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須崎萌花は月日である

 須崎萌花は月日である。本論は、この一文が含んでいる意味合いを最大限拡張し、行けるところまで行くことを試みる。どのようにしてか。それは、月日さんを批評=批判(どちらも原語はcritique)することによって、である。ここで言われる批評という言葉の意味合いは、次のようなものである。

批判は、その対象となる物や事柄を非難したりすることではありません。批判とは、むしろその対象から肯定的に評価できるよい点を選別して引き延ばす活動のことです。つまり、批判は、否定的な営みではなく、むしろ人間の肯定的な活動だということです。(江川隆男『超人の倫理――〈哲学すること〉入門』74頁)

この引用からわかるように、月日さんを批評するとは、月日さんを肯定することでもある。しかしながらこのことは、月日さんに対して「今のままでいいんだよ」という安易な現状維持を促すことを決して意味しない。月日さんを肯定するとは、月日さんの可能性の最良の部分のひとつを的確に掴み取り、その部分を徹底的に引き延ばすこと。そうすることによって、月日さん本人が気づいていない、いや本人だからこそ気づきにくい、そんな可能性を彼女に提示すること。こうしたことを意味しているはずである。そしてそんな可能性はもしかしたら、月日さんが自分自身を信じ切るための一助になるかもしれないのだ。どうしてそんな可能性を諦めることができるだろう。

 これと同時に、月日さんを論じること、それはすなわち、アイドルの隘路を突破する方途を探ることにほかならない。より具体的に言えば、「未熟/成熟」という二項対立図式から抜け出し、自らのスタイルを確立するやり方の一例として、月日さんを提示することが可能だと考えている。だからこの論は一応、月日さんに興味があるなしにかかわらず、ある程度の普遍性をもったテーマについて論じた文章としても読むことができるとおもう。

 以上二つの目論見を果たすべく、以下では「須崎萌花は月日である」という一文の分析を行っていく。この分析の際には、ある理論を導入することになるが、その前に、現時点でこの一文から引き出せる内容を示しておこう。まず周辺情報を付加しつつベタにこの文を読めば、かつてRYUKYU IDOL、PIPおよび本とうたた寝。というアイドルグループで活動していた須崎萌花(ただしPIPおよび本とうたた寝。時代は柚木萌花なのだが前者の読み方は「ゆずき」で後者は「ゆのき」なので注意されたい)という人物が、現在は月日と名乗り、RAYというアイドルグループで活動している、ということを示す一文であると言える。

 とはいえこれだけではこれ以上の展開は望めないので、月日という名前に注目した上で、本論で再三登場することになる基本図式を提示しておきたい。月日という名前は、あまりにも当然のことであるが、月という漢字と日という漢字とが合わさってできている。本論では以後、月日さんの中に、月という極と日という極を見出していく。月は夜になると現れ、闇を照らす。よって月の極とは、月日さんにおける暗い部分、闇を志向する否定の原理であるとひとまずは言っておく。これに対して日の極とは、まさに日中の原理、光を志向する肯定の原理であるとひとまずは言っておく。そしてこうした二つの原理の共存をもたらしたのは、月日さんがこれまで重ねてきたアイドル活動の月日に他ならない。

 ただし、月日さんにおいてこれら両極が共存すると述べるだけでは不十分である。ただこれらが並立しているだけでなく、それによっていかにして新たなものが生み出されるのか、これこそが真に重要なことなのである。このあたりの理路を詳細に描き出すには、アイドルとは全く無縁なように見える議論に一旦寄り道しておく必要がある。その議論とはすなわち、哲学者ジル・ドゥルーズによるサディズム/マゾヒズム論である。ドゥルーズは1967年に『ザッヘル=マゾッホ紹介』という本を出版した。この本のなかには、サディズムとマゾヒズムをアイロニーとユーモアという概念によって論じている部分がある。このアイロニーとユーモアという概念を、以下でできるだけ簡潔に紹介しておきたい。

 ひとまずドゥルーズ自身の記述を確認するとこらから始めよう。ドゥルーズが言うところの、アイロニーとユーモアとはどんなものか。引用を三つほど。

アイロニーとユーモアはいまや、法の転倒へと方向づけられる。(Gilles Deleuze, Présentation de Sacher-Masoch, p.75)

法からより高次の原理へと超えていき、そうすることで法に二次的な権力しか認めないような運動を、私たちはつねにアイロニーと呼ぶ。(Ibid, p.75.)

