『ab- ストリップのタイムライン』を読んだ

 タイムライン、と聞くとすぐに、Twitterとかのことを思い浮かべてしまう。けれどこの本は多分、色んな人のツイートが一つの画面に統合されて流れていくあのタイムラインというよりかは、あえて時間軸、と硬めに言い直してみたときに思い起こされるような、別々の世界の色んな時間の流れが特に一つに統合されるでもなくあくまでもバラバラに散らばっている感じこそ、似合っているのだろう。

 結城さんの「写真に触れる」では、もう誰が写っているのかがわからなくなってしまった写真の話をしていた。しばらくして、この本の表紙をめくれば「album」と書かれていたことに後から気が付いた。この本に載っている写真も、文章も、いつかは何が写っているのか、誰が何のことを言っているのか、わからなくなる。そもそも本である以上、いつかは形を失って土に還るだろう。それでも、それぞれのタイムラインには、それぞれの手触りがあり、その内容が理解できるとかできないとか、同意できるとかできないとかいう以前に、「感動して涙が出た」というようなお仕着せの説明では到底尽くせないような出来事がそれぞれに生じていたことを、容易に了解できるだろう。

 昔からずっと死ぬのが怖かった。今でもふとした瞬間に、自分がいつかは死んでしまうのだという事実に打ち震えて茫然自失してしまう。そんな調子だから、「何かを残す」という行為全般に対して、ずっと「結局ごまかしじゃないか」という疑念を拭いきれずにここまできた。何かを残して繋いだところで、いつかはその繋がりだって途絶えてしまう。そんなものに何かを託すのはいつかやってくる死を見ないためのごまかしではないのか。「気晴らし」でしかないのではないか。それでも。自分が何かを作り、残そうとするようになったこともあり、少しずつ変化が生じてきていることもたしかだ。何かを作ることで、作ったからこそ、それがいつか消えて跡形もなくなることをあらかじめ納得できる方向に、少しは近づいている気がする。

 開かれ、やがて閉じられるもの。それは何よりも本のことであるし、踊り子さんの股のことでもあるだろう。これにもう一つ、生を付け加えることができる。気が付いたら開かれていた私たちの生も、やがて閉じられる。このことをどう考えるか、未だに何もわからない。ただ、以前とは少し違ったところから、考えられそうな気もしている。とにかく今は、死を考えるために、生を考えている。そこにはどうしても、性を考えることも含まれてくる。

 とりとめのない、バラバラの、覚え書き。ストリップやそれにまつわるあれこれは、それでいいやと思わせてくれる。最近はしばらく劇場に行っていないし、それで一向に構わないとも思っているが、しばらくしてどうしようもなく行きたくなる可能性もあるし、それになによりも生や性を考える一つの曲がり角になったことはたしかだ。とりあえず、この本を一度開いてみたらいいんじゃないだろうか。それで何を思ったか劇場に行ってみてもいいんじゃないだろうか。何であれ、何かが開かれると、何だかんだいって、楽しいから。


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