古村雪「ポストスーパーフラット・アートスクール成果展ファン投票最優秀作品『会いに行け アイドル(2035年)』作者解説」を読む(2017.09.17)

 タイトルが長くてすみません。今回の記事は、・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)のコンセプト担当である古村雪さんが2014年に書いた「ポストスーパーフラット・アートスクール成果展ファン投票最優秀作品『会いに行け アイドル(2035年)』作者解説」(以下、「作者解説」と表記)の一部を読んでいき、そこから読み取れる内容とドッツのコンセプトとの関連について探っていく、というものです。少し長めになります。

 「作者解説」はその名の通り、「会いに行け アイドル(2035年)」という作品の解説になっています。だから、まずはこの作品がどんな作品であるのかということについて、簡単に確認しておく必要があります。始めましょう。

  「会いに行け アイドル(2035年)」とは何か
 この作品は、その名の通りアイドルをテーマにしています。チェキが撮れます。しかしそれは、どのようなアイドルでしょうか。実体はありません。存在はしていません。歌いもしなければ笑いもしません。何があるのでしょうか。情報です。「名前と生没年月日がスタンプされた、振動する木の箱」、および箱の上の「名前と生年月日がレーザー彫刻された、匂いが塗り込められた木の板」が存在する。これをアイドルに見立てます。この「アイドル」は庭園の下に埋まっていて(「地下」アイドル!)、木の箱は振動しています。観客はこのアイドルたちの内から一人を指名し、木の板を持ってきてチェキを撮るという流れになります。以上がとてもざっくりとした作品の説明になります。すでにドッツとの様々な関連を指摘したくなるところですが、それは今から個別のトピックを取り上げる際に論じることにして、次に進みたいと思います。

アイドルの公共性
 「会いに行け アイドル(2035年)」においてアイドルと見立てられている女の子たちは、東日本大震災の死者が生んでいたかもしれない子供たち、東日本大震災が起こらなければ存在していたかもしれない、想像力の中だけの存在です。古村はこうした設定を通じて、東日本大震災における死者たちの表象不可能性に対処することを目論んでいます。説明を端折りすぎているので何だかよくわからないかもしれませんが、ひとまずこうした試みがなされた前提として、アイドルは公共性を有しているという古村の確信がある、ということを押さえれば十分です。ではこのアイドルの公共性とはどんなものでしょうか。

  古村はアイドルの公共性に関して、以下の三点を指摘しています(以下は私によるパラフレーズになります)。

 

① 地下アイドルにおいては、アイドル自身、ファン、運営の「三者」がそれぞれの欲望をアイドルの身体を通じて満たそうとする。ここでは、偏った欲望を通すことはアイドルという「実験場」自体の存続可能性を低下させるので、皆に自制が働く。

② アイドルの身体パフォーマンスは、嗜好がバラバラであるはずのファンたちを共存させる。また、アイドル-ファンやファン間での双方向的なコミュニケーションによりバラバラのまま一体感を感じることができる。さらにこうした現場及びSNSでのコミュニケーションは「三者」それぞれの価値観を変容させていくし、そこでは自制も働く。

③ 地下アイドル文化は「三者」から成る運命共同体的な文化であるが、資本主義的なビジネスの論理や恋愛禁止ルールなどにより、「三者」同士の一体化は不全に終わり外傷を負う。しかし同時に、こうした「三者」の外傷による負荷が過大にならないように調整が行われもする。

 

ここに「都市」という問題系はまだ姿を現していませんが、アイドルにおける公共性を考えること、このことが「都市計画としてのアイドル」という着想へとつながることは言うまでもありません(あるいはこの時点ですでにそうした着想の萌芽があったかもしれません)。①から③までの全ての論点に関してまずこのことを指摘しておきます。

 次に、①と②は、「ポストモダン的な価値の多様性の容認+自生的=自制的な秩序」という形でまとめることができるでしょう。現代においてあまりに価値観は多様化しています(「大きな物語」の消失)し、そのなかでどれが「本物」だとか争っても栓無いことです。こうした状況の中で、アイドル文化においては、様々な価値観の多様性を担保しつつ(=「好きなことだけでいいです」)、しかしそこに自制を働かせるような秩序が生じることにより、バラバラでありながら、一体感を感じ、共存することが可能になるのです。

 こうしたアイドルの公共性(①と②)は十分評価されるべきでしょう。しかし、ドッツはここから一歩踏み出そうとしています。それはつまり、タコツボ化に抗い、アイドルを再び普遍的なものに、みんなのものにすることです。ここから「都市計画としてのアイドル」という着想は生まれてくるでしょう(この点は以前の記事で確認しました)。また、アイドルを再びみんなのものにするということは、現場と在宅の壁を壊すということでもあります。この試みは、HeartSyncというアプリによって、視覚でもなく、聴覚でもなく(これらは現場において「直接的に現前」している)、触覚を転送していることからも窺えます(「存在」ではなく「存在感」を転送する)。もちろんアイドルを都市化することは、いつでもそこかしこでアイドルを「観測」できるということなので、結局これは現場と在宅の壁を壊すということと一体なのです。