マゾヒストのユーモアとは以下のようなものである。すなわち、欲望を実現させることを禁止し、それに違反するならば処罰を下す法そのものがいまや、まず処罰を下し、その帰結として欲望を満足させることを命じる法になるのである。(Ibid, p.78.)

説明していこう。まず、アイロニーとユーモアは法を転倒させるものである。法とは何か。ドゥルーズが法と言うとき、それは第二の自然という概念とセットになっていると考えてよい。第二の自然とは、すでに存在している法、決まりによって作り上げられた世界のことだ。この世界では、新しいものが生じてくることはない。なぜならそこでは、全ては既存の法や決まりに従っているからだ。そしてアイロニーとユーモアとは、こうした法や決まりを転倒させようという試みのことを意味する。

 ただし、法を転倒するために採る戦略が、アイロニーとユーモアとでは違っている。引用にあるように、アイロニーは「より高次の原理」への超出を目指す。ドゥルーズこうした原理を「第一の自然」とか「理念」とか呼んでいるが、要するにこれは、第二の自然を否定し尽くすこと(=「純粋否定」)を意味している。しかしながらこうした否定は、どこまでも行けるわけではない。限界がある。ドゥルーズはこの限界について次のように言っている。

実践において放蕩者〔サディスト〕は、その論証の総体を、第二の自然から借りてきた部分的で帰納的な方法によって説明するほかない、ということになる。(Ibid, p.26)

ここで「その論証」と言われているのは、第一の自然の論証のことを指す。つまり第二の自然を否定し尽くして、全く既存の法や決まりに従わない「猛り狂ったカオス」である第一の自然を論証しようとうすると、結局は第二の自然に頼らざるを得ないということだ。それはそうだろう。どんなに窮屈であったとしても、どんな決まりにも従わないということを実行することなんてできるだろうか。

 こうして話はユーモアへと移る。ユーモアは「帰結を深化させる技法」である。あくまで法に従いながら、従うことによって生じる帰結を、行けるとこまで持って行くのだ。否定は行けるところまで行こうとしても、結局のところ第二の自然の全体を否定し尽くすことはできず、「部分的暴力の運動の速度を増し、濃度を増すこと」しかできない。アイロニーは、行けるとこまで行こうとしても途中で挫折する。でもユーモアは違う。否定をしないからだ。表面上は法に従いながら、いや過剰に従いまくることで、すでに存在する決まりに従った世界を宙づりにし、「新たな地平」を開く。つまり、既存の決まりを肯定する/否定するというゲームを宙づりにしてそのゲームから降りて、全く別の新しいゲームを始めてしまうこと。あくまで決まりには従いながら。

 以上の議論を乱暴に要約すると、次のような三つの段階に分けて説明することができる。①第二の自然=既存の法や決まりに従った世界に甘んじている段階。単なる現状維持としての肯定(第一の肯定)。②アイロニーによる否定。とはいえこの否定は、行けるとこまで行こうとしても挫折する。③ユーモアによる新たな地平の開示。この段階において、あくまで法に従いながらも、単なる現状維持の肯定に堕することがないのは、②における否定の契機を経ているからである。つまりアイロニーによって既存の世界から距離を取ることができるので、法を肯定することが新たなゲームの開始につながるのである(第二の肯定)。もう十分であろう。ここからはいよいよ、以上の議論を月日さんの分析・批評に用いていくことにする。

 すでに本論の始めのほうで、月日さんにおいては否定的な月の極と肯定的な日の極が共存している、という基本図式を紹介しておいた。ドゥルーズの議論の確認終えた今、二つの図式を次のように対応づけることが可能になる。まず月の極とは、アイロニーのことである。そして日の極とは、現状維持の肯定のことである。ゆえにこれら二つが合わさった月日という名前は、月の極というアイロニーを含んでいることによって、肯定が単なる現状維持(第一の肯定)を脱し、新たな地平・ゲームを開示・開始するようなユーモラスな肯定(第二の肯定)を意味している。ひとまずこのような図式を示すことができる。しかしこれではあまりに話が抽象的に過ぎるので、月日さんのこれまでのアイドル活動の月日を辿ることで、この抽象的な図式に具体的な事例でもって肉付けを行っていきたい。

