係なく、そのような自意識が看取されてしまうといような構造の話です。多分、自分との構造上の類似をこのようにしてあなたに見出し、それゆえに激しく共振し、加熱され、しばらく後、その熱は冷めていったのでしょう。これは今わかりました。当時はなぜ熱が冷めるのか本当にわからなかった。そういう意味では、あなたの前にほとんど姿を見せなくなった私の行動は、思想よりも行動が先立っていた稀有な事例だったのかもしれません。
 これはかつては強烈に自分の中でキャンセルしていた感情でしたが、あなたの振舞いから時折、「痛々しさ」を感じていました。でもなんで他人の振舞いにわざわざそんな感情を抱くのか、そしてさらにわざわざキャンセルする必要があるのか。その「痛々しさ」こそ実は、自分自身が向き合うべきものではなかったか。今ならそう思えます。
 結局この空虚な呼びかけ(とはいえ何らかの形で届いてしまうこともやはり、どこかで期待してしまっています)は、何を伝えたかったのでしょうか。畢竟、伝えたい内容など、この呼びかけには何一つ含まれてはいません。呼びかけの相手は一応伏せてありますし、書いてあること全てが事実であるわけでもありません。それでも内容とは関係なく伝わってしまうことがあるとすればそれはただ一つ、私が終始あなたに呼びかけながら、結局私自身のことしか考えていないし、書いてもいないということです。
 もちろん、こういう文章や語りは結局自分語りに過ぎないんだよ、というお説教は巷に溢れています。それに対し、いやそうすることで何かを考えることができたならそれはやはりそれなりにいいことだろう、とは応じたくなります。このことは踏まえた上でなお、私はやはり他人に興味がなさすぎる、自分のことばかり考えすぎていると素朴に思います。これはあなたとは何ら関係のないところで、様々な経験を通して、最近身に染みて感じさせられているところです。
 とはいえ、他人にどんどん興味を持つようにしようと直ちにできるはずもなく、また容易にそのような態度変更を行うこともあまり良策だとは思えず、日々頭を抱えています。これを解決、とまではいかなくとも少しばかりでも改善するには、自分がこれまで見てこないようにしてきたクサい部分に手を突っ込む必要があると感じています。それでもなお、やはりなんらかの手は打っていきたいと思えるのには、その内実はどうであれ、それなりの強度で他人に賭けるという経験を経てきたからなんだとは思います。
 この呼びかけはどこに向かうのでしょうか。話の展開も論理も、かなり錯綜しています。もちろんそれでいいし、それでしか伝わらないこともあるだろうと思ってこうしています(こうやってちゃんとやればきちんと書けるんだといちいちアピールしておかないと気が済まないのが私の弱さですが)。
 ある時、画面越しのあなたはなにか謝罪めいた言葉を口にしながら、涙を流していました。私はその後、あなたにまつわる文章を必死に書きました。ある時、あなたはSNSで確かに「幸せ」と書きました。私はその時、何かが報われたのだというような感情を確かに抱きました。ある時、あなたは私の名前を声に出しました。同じ時、私もまたあなたの名前を声に出していました。
 これら全てのことがあっても、私はあなたのことを、最後のところでは結局、考え損なっていたのだと思います。もしかしたらあなたも、私があなたのことを考え損なっていたのと同じ意味で、私のことを考え損なっていたのかもしれません。しかしこのことは、あなたと関わっていたかつての月日が無意味であることを何ら意味しません。というか、これから他人を考え損なっていた月日を超えて、どうにかやっていくためにも、無意味じゃなかったことにさせてください。させてもらいます。だから、あの月日は絶対に消えない。だから、これからの月日も絶対に無意味じゃない。だから一旦、こう言わせてください。ありがとうございました。

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