 ③に進みましょう。実は古村自身が「作品解説」において最も強調しているアイドルの公共性はこれです。「ここを強調したアイドル論を私は読んだことがありません」。確かに!さらに引用を続けます。

 アイドル文化に私が着目するのは、資本主義や性愛がもたらす外傷や疎外をこそ公共性の契機へと転換する、もしくは利己主義がいつの間にか利他的振舞いへと接続される、そういったアクロバットが随所に散りばめられているからです。

 この記述に私が付け加えることは何一つありません。ただし、注意してください。アイドルが、外傷や疎外を、あるいは利己主義を、無化するという話にはなっていないのです。それらは所与です。避けることのできないものです。そんななか、私たちはよくわからないままにとりあえず生きている。生きていく。でもそんななか、アイドル文化はそれらの所与を公共性の方へと、利他的な振舞いへと、要するに他者へと、転換させる。これこそがここで評価されているところのアイドル文化におけるアクロバットです。

 私見では、この三つ目のアイドルの公共性にかんする論点は、1stワンマンにおけるキーワード、「さよならノイズ」という言葉を理解する上での前提の一つになり得るものです。しかし、古村自身が「この点は「臭い」に関する論で再び触れましょう」と述べていることからもわかるように、「臭い」についての議論と併せて考えられるべきでしょう。次に移ります。

臭いという感覚へアプローチする
 古村は、「嗅覚の特性や臭い分子の思想性」にかんして、以下の三点を指摘しています(再びパラフレーズになります)。

 

① 臭い分子は、近接する限りで付着し、その後接着し続ける。

② しかし臭いの感覚はだんだん消える=対象との一体化が不全に終わる外傷体験

③ 後で同じ種類の臭いを嗅ぐと、記憶が甦るだけでなく、再び対象との一体化とその不全を反復することができる

 

先ほど確認したアイドルの公共性③とは、一体化の不全から外傷が生じ、そのから、外傷による負担の行き過ぎを抑制する調整が働くということでした。そして臭いはある程度持続するものなので、アイドルと近接=接触したあとも臭いを嗅ぐたびに、一体化とその不全を反復すること、つまり、「現場から離れた状態で公共性を再発させること」が可能になるのです。ドッツの「五感チェキ」において臭いが活用されていることはこうした背景があります。

 では、以上のような議論から「さよならノイズ」という言葉についてどのように考えることができるでしょうか。まず、チェキ券についた臭い分子がだんだん消えていってしまうように、アイドルとは必ずすれ違います。一体化は不発に終わります。こうして、アイドルは強い意味で「他者」であることに思い至る。このあたりの事情を古村は次のように述べています。

 まず偶然の恋がある〔=一体化へ〕。異質な他者に近付こうとするのではなく、恋をした相手が他者だと気づいてしまう〔=一体化の不発の自覚〕。その後、相手を「私とは同じでない」〔=他者である〕と遠ざけることで公共性を打ち立てる。ここでは公共性の根元を、「自分とは違うやり方で幸せに生きる人間を受け入れる気持ち」ではなく、「既に受け入れた相手が自分とは違うやり方で生きることを幸せに思う気持ち」へと置き換えています。

 ここに、アイドルを好きになるという利己的な行動(批判的なニュアンスはありません。誰しも利己的であらざるを得ないので)が、利他的な振舞いへと転ずる様を見て取ることができます。

 アイドルは他者です。だから必ずすれ違う。病む。それが都市となっていて、いつでも、どこでも観測されうる・ちゃんであっても。だから再び「観測」したくなる。そして他者への思いやりもまた生じる。「他者を思いやりなさい」という自分なんかには到底守れなさそうな命法がまず最初に来るのではない。かなりの程度偶然に左右されながら、私は・ちゃんを受け入れ、チェキ券を買うことを決意する。なんかいいかも。次もまた買ってみる。これはいい。何度も繰り返す。名前を覚えてもらえた。うれしい。でもそれでもやっぱり、すれ違う。・ちゃんは他者だから。とはいえもうすでに受け入れている。好きになっている。・ちゃんは自分とは全然違うし、上手く話せなかったりよくわからかったりすることもあるけれど、愛しいと感じている。今は他者との埋めることの出来ない懸隔とそれなりに上手くやっていけているかのように感じていると同時に、他者によって変容した自分自身にも出会い直す。「君は君になる」。

