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【雑記】それマンガですよ

 Twitterで物議をかもす感じのマンガを描いていた人が、マンガ以外の部分で批判されているという話が流れてきた。批判されている行動に関して擁護する気はないが、気になったのは「あの人が描いているのはマンガではない」という批判があることだ。その理由は「文字が多いから」だそうだが、まったく同意できない。マンガ表現はそんな狭量ではないからだ。


あれもマンガ、これもマンガ

 マンガの条件とはなんだろうか。
 わたしはコマ(時間・空間)、キャラ(人物)、アクション(言動)の3つがあることだと考えている。あるコマのなかでキャラが動いたりしゃべったりしていれば、1コマでもマンガであると考える。文字(セリフ)が多いとか、ストーリーが一般的ではないとか、政治的であるといったことで「マンガではない」と断ずることはできない

 くわえて、マンガ表現はいまなお変化を続けている。とくにデジタルが普及してからは様々な表現方法が模索されている。
 たとえばスケラッコ氏の「平太郎に怖いものはない」は、マンガのコマが動く。トーチweb上でしか動いているコマを見ることはできないが、これも新しい表現で、もちろんマンガである。

 クイックオバケ氏の作品はコマの上をキャラが動き回る。アニメーションともいえるが、コマ・キャラ・アクションがあるのでマンガであるともいえる。

 ほかにもデジタルでならではの表現方法が次々と現れている。マンガ表現はこれからも変化し続けるだろう。マンガの未来のためにも、表現の幅を決めてかかるような「〇〇だからマンガではない」という決めつけは慎むべきではないか


同じ穴のむじなにならないために

 幻冬舎社長の見城徹が作家・津原泰水の実売部数を公表したことで問題になった。津原氏は幻冬舎のある作品を巡って論争を行っており、見城氏の行動は津原氏を「売れない作家」とすることで発言の信ぴょう性を下げようとしたように取れる。
 見城氏の行動について、ネット上では様々な批判が寄せられ、見城氏はTwitterでの発信をやめることになった。

 だが、見城氏と「〇〇はマンガではない」と批判する人にどれだけの違いがあるだろうか。気に入らない主張をする作家に「売れてない」「面白くない」「絵(文章)が下手」といった、主張や言論以外の部分を批判する人もいるが、作者の信ぴょう性を棄損して主張を貶めようとするという点では見城氏と同じではないか。

 さらに言えば、「マンガではない」という批判には「保護するに値しない表現だから排除してもいい」という発想が含まれているように見える。そうであれば、表現規制という点で見城氏よりも過激であるといえる。

 自由であるからこそ様々な表現があるわけで、気に入らない表現があるからといって自由を手放すような行いをするべきではない。たとえ内容や主張が気に入らない表現に出会っても、批判は内容や主張だけにとどめるべきだ。同じ穴のむじなにならないために。


 わたしはとりあえず『ヒッキーヒッキーシェイク』予約します。


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