 月日さんがアイドル活動を開始したのは2011年、地元沖縄のRYUKYU IDOLのメンバーとしてであった。しかし、2013年にRYUKYU IDOLを脱退し、その後上京。2014年に濱野智史プロデュースのアイドルグループPIPに加入した。この時期の活動について私は直接見聞きしていないのであまり迂闊なことは言えないが、PIPではすでにアイドル歴があったことからセンターとして活躍していたと聞く。つまりこの時期の月日さんは、大まかに言えば、王道のアイドルとして、月の極を体現するような活動をしていたと言えるのではないだろうか。

 しかしこの時期も長くは続かない。2015年には濱野に対する不信感などからPIPを卒業し、その後RYUKYU IDOLに復帰。2016年以は正式メンバーとなると同時に、「もかろんちゃん」としてのソロ活動も開始した。ここで注目したいのはこのもかろんちゃんとしての活動である。この時の持ち歌の曲名が「超絶可憐!魔法少女もかろんちゃんは設定上14歳」であったことからも容易に見て取れるように、この活動は従来の王道アイドルをベタに志向したアイドル活動ではなく、アイドル文化を一歩引いて見やり、そうすることでキャラ設定を作り出したと言えるような活動であった。つまりここでは、いわゆる「普通の」アイドルイメージを否定するかのような活動をあえて行うというアイロニーが効いていたと言える(同じ曲を何度もライヴで歌う、MCでフロアを凍りつかせる、など)。

 この時点で、王道なアイドルを志向する日の極とそれをひっくり返すような月の極は、月日さんのなかにすでに存在していた。実際2017年のインタヴューで次のような発言がある。

正統派アイドルになりたい。変なMCとかしなければ、今でも正統派なんですよ! おしとやかにしておけば。でも、それじゃぁ面白くないから。ただ歌って帰るだけだったら、やる意味がないと思っています。最終的には、歌えて踊れて、ちゃんとできるのにもったいない、みたいな感じになりたいですね(「「“推し増し”は正義です」第十七回 魔法少女もかろんちゃんは14歳」

月日さんのアイロニーを、この引用から十分に感じ取ることができるだろう。

 さらに時間を進めよう。2017年いっぱいでRYUKYU IDOLを卒業。2018年になると、本とうたた寝。のメンバーとして活動を始める。そして2019年4月15日、本とうたた寝。の卒業と同時に、アイドルグループRAYに月日として加入することを発表するに至った。その後、5月1日よりRAYは活動を開始した。私は、RAYを運営しているのがかつて足しげく通っていた・・・・・・・・・(ドッツ)の運営であったことから、5月の中旬に下北沢で初めてRAYのライヴを見て、終演後に月日さんとチェキを撮り、そこから急速に月日さん単推しとなっていった。今でも、下北沢のライヴハウスの階段をのぼりながら「始まったな!」と叫んだことを鮮明に覚えている。

 それはさておき、RAYに加入して以降の月日さんには、重大な懸案事項が生じてきたように見える(まぁそれなりに以前から考えていたとはおもうが、とりわけ重大さが増してきた、ということだ)。それは冒頭ですでに触れておいたように、いかにしてアイドルにおける「未熟/成熟」という二項対立図式と向き合うのか、ということに他ならない。つまり彼女は現在、オタクはどちらかというと成長過程にあるアイドルを応援しがちなので、これまでの長いアイドルのキャリアがある自分のパフォーマンスやチェキ会での対応が褒められることは時にあっても、熱狂的に応援してくれるオタクはやはり少ないのではないか、という悩みを抱えている(これは私や他のオタクとの会話の内容を踏まえると間違いないと言ってよい)。どれだけ王道なアイドルとして成熟を重ねても、オタクは安心して推してはくれない、とはいえアイロニーを効かせて、もかろんちゃんのときのようなに未熟さにあえて居直るという戦略もまた危うい。結局のところ、そこでもやはり「未熟/成熟」という二項対立図式は前提されたままだからだ。このゲームから降りて、新たなゲームを始める必要がある。

