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”部活のマネージャー的な会社の代表がいてもいいんじゃない?”っておはなし

弊社株式会社おいかぜの20周年まであと2ヶ月と少しです。

最近の柴田の動きとしましては、5月から20周年の対談コンテンツの企画がスタートしておりまして、毎月いろいろな経営者の方と対談をさせていただいております。今現在、お二方との対談が終わったばかりですが、とても対談の内容がおもしろく、なによりボクが楽しくお話しをさせていただいております。公開に向けて広報室にて鋭意編集・制作中でございますので、ぜひ楽しみにお待ちいただけたらなぁ、たくさんの方に読んでいただけたらなぁ、と思っております。

今日は”部活のマネージャー”という役割を通した”だれかのおいかぜになる”について、ボクの考えていることをお話しできたらと。

30年くらい前、つまりは高校生のころ、ボクは硬式テニス部で部長をしていました。決して強豪校というわけではありませんでしたが、入部の時に基礎体力のセレクションがあったり、同じ部活の仲間が京都府のベスト8に入ったり、それなりにちゃんとしている、それなりに厳しい部活でした。厳しかったけれど、それはそれは楽しい日々だった、と思います。当時はNikeやReebokがテニス業界でも存在感を出しはじめていた頃で、アガシ!サンプラス!マイケル・チャン!って時代でした。ボクはチビならみんな憧れるマイケル・チャンに憧れていたわけですが。懐かしいですね。

ボクはプレイヤーとしては凡庸でした。特別に秀でたところはなかったものの、ある一定レベルまでのスキルの習得の速さと、とにかく先生や先輩に気に入られる性分で、自分では「ボクが部長じゃない気がするんだけどなぁ…」という気持ちを抱えながら、頼まれたら断れない性格もあいまって、2年生の後半から部長職をがんばっていました。

テニスが上手くなりたくて、毎日練習をして、朝練なんかもこなしながら、みんながどんな内容だったらモチベーションが上がるか工夫して練習メニューを考えたり、コート整備のシフトを組んだり、練習中の仕切りはもちろん、練習試合や公式試合のいろいろなこともやっていたと思います。ボクはどうも意見を言いやすいリーダーなのか文句まじりの「もっとこんな練習やったほうがいいんじゃないか?」みたいな意見をよくもらいました。

そして部活には同じ学年の女子マネージャーが2人いました。その2人が練習や試合でのいろいろなサポートをしてくれていました。お茶をつくってくれたり、スコアをつけてくれたり、他にもいろいろしてくれていたはずなのですが、実はボクは彼女たちの細かい仕事内容が思い出せない。もちろん当時は(そして今も)彼女たちにとても感謝をしていたはずです。ボクは自分のことで精一杯だったわけで、それを理由にしちゃダメだけど、たぶん主体的にマネージャーたちの仕事を捉えられていなかった。だからあんまり詳細を覚えていないんじゃないかなという想像です。

そして当時ボク自身が、部活に関わるうえで、プレイヤーではなくマネージャーを選択する理由がよくわからなかった。なんでプレイする側に立たないんだろう?こっちのほうがおもしろいのになぁというとても浅はかな若い発想ですね。そんなこともボクの今の想像を補強する材料になりそうです。

実は最近よく部活のマネージャーたちの気持ちについてよく考えます。自分がプレーせずにサポートする立場の気持ちについての想像です。正確に書くと”だれかのおいかぜになる”を言語化するプロセスにおいて、彼女たちがマネージャーという役割を選んだ気持ちについての想像です。

”ボクがサポートすることで、プレイヤーたちが自身のプレーだけに集中できる・高いパフォーマンスを発揮できる・試合で活躍できる、それがボクのやり甲斐であり、喜びになる。”

