想像の共同体
(引用はじめ)
つまり国民(ネーション)と国民主義(ナショナリズム)は「自由主義」や「ファシズム」の同類として扱うよりも「親族」や「宗教」の同類として扱ったほうが話は簡単なのだ。
そこでここでは、人類学的精神で (「親族」や「宗教」を定義するように)国民を次のように定めることにしよう。国民はイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(イマジンド・ポリティカル・コミュニティ)であるーーそしてそれは、本来的に限定され、かつ主権的なもの(最高の意思決定主体)として想像されると。
『定本 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』
ベネディクト・アンダーソン著
白石隆・白石さや訳 書籍工房早山 P.24
(引用おわり)
この本によると、「日本国民である」とか、「日本人として」とか、「日本」という言葉を簡単に使っているが、この「日本」という言葉は、何か実体として存在しているのではなく、親族として扱ったほうが、話は簡単になるということだ。
家族や親族のつながりとは何か?
同じご先祖様を持ち、血縁関係でつながっているようなイメージである。
実際に顔かたちや声や仕草が似ていたりするので、同類で同胞であるというイメージは持ちやすい。
しかし、日本人といっても、顔かたちや声や仕草が同じイメージで想像されるわけではない。
結構、漠然としている。
オードリー・ヘップバーン主演の映画『ティファニーで朝食を』を観ていたら、背が低くメガネをかけていて出っ歯の日本人男性が描かれていた。
これが大方のアメリカ人が戦後まもなく抱いていた、日本人のイメージなのだろうと思うとなんだか、げんなりした。
NHKの『映像の世紀』で、当時のアメリカのニュース映画見れば、確かに、日本兵は、背が低くメガネをかけていて出っ歯であった。
しかし、私たちは日本人男性をそんなふうにはイメージしていない。
それでも、イメージしようとすれば、丸の内を通勤で歩いているサラリーマンの男性みたいに漠然とイメージせざるをえない。
こんな感じで、なんだか、簡単なイメージで「だいたいの同じ日本人で同胞である」と、意識しているのだ。
突き詰めてみると、グロテスクことである。
典型的な日本人男性なんか、本当は存在していない。
でも存在しているように、頭で想像して、私たちは生きているのである。
仮に、選挙の素人や、商売の素人が、無党派層の有権者やら見込み客やら想像してくださいと言われれば、この典型的な日本人男性が、どこかから捏造されて、現れるだろう。
存在するのか怪しいような、典型的な日本人男性をイメージして、選挙戦や顧客マーケティングやろうとするそのグロテスクは、何も素人だけが、選挙活動や商売をやろうとするときに陥る罠ではない。
おそらく、政治家が、日本人に呼びかけるときも、具体的な個人ではなく、頭の中にイメージされた国民に呼びかけていることが多いだろう。
『国民はイメージとして心に描かれた想像の政治共同体(イマジンド・ポリティカル・コミュニティ)である』
その想像の国民に向けたメッセージが、どれも白々しくなるのは、やむをえないことだ。
「かのように」で国民が想像され、話が進んでいるとすれば、あとは、政治家が、語りかけている国民が、本当に存在しているかのような迫真の演技が、ポイントになる。
賢明なる読者の皆さん、
今このコラムを読んでくれている、そこのあなた、(誰だよ?)
そうではないですか?
(おわり)
お志有難うございます。