 整理しよう。月日さんにおける日の極だけでも、月の極だけでも、「未熟/成熟」という二項対立図式は突破できない。それなりに色んなことを一定以上の水準でこなすアイドル(これは日の極に対応する)は多くいるし、その裏返しとして、よくあるアイドルイメージを逆手にとって、それを否定するような活動をするアイドルもまた、現在ではありふれたものになってしまっている(これは月の極に対応する)。だからこそ、ドゥルーズの議論を参照しつつ、次のように言わなければならない。月の極と日の極があわさった月日さんこそが、単なる既存の決まりや世界の追認にとどまらない新たな地平を開示し、固有のスタイルを獲得するために、「未熟/成熟」という二項対立図式を宙づりにすることができる。ただし、アイドルにおける決まりごとを否定することなく。あくまでそうした決まりに従いながら。これこそが月日さんにおいて肯定されるべき最良の部分であり、これを私はドゥルーズの議論を踏まえて「月日さんのユーモア」と呼んでおきたい。

 とはいえ、ここまでの抽象的な議論だけでは、月日さんのアイドル活動=実践において、あまり役には立たないだろう。決まりに従いながらも、それを宙づりにして新たな地平を開くアイドル活動のあり方。実例を一つ挙げよう。それもとびきりに有名な実例を。この例を見ていけば、月日さんはすでに新たな地平を開きつつあることも明らかにできるはずだ。ではこうした実例を提供してくれるアイドルグループとは何か。そのグループとはすなわち、SMAPである。

 まず前提として確認しておきたいのは、様々な点において、SMAPはジャニーズアイドルの新たな地平を開いた、ということだ。恐らく挙げ始めるときりがないのだろうが、例えば矢野利裕は次のような指摘を行っている。

SMAPの魅力とは、わざとらしいスター性ではなく、カジュアルな身近さにあった。八〇年代のアイドルの親しみやすさが「素人」に衣装を着せたもの、だったとしたら、SMAPの親しみやすさは現実の延長にあるような等身大のそれだ。(矢野利裕『ジャニーズと日本』160頁)

以上のことを確認した上で問題にするべきは、SMAPがこうした新たな地平の開示をどのようにして行ったか、である。そこで注目したいのが、ジャニーズアイドルにおいて、新たな活動が生まれるのを可能にしてきたものとして、ジャニーズにおけるブリコラージュを挙げている太田省一による指摘である。太田はブリコラージュを、「手元にある既存の道具や素材を使いながら、そこから全く新しい意味を持ったなにかを創造する行為」と定義した上で、次のように述べている。

ジャニー喜多川は、成長のためにジャニーズの少年たちをグループやユニットという新しい環境に放り込みつつ、一人ひとりにブリコラージュ的な創意工夫を求めているのではあるまいか。ブリコラージュの英訳は ”do it yourself" である。つまり、「あなたが自分でやりなさい」、ジャニー話法で言えば、「ユー、やっちゃいなよ」ということだ。(太田省一『ジャニーズの正体――エンターテインメントの戦後史』97-98頁)

こうしたジャニーズにおけるブリコラージュの精神、これこそがSMAPが新たな地平を開いていく際の基本原理になっていたのではないか。

 ただし、太田が指摘しているように、ジャニー喜多川のなかでは、このブリコラージュという概念は、成長とセットになっていた。つまり彼は、あくまで「未熟/成熟」という成長の図式を前提としていた。これに対してSMAPは、ジャニー喜多川のブリコラージュの精神を十分に発揮し(これにはSMAPがジャニーズのアイドルにしてはデビュー後思ったほど人気が出ずに苦しんだという事情も関係しているだろう)、ドラマや映画といった演技の領域だけでなく、バラエティにも進出するなどして、矢野が指摘していたように「現実の延長にあるような等身大の」親しみやすさを獲得していった。こうしたSMAPによる新たな地平の開示を、太田は平成という時代と重ねつつ、成長から成熟へ、という展開として捉えている。しかしこれでは、またもや「未熟/成熟」という図式に引き戻されてしまっているようにおもえてならない。ここではさらに踏み込んで、SMAPの親しみやすさとは「未熟/成熟」といった図式とは関係のない独自の質を持ったものであった、その意味でSMAPは新たなゲームを始めていたのだと言っておきたい。

