ドッツ5thワンマン「Tokyo in Picture」について(2018.02.17)

 ・・・・・・・・・(以下、ドッツと表記)の5thワンマンが、2月19日に行われます。以下では、「Tokyo in Picture」というタイトルに込められた意味、そしてこのワンマンが「時代に逆行する」ライブであると予告されていることの意味、これらのことを考えてみます。

 ここで手掛かりにしていきたいのは、ワンマンのフライヤーに書かれてある言葉です。そこには次のように書かれてあります。「絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ」。謎めいた文章です。この文章の自分なりの解釈が出せるというところまで行ってみたいとおもいます。

 まず、ワンマンと関連しているはずのものとして、二つのものを取り上げていきます。一つ目は、2月6日に公開された、「きみにおちるよる」という曲のMVです。


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このMV、まず目につくのは3:4の画面アスペクト比です。これは当然映画(picture)のアスペクト比を意識したものでしょう。このMVで面白いのは、疾走感のある楽曲であるにもかかわらず、メンバーの・ちゃんたちは基本的に動きがほとんどない、ということです。このことは、普段のライブで疾走感のある振付を見慣れている人には、新鮮な印象を与えたのではないでしょうか。 

 では、このMVにおいて、疾走しているものはなにもないのでしょうか。もちろんそんなことはなく、・ちゃんの周囲では都市の景色が高速で流れています。つまり、このMVでは・ちゃんたちの代わりに、都市が楽曲に合わせて疾走しているのです。それだけではありません。1分40秒以降の10秒くらいを見てもらいたいのですが、ここでは躍動感あふれる・ちゃんの振り付けと疾走する都市とが、重なり合うことなく交互に映し出されています。都市も・ちゃんも共に曲に合わせて動くということを表現しながらも、まだはっきりとこの2つは区別されているわけです。しかし、3分20秒あたりになると、もはや・ちゃんと都市との区別が曖昧になっています。両者が実は表裏一体の関係にあるということが示唆されているわけです。

 以上のようなMVについての短い考察から何が導きだされるでしょうか。①このMVはそもそも「Tokyo in Picture」であるということ(画面アスペクト比からわかる)。②このMVはライブのパフォーマンスと対照的に、・ちゃんたちはほとんど動かず、それゆえに新鮮な印象を与えてくれること。③このMVそのものが都市と・ちゃんとが表裏一体であることを表現しているということ。

 以上3つのうち、③についてはドッツのコンセプトをよく表しているといえます。つまり都市としてのアイドル、ということです。コンセプト担当の説明では、この都市=アイドルは、情報や人やモノを生み出すエネルギー=流れであると規定されています。女の子としての・ちゃんは、こうしたエネルギーが私たちに観測されている一つの形態に他なりません。当然、他の観測のされ方もあります。picture(絵画、写真、映画)、つまりは画像や動画も、こうした都市=アイドルが観測されている一つの形態であり、それゆえに、女の子としての・ちゃんと画像や動画の中の・ちゃん(Tokyo in Picture)は、等価であるといえるのです。

 この女の子と画像・動画の等価性は、②に少し関係しているでしょう。つまり、MVは現場でのパフォーマンスの予習のためのもの、現場でのオリジナルな体験に対するコピーではなく、現場でのパフォーマンスと等価なもの、それとは別の体験をもたらすものとして、捉えられているはずなのです。とはいえ、MVがライブパフォーマンスと違うものであるというのは、別にどのアイドルでも同じことです。同じ動画でもライブ動画にかんしては、現場=オリジナル/画像・動画=コピーという関係は崩せないのではないか、そんな疑問が直ちに思い浮かびます。これに応答するためには、もう一つのドッツのコンテンツについて考える必要がありそうです。

 1月30日に「Haptic Video」というものが公開されました。これは、ライブ動画に、パフォーマンス時の・ちゃんの鼓動が連動してスマートフォンが振動する、というものです。ライブ動画というものは、現場でのオリジナルな体験の代替物=コピーである、という捉え方が一般的だとおもいますが、この「Haptic Video」は、動画に現場では決して体験できない・ちゃんの鼓動という新たな要素を付加することで、前述したオリジナル/コピーの関係を揺るがすことを志向しているように見受けられます。つまり現場の女の子としての・ちゃんと画像・動画の中の・ちゃんは等価である、というわけです。

 さて、以上の検討を経ると、冒頭で挙げたフライヤーの文章が、明確な意味を持つものとして立ち現れてきます。もう一回引用しておきましょう。

絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ。

ここには2回「彼女」という言葉が出てきていますが、これは当然別々の「彼女」を指しているはずです。ここを押さえればこの文章は「Tokyo in Picture」の説明文であることが明らかになります。まず一つ目の彼女、これは女の子としての・ちゃんです。で、二つ目が画像や映像の中の・ちゃん(Tokyo in Picture)です。

 このように考えたとき、この文章は普通の人と画像・映像との関係が逆転していることに気づきます。普通は、人がいて、その人による現場でのパフォーマンスがあって(これがオリジナル)、そうした人やパフォーマンスのコピーとしての、「生き写し」としての画像や映像がある、という関係になっています。しかしここでは反対に、女の子としての・ちゃんのほうこそが、画像や映像の中の・ちゃんの「生き写し」であると書いてある、というように解釈できるのです。

 これはどのような意味で「時代に逆行」しているのでしょうか。現在画像や映像は、アイドルの楽しみ方において、現場での体験を補完するものとして、盛んに活用されています。今後もますます活用され、それらが与える体験はますますリアルなものになっていくでしょう。しかしながら、その根底において、画像や映像が最もリアルな現場での体験のコピーでしかないという価値観は、ほとんどと言っていいほど揺らいでいないように見受けられるのです。ドッツの賭け金はおそらくここにある。つまり、「時代に逆行」しこうした価値観を転倒させるというまさに「反時代的」な試みを目論んでいるはずなのです(この価値観こそが、「現場至上主義」という言葉でマークされているものに他ならないのだと私はおもっています)。

 とはいえこのような言葉を重ねているともはや現場での体験が必要ではない、と言いたいかのようにおもわれてしまうかもしれません。そうではないのです。あくまで現場での体験はその他のものと等価だと言っているまでです。それどころか、女の子としての・ちゃんとそれと等価な画像や映像とを貫くエネルギーこそが都市=アイドルであるなら、それを応援する側もそうした女の子のパフォーマンスとそれを映した画像や映像とを往還することによって、ますますそのアイドルを楽しむことができ、こうした往還運動のなかでますます両者は反射し合うかのようにその魅力を高めていくはずです。

 何だか難しげに言ってしまった気がしますが、要するに女の子としての・ちゃんの個性やパフォーマンスがあってこそ、それを映した画像や映像が活きてくるし、反対に画像や映像を見ることによってまたそれが現場での体験にフィールドバックされるという、女の子=オリジナル/画像・映像=コピーという関係には汲み尽くすことのできない素敵な関係を考えることができるのではないか、ということです。

 とかなんとか言っているうちに文章がすこし長くなってきました。本当はまだまだ長く書きたかったのですが、もうワンマンは明後日なのでやめます。万が一この文章を読んで下さったかたでまだ予約をされていない方はぜひ予約を!これだけ伝われば十分です。というわけで最後に予約ページのリンクを貼ってこの文章はおしまいにします。


tokyo-in-picture.peatix.com

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