いまならこの気持ちがすごくよくわかる。むしろいまの自分はプレイヤーではなくマネージャーの立場、そして”だれかのおいかぜ”になりたい立場である。

当時の彼女たちの気持ちを想像していると「ん?16歳とかそのくらいの年齢で”だれかのおいかぜ”になりたいって考えている人ってすごいのではないだろうか?」というところに辿り着きます。つまりはその若さで自分の置かれた環境を俯瞰して自分の役割を自認しているわけで、プレイヤーではなくマネージャーでありたいと思える視座がある。運動が苦手とか好きではないということがあったとしても部活におけるマネージャーつまり”だれかのおいかぜになる”役割を選択をしているわけですから。

ここからのボクの言い分は言わずもがなだと思いますが、最近のボクのマインドセットや実際の動きは部活のマネージャー的だなぁとつくづく感じています。部活のマネージャーといってもいろいろな人がいるだろうからボクの中でのアレゴリーとしての”部活のマネージャー”かもしれないけれど。

例えば、おいかぜでは社長つまりはリーダーではあるけれど、案件への主体性はスタッフのみんなが担ってくれる、ボクは案件の細部における動きを円滑にする役割。最近はボク単独でパートナーさんと動いている案件もあるけれど、これもボクは主体から半身ズラしていて、やっぱり”おいかぜ”的な動きだったりします。”おぉ。ボクめちゃくちゃおいかぜだなぁ”って思いながら毎日仕事をしています。

例えば私的なところだと子育てでしょうか。うちの4人の子どもたちにとっても部活のマネージャー的でありたいなぁと思っていて、ボクは指導するような立場ではなくて環境を整えたり方向性を指し示すような存在です。日々暮らすうえで、勉強をしたりスポーツに勤しんだりするうえで”スムースである・整っている・不足していない”というような状況と状態をつくることがボクの役割です。

でもそれらは言い換えるとボクには整える役割や円滑にする役割しかできないだろうなとも思うのです。

ボクは高校生の頃に”だれかのおいかぜになる”なんて素敵なことは考えていたわけではありません。でもたぶんその礎はそのころからあったんだと思います。自分が置かれた環境や周りの人を見て自分の役割を探す癖みたいなことはあった。部長として”だれかのおいかぜ”的な動きになっていたんだと思います。でも高校生のボクはプレイヤーとして活躍・成長したかったはずで、その意識も強かったから”プレイヤー>マネージャー”というバランスだった。それが大学生になってサラリーマンになって自分のやりたいことが見つかって会社を立ち上げて、時間をかけて”プレイヤー<マネージャー”となってる、そんな気がします。

何に対してプレイヤーか?ということはあるけれど、ボクのおいかぜにおけるお客さんに向けたモノづくりについてのプレイヤーという意味ではボクはプレイヤーというよりマネージャーと名乗る方がしっくりきます。そしてボクのマインドセットは”部活のマネージャー”的な社長です。

あのころのボクをサポートしてくれていた部活のマネージャーを思い出しながら、そしてかつてテニスをしていたボクをサポートする気持ちで”だれかのおいかぜなる”ってことを体現していきたい、そしてそういう役割やマインドセットの価値に光を当てていきたいと思っています。

”だれかのおいかぜになる”という言葉は考えれば考えるほど、言語化しようとすればするほど、とてもおもしろいなと思います。自分の年齢や状況に応じて、捉え方が変わってくる。おいかぜのプロダクションやプラットフォームソリューションの事業の視点で見るとディレクターやデザイナーやエンジニアはプレイヤーでありながらお客さんにとってはサポーター、おいかぜのはたらくデザインという視点で見るとシンプルにサポーターです。そして今のボクはシンプルに一方向にサポーターではなく全方位的にサポーターってことになるんじゃないかな。

”部活のマネージャー”的な会社の代表ってなんだかややこしいかもしれないけれど、ボクにはこういう感じでしかやっていけないんだから仕方ない、開き直ってその道を突き詰めていこうと思っています。

Photo : Yukina Yokoi



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