Tokyo in Picture、時代に逆行するアートとしての(2018.03.23)

絵画のように生まれ、映画みたいに生きた、まるで彼女は、彼女の生き写しだ。

(「Tokyo in Picture」フライヤー)

 

君に出会ったーー取り返しようのないくらい。

幻でもなく、間違いでもなく、たしかに。

………

求めてるのはハートだけ。

差し出せるのはアートだけーーそうでしょう?

(For Tracy Hyde「Theme for "he(r)art"」)

 

 緊張と興奮が入り混じるなかほとんどうわの空で入口での説明を聞き流しつつリーフレットを受け取って右側に向きを変えて数歩進んだそのとき。「あれ」はたしかにそこにあった。「fixed variables」と名付けられたその絵画の中には5人の女の子がいて、入場してきたひとたちの視線をことごとく釘づけにしていた(終演後には6人に増えていた)。

 誰もが、その女の子たちを見るのは(基本的に)初めてだった。にもかかわらずその女の子たちは、もっと前から知っていて、なおかつ特別な思いを寄せている「彼女」たちのことをおのずと想起させた。というのも、そこにいた女の子はそれぞれ、目元以外の部分を除けば「彼女」たち、つまり私たちがいつも「・ちゃん」と呼んでいる女の子たちに、そっくりであるようにおもわれたからだ。そのとき私たちは、「君に出会った」。それは初めてのような、何十回、何百回目のような、そのどちらでもあるようなないような、そんなよくわからない出会いだったが、それでもやっぱり「たしか」でなおかつ圧倒的なものだった。

 こうして入場後早々に強い印象を植え付けられながらもとりあえずメインステージのある5階に降りると、ステージ上にはすでに・ちゃんたちがソファーに座っていた。時折移動するものの、基本的には作品としてじっとそこにたたずんでいる。このワンマンの日についてだけいえば、「彼女」たちはまさに「絵画のように生まれ」たのだ。当然ライブパフォーマンスが始まれば、動き出し、「映画みたいに生き」るだろう。そして入口で「彼女」(=目元以外は・ちゃんによく似た女の子)たちの絵画を見た以上、「彼女」(=・ちゃん)たちが映画のように動き出して生きている姿は、「彼女」(=目元以外は・ちゃんによく似た女の子)たちの「生き写し」と感じられるだろう。ここでは絵画がオリジナルのコピーであるという通常考えられる関係は逆転し、揺らいでいる。

 話をワンマンの当日に戻そう。一通り・ちゃんたちを眺めた後、少し落ち着くためにアルコールを流し込みながら入口でもらったリーフレットを開いてみると、さっきみた「fixed variables」はじめとする絵画に加え、これまで発売されてきたシングル(CDあるいは虫かご)や・ちゃんたちの作品、あるいは衣装などに番号が付されていることに気が付く。ここまでが作品番号1から24なのだが、25番以降はセットリストになっており、それらのタイトルは普段通りの曲名であったり別のものであったりした。そして最後の45番のタイトルは「cheki」。最後に写真(picture)を撮って、「Tokyo in Pictutre」が締めくくられるというわけだ。しかもこのワンマンは「時代に逆行するライブ」と銘打たれていたが、作品番号25から43にわたるライブパートが進むにつれ、各作品に付された年号が下っていくようになっている(ちなみのこの年号は、普段とは別のタイトルをつける際の元ネタになっている芸術作品がつくられた年号に対応している)。よくできてるな…。

 でもこうしたワンマンの構成が素晴らしいのは何もこれだけではない。「Tokyo in Picture」という展覧会の作品として、絵画やCD、女の子たちパフォーマンス等々を等値することによって、都市のエネルギーが女の子やモノのように様々な仕方で観測される/されうるというドッツのコンセプトが、このワンマンの構成によって体現されているのだ。このようにコンセプトを形あるものとして具現化しているという意味においても、「Tokyo in Picture」はまさに芸術作品であったのだといえる。

 また、「fixed variables」という絵画についても語るべきことが多くある。そこに描きこまれた建物の入り口にある、マンションの名前が書いてあるみたいみたいなプレート。そこには「Et In Tokyo Ego」と記されてあった。直訳すると、「私は東京にもいる」。この言葉は絵画のタイトル「fixed variables」と響きあっている。ドッツ運営は、・ちゃんは一人当たり東京の女の子10万人に相当すると説明している。そうした多くの女の子たちの個性が各・ちゃんに重ね合わされた結果、・ちゃんの目元はなんだか黒っぽくなっているのだ。で、この重ね合わせの状態の時が「変数(variable)」と表現されるとするならば、絵画の中のように特定の一人の女の子に収束している場合は「固定された変数(fixed variable)」となる。こうして観測される女の子が複数描きこまれているので、その絵画はまさに「fixed variables」と呼ばれるにふさわしい。またそれゆえに諸変数は別様に固定=観測されうる。「私は東京にもいる」。

 さらに「Et In Tokyo Ego」という言葉には元ネタがある。それはプッサンという画家の作品、「アルカディアの牧人たち」の中に描きこまれた、「Et In Arcadia Ego」という言葉だ((ワンマン会場にあった作品解説では、参照されるべきもう一つの作品として、ベラスケスの「侍女たち」が挙げられていた。エレベーターの中からこちらをみている女の子が、「侍女たち」における鏡に映る国王夫妻、あるいは階段からこちらを見ている男性に対応するという点で、構図上の類似を見出すことができる。))。このアルカディアという地名と私(Ego)という言葉が何を意味するのかはウィキペディアに書いてあるので割愛。ここで注目したいのは、「fixed variables」という作品がただこの言葉を参照しているだけでなく、その絵画における構図をも参照しているということだ。女の子たちのポーズやその配置の仕方あるいは周囲に配置された静物や背後の建物とそこに差し込む光と影、こうした様々な要素を駆使して、画布の中に正五角形や三角形といった形を見出すことが可能になっている。こうしたプッサンの絵画にみられるような壮大な画面構成は、油画が日本に受容された後も定着しなかったそうだ。ゆえに「fixed variables」は、こうした西洋の油絵の王道へ立ち返っている、つまり「時代に逆行」しているのだといえる。

 とはいえただ先祖返りしているというのではもちろんない。日本の画家によって、しかもアイドルという非常に日本的な現代の偶像が、こうした西洋の王道的な形式で描かれているがゆえに、この作品は確実に新しい表現たりえている。王道を徹底することによる新しさ。正統派なのにへんてこ。ここにドッツとの相似を見出すことはそう難しくないだろう((かつてBiSとデュシャンの「泉」が似ていて、それゆえにBiS以後のアイドルは現代アートに対応しているなどと考えてみたことがあったが、このことと併せて考えてみれば、ここで指摘した相似についてさらに踏みこんだ考察が可能になるかもしれない。))。「fixed variables」という絵画も、ドッツというアイドルグループも、ともに時代に逆行するアートに他ならない。私たちがあのとき差し出されていたのは、こうしたアートだったのだ。

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