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濱口竜介監督『悪は存在しない』を観てきた(ネタバレあり)

あ〜あ〜こういうパターンの反動的なやつね、という映画だった。

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冒頭の薪割りシーンの退屈な長回しから、とにかく長回しすればテオ・アンゲロプロスにでもなれると思っているのかという感じで、かなり鼻についたのだが、グランピング説明会で、住民と開発業者が揉め始めた辺りから、少し面白くなった。

コロナの助成金目当てにグランピング事業を始める芸能プロダクションの社員の高橋と黛のファスト人間っぷり、神の怒りをかったというのがこの映画のテーマである。

是枝監督の『怪物』と同じく本作は、諏訪圏フィルムコミッションの協力で撮影されている。


新海誠監督の『君の名は』も諏訪湖周辺がモデルになっているのだが、本作は、同じような諏訪大社系スピリチュアル映画だと思った。

信州在住の私が、鹿の水飲み場の池を見て、思ったのが茅野にある御射鹿池のことだった。東山魁夷の絵画で有名である。

「御射鹿池」の名は、諏訪大社に伝わる神に捧げるための鹿を射るという神事、御射山御狩神事にその名前の由来があると云われている。諏訪大明神が狩りをする場所として「神野」と呼ばれ神聖な土地であった。

Wikipedia『御射鹿池』


ネタバレすると、グランピング場予定地が、神に奉納されるべき鹿の生息地を侵犯するという禁忌を犯したので、グランピング場開発業者の高橋がスリーパーホールドで落とされるというラストなのである。


冒頭、猟銃で撃たれ死んで、白骨化している子鹿が、ラストで行方不明になった安村花という女の子のメタファーである。要するに、伏線である。

そして、彼女の前に立ちはだかる親子の鹿の、手負いの母鹿は彼女の母親のメタファーなのであろう。母鹿は、背中に銃弾を受けて傷んでいる。

花の母親(この世にいるのか、別居しているのかわからないが、おそらく死んでいるのだろう)が鹿に変身して、現れたのである。

なんだか、新海誠の『すずめの戸締まり』みたいなものである。あれもドアが、此岸と黄泉の国の境界になっていた。


父親が学童に迎えに行くのを忘れて、花は一人で帰宅の途につき、森で神隠しにあった。母の化身としての母鹿が黄泉の国から迎えにきたのだ。神隠しという『千と千尋』みたいな展開である。

全てが既視感満載である。


このような鹿の親子と安村親子の相関関係は、村上春樹氏もよくやるテクニックである。アニメによくある神話構造をパラレルに配置したストーリー構成であり、神話との相関関係を利用した、物語の重層化である。

安村巧という主人公の便利屋は、森に迷い込んだ花を捜索しているうちに神懸ってきて、花と鹿親子が遭遇している光景を目撃する。

そして、彼は、タブーを犯したことで、死んだ嫁さんを黄泉の国から鹿親子にして召喚したであろう高橋にブチギレ、神域を侵犯した高橋ら開発御者への神の怒りを代弁して、この因果の原因となった開発業者の高橋をチョークスリーパーしたので絞め落としたのである。

そういう話だと思った。

この映画の真の主人公は「諏訪大社」の神である。

つまりは、神域を犯した都会のファスト人間を、諏訪大社の神が安村親子の肉体を借りて懲らしめるという、もう、どうしようもない反動的なスピリチュアル映画である。

私がこの映画を観ながら思い出したのは『古事記』ある伊吹山で白い猪に化けた荒振神とヤマトタケルが出会った話とか、柳田國男の『山の人生』の21にある大鹿を追いかけてくる山姥の話とか『遠野物語』61の

同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢へり。白鹿は神なりと云ふあれば、若し傷けて殺すこと能はずは、必ず祟りあるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りて之を撃つに、手応えはあれども鹿少しも動かず。此時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時の為に用意したる黄金の丸を取出し、これに蓬を巻き附けて打ち放したれど、鹿は猶動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮せる者が、石と鹿とを見誤るべくも非ず、全く魔障の仕業なりけりと、此時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきと云ふ。

遠野物語』61

という白い鹿のエピソードである。


私が睨んだところでは、こういうのが濱口監督の捻り出したプロットの元ネタと思しいのだが、ネタ元が、私にはごく凡庸だと思えたし、海外映画祭が、こういうプロットをありがたがるようになった反動的な傾向があることに心底がっかりする。

映画で「神」を描くというのはいかがなもんだろう。

そういうのを忌避して、土着的な神話や叙情を限界まで廃したゴダールや大島渚に謝れ、とまでは思わないが、社会派意識が鼻につく今村昌平の作品でもでもこんなコテコテな土着的設定の映画は撮らない。

ヌーヴェルバーグのユマニズムみたいなものが失われて、こんな土着反動的な映画が世界中に増えてきたことに、映画業界の権威主義的傾向を見て私はゾッとしたのである。

評論家の蓮實重彦が主人公の親子の関係を中心に、「帽子を脱ぐ」といった仕草に注目した独自の読解を展開、「名高いスターなど一人も出ていないのに絶対見る価値のある稀有な作品」と高く評価している[23]

Wikipedia『悪は存在しない』より引用

蓮實重彦の焼きの回ったティマニスムじゃ、「帽子を脱ぐ」とかどうでもいい仕草を、もったいぶって論評することしかできやしない。

蓮實重彦が酷評した今村昌平の『楢山節考』とどっこいどっこいの土着的テーマ優先の凡庸な映画ではないだろうか。

作品の構想のファストぶりが、グランピング場開発業者のファストっぷりと変わらない。

高速のって信州までそばを食いにくる趣味のいい都会のインテリが人工的にこしらえたファストなプロットという感じの映画だった。


悪は存在しない、神も存在しない、そして、人間も存在しない。

それは、なぜか、

すべてはファストなだけだから。

(おわり)

お志有難うございます。