 ともあれ、月日さんの活動について考えるにあたって重要な論点は、SMAPがジャニー喜多川の「ユー、やっちゃいなよ」という精神を否定するどころかジャニー以上に忠実にその精神に従った帰結として、もはや元のジャニーの考え方とは異なるアイドル活動像を打ち出すに至った、ということである(付言すれば、SMAPが解散を強いられることになった要因の一つは、事務所とメンバーのあいだに生じたこうした解離ではなかったか)。そして私はここに、月日さんがジャニーズアイドルを、その中でもとりわけSMAPを愛しているということの必然性を見る(以前月日さんはトークイベントにおいて、「自分の夢はSMAPと共演すること」とまで言っていた)。どういうことか。

 ここまで私は月日さんを批評することで、そこに含まれた肯定すべき最良の部分として、「月日さんのユーモア」を見出した。そしてSMAPがブリコラージュによって新たな地平を開示した様を踏まえれば、そこに「SMAPのユーモア」があったと指摘することができるだろう。決まりに従いながら、従いまくりながら、既存の図式を宙づりにし、新たな地平を開示すること。こうした点において、SMAPと月日さんは共通している。いや、正確に言えば少し違いがある。SMAPはこれまで新たな地平をすでに開示してきたのに対し、月日さんはまさに今、新たな地平を開示しつつある、その過程の真っただ中にあるという違いである。

 新たな地平を開示しつつある過程がまさにリアルタイムで進行しているとき、当の本人はそこで何が起きていて、何が起きようとしているのかを把握しにくい。だからこそ私はここで批評という外からの言葉を与え、この過程をある一つの仕方でできるだけ明らかにしようと試みてきた。とはいえ、月日さん自身が何も掴んでいないわけがない。というのも彼女は、「演技がやりたい」という欲望を語ることによって、「月日さんのユーモア」の具体的な内実を指し示しているようにおもえるからだ。

 とはいえ、演技をしたい、女優になりたい、と聞けば、アイドル活動から女優業へという成長の図式がまた回帰しているではないか、とおもわれるかもしれない。しかし全然違うのだ。それはこれまでさんざん論じてきたように、月日さんにはユーモアがあるからだし、ここにこそ彼女がRAYというグループにおいて活動している必然性がある。RAYは正確にはグループアイドルでもソロアイドルでもない、「プロジェクトアイドル」と定義されている。その狙いは、グループとしての夢と個人としての夢を同時に実現させていくということにある。つまり、未熟なアイドルグループのメンバーから成熟した個人としての女優へ、という成長の図式がそこでは宙づりにされている。RAYにおいてはこれらは同時に、しかも不可分の形で活動に含まれる。演技で得た経験はアイドルとしてのパフォーマンスに還元されるし、その逆もまた然りである。こうして、アイドル活動と女優業とをもはや両者を明確に切り分けることが出来ないようなかたちで往還するという新たな活動の地平が、月日さんにおいて開示されるのではないか。

 さて、本論もようやく終わりが近づいてきた。もしこれまでの議論が正しかったとして、私は(厚かましいながらも)月日さんにどのような言葉を投げかけることができるだろうか。それは一言でいえばこうなる。月日さんは自分自身を肯定するべきだしできるしできている。絶対に。ただしこれは、単なる自己満足、現状維持を勧めることを意味しない。そうではなく、月日さんの最良の部分であるように私にはおもえるユーモアを発揮し、新たな地平を開示するための肯定である。そしてその際には、すでにある決まり、既存のアイドルの常識をわざわざ否定するという身振りは必要ない。すでに月日さんはもかろんちゃんとしての活動を通じて、アイロニーを十分身につけている。だからこれからやるべきは、表面上はアイドルの決まりに従いながら、「未熟/成熟」という図式を宙づりにして、アイドルをすることが女優をすることでもあり、女優をすることがアイドルをすることでもあるような新たな地平へと到達することだし、今まさに到達する過程の真っただ中にいる。そしてRAYはそれをやるためには最良の環境だ。だからあなたがアイドルに女優にと、こちらがひやひやするくらいの真摯さでこれからも活動をしている限り、本論で述べてきた意味において、あなたはあなた自身を肯定し続けることができている。絶対にだ。

 


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