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執務室にウイスキーと拳銃

昨晩(2021.8.14)放送していたHNKスペシャルの『銃後の女性たち 戦争にのめり込んだ“普通の人々”』を視聴した。

国防婦人会を組織して、出征した兵士を見送ったり、移動する兵隊にお茶を差し入れたり、銃後で、隣組の監視などに精を出す、主婦の戦中の活動が紹介されていた。

従来は家で「嫁」と言う従属的な立場に甘んじていた主婦が、戦時の国家家族主義の強化で、家への奉仕が国家の奉仕へと変わり、社会参加をはじめる。

その社会参加に、充実感をおぼえてのめり込んでいく様子が取材されていた。

主婦たちは、国家総動員法に基づく国家への奉仕でもって、まるで家制度から解放されたような錯覚でもって、国防婦人会に励んだケースがあったそうだ。


また、学校の先生だった女性が、戦前、教室で軍国主義教育をしたことを後悔して、戦後教壇に立つのをやめたというエピソードが紹介されていた。

人間、辻褄の合わないことをしてしまうというのは、誰しもある。


(引用はじめ)

高射砲台を受け持っていた一人は拳銃をみがいていた。彼は防備隊に突込んできた敵の急降下爆撃機にも姿をかがめず何幾かをうち落としたその勇気が私の耳にもきこえていただけでなく、予備学生のときにも環境にたじろがないいさぎよさがあって私は目をみはって見ていた。彼は転勤のときのように散らした個室の中で椅子に腰かけ、分解した拳銃をみがきながら、予備学生のとき習慣付けられた二人称を使って言った。
「何かたくらんでいるといううわさだぞ。やるのか」
と、重ねていったので私は返事をした。
「何もたくらんでなんぞいないよ。俺のところには拳銃もないんだ。二百三十キログラムの炸薬(さくやく)だけだ。でも何もしないよ」
「まあ、そう言うことにしとくよ。とにかくよキサマはうらやましいよ」
そして早く帰ることをうながす具合に手もとを乱暴に動かす様子が見えたから、彼に別れてそこを出たがその拳銃を使って彼が何をしようとしていたのか、分かったわけではない。

『出発は遂に訪れず』 島尾敏雄 
新潮文庫 P384-385


(引用おわり)

この一節を読んで、丸山真男のどの論文だったか忘れたが、ドイツ人将校なら、敗戦の際、執務室にウイスキーと拳銃が用意されているだろう、と言う意味のことが書いてあったのを思い出した。

S中尉の同期は、分解した拳銃をみがきながら、自決を思っていたのだろうか?


責任を取るなら、上官以下皆ウイスキーの酔いの勢いでこめかみを撃ち抜いて責任を取るべきだ。


しかし、無条件降伏を受け入れたとなれば、敵の裁きを受けるほかない。


敵に裁かれたくなければ、自分で自分を裁くしかない。

特攻の決行を迫って武器を手する部下があったらどうするかという問題が、触れられてはいるが、この拳銃は、自決用のものではないかと思った。

しかし、この拳銃を磨くという思いつめた行為の裏に、そこはかとなく、責任の取り方を曖昧にしている阿吽の呼吸のような瞞着を感じた。

玉音放送の後に防備隊の拳銃を磨いていた彼が、その後自決したかはわからない。

無条件降伏で特攻作戦を取りやめるというのが、そもそも辻褄が合わないことだ。

沖縄戦で住民には、手榴弾を渡して、自決を迫った軍隊が、無条件降伏で、特攻をやめて、戦後社会に復帰するというのが、辻褄の合うことだろうか。

少なくとも特攻作戦を指揮した軍部の指導者は、自決しなければ、辻褄が合わない、と私は思うが、最初から辻褄がなどなかったのである。

大岡昇平の『野火』にも病気にかかった主人公が手榴弾での自決を、お前に残された最後のご奉公だ。と上官に諭されるシーンがあったのを思い出した。

足手まといになるものは自決を迫られるのである。


まあ、結局誰も、責任なんぞとれないし、軍部の上官クラスでも、一部自決したものもいるのかもしれないが、大方の中間管理職的な軍人、政治的指導者は辻褄の合わないことを、心では一応反省して、自決もせず、戦後再出発したのだろう。

お国のために命を捧げたのだから、お国がマイッタすれば、お国の判断に従い、お国が、占領軍に判断を仰げば、従容として占領軍に判断を仰ぐのだろう。

個人の判断などない。

大尉や中尉や学校の先生レベルの中間管理職が責任をとれといっても、とれない。敵の裁きを待つだけだろう。

反省もしていないが、反省のポーズだけして、ごまかしたの者もたくさんあるかもしれない。


もし自分が、特攻作戦に関わった人間だったら、自決しただろうか。

しない。敗戦後、被害者ぶると思う。


結局、辻褄の合わないことを先送りして日本歴史は進んでいるのだ。


自給自足の生存圏の維持、つまり自衛のために戦争して、なんで最後は特攻作戦を強いるのかも、よく考えれば辻褄が合わない。


指導している人間が、神がかっていて、開戦当初から論理破綻したのだ。


今でも、辻褄の合わない政治判断は、見かける。

コロナ対策しながら、オリンピックとか、全然辻褄合わないが、なんとなく進んでいるのである。

しかし、辻褄の合わないことしてるやつは、この平和な社会では、逐一批判されるべきだ。

そして、一貫性のない言動で開き直っているやつは批判すべきだ。

万が一責任を取るべき局面が現れれば、彼らの執務室には執務室にウイスキーと拳銃を用意してやらなければならない。

戦後社会に生きるもののせめてもの務めだと思う。


(おわり)

お志有難うございます。