 普通の公共性からは考えられないほど小さな公共性かもしれません。でも、これだけ価値観が多様化した世界で、「これだ」と上から公共性を課していこうとすることに、いったいどれほどの有効性があるというのでしょうか。アイドル文化においては、対象との同一化、その不可能性の自覚=アイドルが他者であることの自覚を経て小さな公共性が様々に生じ、アイドル、運営、ファンの三者間でなされるコミュニケーションを介してこれらの公共性が接続され、さらにまた再びすれ違いが生じて切断されます。これが繰り返されていきます。この過程で、二度すれ違いが登場していますが、これらすれ違いのおかげで小さな公共性は生じ(第一のそれ)、さらに新たな接続へと向かいます(第二のそれ)。さよならの場面はいつでも訪れている。さよならの時にはノイズが人間から漏れる。アイドルのいる毎日は、「さよならノイズ」の連続に他ならないのです。

1stワンマンについてもう一言
    「さよならノイズ」という言葉にこだわってきたので、ワンマンにかんしてもう少し述べておきます。ワンマン中の映像で、SNSの妖精さんが、「これまでは・ちゃんが都市になったが、これからは・ちゃんが都市を作る」というような趣旨のことを言っていました。このことは「サテライト」および「東京マヌカン-コピー」のバックで流れていた映像で視覚的に表現されていたので、それらと絡めながら確認していきます。

    まず「サテライト」では、初めのうち後ろで流れていた都市の映像は「モノクロ」でした。これは近代化による画一化した都市とか、検索ツールの発展によって行動や視線があらかじめ方向付けられていて、もはや都市の風景に目を凝らしたりはしないといったこととかを表していると考えられます。しかし、・ちゃんの都市化によって、「僕と君が繋がり続ける」=アイドルを身に纏うという状況が成立していくことで、都市の映像は「カラフルな世界」になります(satelliteは「衛星」と訳すことが多いですが、もともと「随伴者」というような意味があります)。このようにして、「サテライト」においては、歌詞と背後の映像とによって、「・ちゃんが都市になる」という状態が表現されていたわけです。

 これが「東京マヌカン-コピー」になると、もとから映像はカラフルで、曲が進んでいくにつれて普通に知覚する色合いとは違って色が濃くなっていく都市が映し出されていました。・ちゃんたちが都市をモノクロからカラフルに戻すだけではなくて、私たちによる都市の知覚を変容させていくということであり、これこそが「・ちゃんが都市を作る=都市開発する」という事態に他ならないのでしょう。しかし知覚を変容させるとはどういうことでしょうか。多分これは普通の意味での都市開発を考えたらよくわからなくなると思うので、最近たまたま読んだ「『東京の〈際〉』を制作せよ」という文章の上妻世海さんの説明を借りておきます。 

異なる関係への媒介を制作することは関係の束としての都市開発を意味している。それは人々の生活と共にある都市を開発することであり、都市への魅惑を制作することを意味しているのだ。

ここで言われている「都市への魅惑」という言葉を「・ちゃん」に読み替えたいという誘惑にどうしても駆られてしまう一節です。ドッツのアイドル活動は都市への魅惑としての・ちゃんを制作することではないでしょうか。・ちゃんは都市なのだからそこから自ずと都市への魅惑や愛着が生じます。そしてこうした・ちゃんという他者の媒介を経て、ドッツオタたちは今までは関わるはずのなかった場所・人・モノと関わり合うことになります。ドッツオタたちそれぞれにとっての関係としての都市はこうして変容を遂げる。これはやはり、「関係の束としての都市開発」と言ってしまっていいのではないかと思ってしまいます。そして、こうした変容を経れば、自ずと都市についての知覚も変容し、今まで目につかなかったものが目に入ってくるなどして、都市の色合いは変化するでしょう。

 とはいえ、こうしたドッツの「第二フェーズ」とも言える取り組みはこれから本格的に始まっていくのでしょうから、焦らずに今後の活動に注目していく必要があるでしょう。まずは電車を貸し切って行われるというイベントが気になるところです。

最後に少しだけ
    前の節までで、かなりの文字数になってしまいました。まあまあ長い。正直適当に読み流してもらったらと思いますが、内容はともかくとして、これほど色々なことを書き連ねたくなるような魅力がドッツにはあるのだということが少しでも伝わればと思います(もちろんドッツの魅力をこんな形で表現しなければならないということは決してありません)。あと、アイドルについて考察とか深読みをするという文章は数多ありますが、ドッツを好きになったやつが文章を書くと、なんか他のものとは少し様子が違うぞ、いやむしろ、ドッツ特有の盛り上がり方があるぞ、ということをなんとなく察して頂けると書いた人は嬉しくなります。もちろんここに書かれてあったことは他の人が考えたことをなぞっているだけなので、とにかくこれだけ書かせるドッツ運営が、・ちゃんが偉いのです。こうしてファンである私は確実にアイドルと運営によって変容させられました。だからファンによるこの文章が、アイドル・運営・ファンの三者の絡み合いの中に多少なりとも変容をもたらすことを願います。

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