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ヴェルコール『海の沈黙』読書会 (2024.7.5)

2024.7.5に行ったヴェルコール『海の沈黙』読書会の模様です。

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2004年版の映画です。

ジャン=ピエール・メルヴィル監督版(一部)



アメリカ文化に溶け込んだ大和魂

こういうタイトルで感想文を書くと憂国の士を気取る薄っぺらいネット上の保守みたいである。

二回読んで思ったのは、安岡章太郎の『ガラスの靴』という短編のことだった。戦後米軍中佐に接収された家屋で、留守番を任されて、家主がでかけている間に豊富な食料を飲み食いしていちゃつく日本人の少年少女の話だった。

接収された家屋で、頑なに沈黙を守って抵抗した『海の沈黙』のフランス人のおじさんと姪に比べれば、『ガラスの靴』の少年少女は、あまりに子供っぽい。抵抗など思いつきもしない。

日本人の家屋が接収されているという現実そのものからの逃避が、安岡章太郎が甘ったるく描いた少年少女のおままごとのシーンによく表れている。マッカーサーは日本人の精神年齢が12歳だといったらしいが、『ガラスの靴』には、幼児退行で現実逃避する日本人の精神構造が浮き彫りになっている。

『海と沈黙』の無言劇の中に、敗戦後の日本人の抵抗というのはどこにあったのだろう、という反省をビシビシ感じた。

『戦争と平和』ではないが、ロシア人であればモスクワを自らの手で焼いて放棄してでも、ナポレオンに抵抗したのである。

日本人は、カミカゼアタックで時間を稼ぎながら、松代に大本営を掘ったまではいいが、原爆二発とソ連の満州侵攻で白旗をあげて、敗戦後7年に渡るGHQの占領下では、なんのレジスタンスもなかったのである。サンフランシスコ講和条約で独立した後も、長いものに巻かれろという態度で、アメリカと軍事的にも一体化してもう70年以上が過ぎている。日本の安全保障のために駐留米軍にいつまでもいてほしいという精神のどこに抵抗があるのだろうか?

レジスタンスというのは、大変なことだ。歴史上、何度も首都パリを占領された経験のある国だからできることだ。

また、フランス人が皆レジスタンスを戦ったわけではなく、ほんの少数だけであることは知っているが、ヴェルコールの『海の沈黙』は、やはりヨーロッパの戦いの歴史や政治の伝統がなければ、表れえないような抵抗の形である。

教養の深いドイツ人将校に絶対に絆されないあの二人の頑強な抵抗の精神に、現代の日本人が心から共感するのは、不可能である。日本人は、日本人の大和魂を、もう一度深く鍛え直さなければ、このおじさんと姪の沈黙を自分たちのものにできない。

そうは言っても、日本人にも日本人なりの『海の沈黙』があるのだと、信じたい。(のは山々であるが、てめえの沈黙を鍛えて、はや幾星霜、そのうち白髪三千丈である)

(おわり)

読書会の模様です。


安岡章太郎『ガラスの靴』所収



お志有難うございます。